07.距離
リンは自分や母親が見た女の子の幽霊の話に、薄いリアクションをしていたはずの父親と弟に腹を立てた。
――ふたりとも、しっかり見てたんじゃんか。
スイカを取りに来たダイスケが二階にあがったのを不審に思った。
あとをつけ、壁に耳を当てれば京都弁まじりに話す女の子の声。
ユウキがモールがどんなところかと解説し、「楽しみやわあ」などと聞こえた。
普段、ちょっとした旅行以外の外出――近所に買い物に行くとか、外食に出るとき――だって、長女であるリンには当然、声がかかるものだ。
リンは人混みが苦手で、自分が特別欲しいものがある場合を除いては、モールなどには行かない。外出が昼食を挟む場合でも、適当に済ませると言って断る。
それでも、父は確認だけは絶対にする。
――モールだって。見ず知らずの、それも幽霊の子と!
ところが今回は、一向に声がかからないうえに、朝っぱらから父親と弟のひそひそ話なんて気色の悪いものを見せられ、「虫捕りに出かけてくる」なんて、とっくに飽きたはずのガキの遊びを使ったダミーの宣言を聞かされたのだった。
まったく腹立たしい。幽霊騒ぎの件は、リンだって当事者だ。
だが、仮に声がかかったら行くと言えただろうか。
つい先月、友達と休日に映画館に出かけたときに、めまいがして倒れそうになったのも記憶に新しい。あそこは初めて行った映画館だった。
――今日は、ぜんぜん知らない遠くのモール。でも、行きたい。
リンは迷った末に蜂起した。
急いで仕度を済ませ、先回りをしてダイスケの車に寄りかかって腕を組んで待ちかまえてやった。
小走りに家を飛び出してきた弟は引きつった笑いになり、「ねーちゃん、どうしたの?」と訊ねた。
姉は冷めた視線を向けてやり、「おばけの、サチコ」とだけ答えてやった。
ユウキは石像のようになった。ちょっと面白い。
続いて現れた父親もまた軍隊の訓練よろしく駆け足で車にやってきた。
飛んで火にいる夏の虫である。「モールでカブトムシでも買うの? 蚊でいいなら昨日、ニ十匹は捕ったよ」と、ユーモアと厭味を混ぜこんで言ってやった。
ダイスケの目も羽虫を追うように宙を泳いだ。
ぶるり、リンのスマホが振動する。
『ごめん。詳しいことはあとで話すから、アイには内緒で』
『頼む姉ちゃん、お母さんには言わないで』
両方ともウサギのキャラクターが手を合わせているイラスト付きだ。
メッセージを送信してきた当人たちも同じポーズ。ため息が出る。
ところが、息を吐き切らないうちに、ひゅっと吸うほうに切り替える羽目となった。
車の中に何かが見えた。
赤地に白い花柄。あれは、牡丹の花。
「って、おるし! 神社に迎えに行くって言ったやん!」
車の反対側でユウキがツッコミを入れていた。
リンは、この場合は私が助手席に座ったほうがいいのか、なんて思ったが、あえてそのまま乗りこみ、幽霊の少女の隣に座ることにした。
「おはよう、サチコちゃん」
見知った間柄という感じで挨拶をしてやった。
おかっぱの少女は目をぱちくりやったあと、「おはようございます」とちょこんと頭を下げた。座敷や畳だったなら、両手をついて挨拶をしそうだと思った。
「可愛い着物だね」
リンは自分から積極的に関係を築くタイプではない。
だが、今回は別だ。おばけのサチコとは距離を縮めてみる気でいた。
ユウキも同じ列のシートに座る気らしく、サチコに「詰めてよ」と言っている。
「おおきに、えーっと……」
「佐藤凛。ユウキの姉で、中三。名前は好きに呼んで」
努めて笑顔を向ける。
だが少女は「チューサン」と言って首をかしげた。雀がよくそうやるように。
弟が「ねーちゃん、国民学校、昔の人」と注釈を入れた。
「そっか、今とは学校の呼びかたが違うんだっけ? 十四歳だよ」
「私は、雀部幸子。初等科の五年生でした。歳は……十です」
ぺこりと再び丁寧なお辞儀。
「僕は佐藤大輔。ふたりの父親で、最近四十になったところです」
父親が何か言っている。調子に乗っているときのノリだ。
弟も続いて自己紹介をしようとしたようだが、「早く行こ、お母さん騒ぐよ」と流してやった。
出発だ。大丈夫だろうか。不安がよぎる。
だが、車が祖父母の家の敷地から出ると、空気が軽くなるのを感じた。
運転手は冗談を飛ばしつつも、駐車場代わりの庭でハンドルを切るさいには、縁側を鋭く睨んでいた。
それから、リンに「アイにいい感じの言い訳を」というオーダーもした。
リンは父親に「普段から、こんな頼りがいのある感じをしていてくれたらいいのに」と思う。
窓の外、伸びた稲が草原のようになった景色が、素早く流れていく。
リンは思った。あいつは決して私には追いつけないだろう。
この車なら、田んぼから抜け出してよその世界へと行けるんだ。
リンは窓から目を離し、お隣さんを相手にすることにした。
「サチコちゃん、そんな固くならなくていいよ」
背筋をぴんと伸ばし、そろえた膝の上にこぶしを乗っけて座る少女。
意識を向けて初めて気づいたが、彼女には「温度」があるようだった。
幽霊らしいが、確かに隣に座っている。ホラーな冷気ではなく、温かな人の体温。
「姉さん、おおきに。せやけど、気ぃつけてないとあかん……」
サチコの発言の後半部分はリンの耳に入っていなかった。
――姉さん。
最近のユウキが呼ぶ「ねーちゃん」とは違う響き。
甘えるような、胸の中に、すっと忍びこんで、くすぐってくるような。
整ったおかっぱ頭を撫でてやりたい。膝の上で握られた小さな手に触れてみたい。そんな気持ちになった。
ユウキが小さかったころの「ねーちゃん」にも似た響きがあったが、今やどこへやら、どこか押しのけるような、距離を作ろうとするような「ねーちゃん」だと感じる。
――それは、私が変わったからだろうか、ユウキが変わったせいだろうか。
「わーーっ! お父さん、サチコが!」
なんぞユウキが叫んだ。リンも硬直してまばたきをした。
サチコが消えていたのだ。
車が止まると、後方から「待ってぇーなぁー!」の声。
モールに着くまでの道中は、なかなかの騒ぎだった。
サチコは気を張ってないと、動く車のシートに座っていられないらしく、ちょっとした拍子に座席をすり抜けてはるか後方になったり、カーブや急停車についてこられず、すっ飛んだりした。
別にそれで彼女が怪我をすることはないようだったが、ほかの車や目撃者がいなかったことに感謝をしなくてはならなかった。
次第に男どもは慣れてきたのか、「ゲームがこんなふうにバグることあるよね」だとか、「加速度や重力の影響はどう受けてるんだろう。サチコちゃんの質量は?」などと口にした。
「サチコちゃん、体重はいくつだい?」
「失礼だぞ、父さん!」
あっ、サチコが交差点のブレーキでフロントガラスをすり抜けてふっ飛んでった。
「今のは運動エネルギーが効いてたね」
「サチコの心配をしてよ!」
リンとしては落ち着かないうえに、会話に集中できないのは面白くない。
ユウキとダイスケは、サチコの「幽霊」に関しての質問ばかりだ。
リンの興味の矛先はそちらではなく、彼女の出自や着物などのほうだった。
「サチコちゃんのその着物って、特別なもの?」
「これは、お母ちゃんに仕立ててもろたとっておきや」
リンは「よく似合ってるよ」とだけ言い、それ以上深くは訊ねられなかった。
目頭が熱くなってしまったからだ。
サチコにとっては、さぞかし大切な品なのだろう。
死後も大切に身にまとう母の形見。
いや、形見というのは先走った勝手な妄想だが。
この子は、「着物と一緒に死んだ」可能性もある。どうだろう、それは無いか。
ともかく、この着物はどう見ても、晴れの日に着る特別なものだ。
七五三だとか、ひな祭りだとか。普段着にするにはあまりにも華やかすぎる。
花の王者たる牡丹には「富」や「幸福」の意味がある。
サチコの字は「幸子」と当てるのだろう。現代となっては古臭く、飾りけの無いものであるが、こめられた意図を手繰れば単純で素直な命名にも美を感じられる。
――でも、私の名前は。
凛。母が付けてくれた名前。
少し前までは嫌いじゃなかった。自分で書けるようになったときは、ちょっとした自慢だった。初めて文章の中で見つけたのは、「凛と澄んだ小川」で、以来、自分の名を見るたびに遠くまで澄み渡る綺麗な水をイメージできた。
辞書で調べる機会があり、最近になって凛の字の意味を知った。
文学からすっかり知った気になっていたが、「厳しい」、「寒い」といった意味もあった。
さんずいは水だが、にすいは氷を意味する。
ミネラルウォーターの入ったコップに墨汁を垂らされた気持ちになった。
名付けてくれた母も遠くにいった気がして久しい。
今回の外出に母だけ除け者にするのに気が咎めなかったのも、そのせいだと思っている。
いや、そもそものところ、リンにとっては父も母も「いないもの」だった。
――じっさい、濁ってるし。穢れてるし。
落とされた墨汁は溶け残り、そこに沈殿し始めていた。
墨汁? それどころかこれは、「泥」だ。
――こんなんじゃやっぱり、モールになんて行けない。
リンは急に下腹が痛くなって、抑えこんだ。
とっさに、さっきの「姉さん」を反芻する。
そう呼ばれたとき、穢れた水が、すっと浄化されたような気がしたからだ。
もう一度、「姉さん」と呼んでくれないだろうか。
サチコは気張った顔をしてシートに身体を固定しながら、男どもに返事をしている。
――なんだかバカっぽい。ううん、可愛いな。
ふっと、ため息。痛みが引いていく。
本当は叱ってやるつもりだったのに。
おばけの起こした騒動に、厭味のひとつでも言ってやるつもりだったのに。
「サチコちゃんは、温度とかって分かるの?」
理系の父が質問した。
「夏は暑いなあ。川の水は冷たくて気持ちええから、よく浸かっとるなあ」
「濡れないの?」
「触らへん感じに浸かったら、濡れへんなあ」
「便利だなあ。幽霊が水場によく出るのって、涼んでるからだったり?」
「さー? ほかの幽霊には会ったことあらへんし……」
「だったら、冬はお風呂に現れたり?」
お風呂。ユウキが余計なことを言った。
リンは、ちらとお騒がせ幽霊を見た。
サチコもまた、同時にこちらを見ていた。
「……」
何か言いたげだった。謝ろうとしている気配がある。
じつを言うとリンは昨晩、サチコにまた遭っていた。
お風呂に入っているときに、上のほうについている小窓を睨んでいたら、にょき! と彼女の顔が現れたのだ。
湯気の中で目が合った……と思う。
いっしゅん、タツヤが黄泉の国から帰って来たのだと思った。
自宅では欠かさない入浴剤はここにはなく、湯が肉体を隠していないことを思い出し、震えあがった。
けれど現れた顔は、同じ死者でも年下の女の子のものだった。
ついでに言うと、サチコは物置き部屋から出るときも、リンの前をどうどうと壁をすり抜けて横切っていた。
リンは悲鳴を押し殺しながらも、幽霊の笑顔で膨らんだほっぺたに濡れた一筋をつけているのを見た。
加え、サチコはユウキたちと別れても、だらだらと家の周りを徘徊していたことも知っている。
その一端が風呂覗きだったし、祖父母宅に憑りついている感じもして嫌だったが、今ならばその行為はいじらしく、愛おしいものだと思えた。
「えーっと……」
黙って見つめたせいか、サチコが困っていた。叱られるのを待っていたのだろう。
リンは困惑した少女のこぶしの上に、そっと自分の手を重ねてやった。
――温かい。
それから、しーっと口の前で指を立て、男どもへの仕返しに秘密を作る。
サチコは、ぽっと頬を染めて、リンの重ねた手の上にさらに自身の手を添えた。
リンはもう一度、思う。
この子とは、仲良くなろう。きっと、何かが変わるはず。
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