06.密談
「な、なんでサチコがここに……」
ユウキはとっさに口の前で人差し指を立て、ダイスケを黙らせていた。
居間にいるみんなにまで知られれば、パニックは必至だ。
「なんでって、寂しなったさかいって言うたやーん」
サチコはにっこにこの笑顔だ。
「勝手に入ってきちゃダメだって。不法侵入だよ」
「堪忍して。次からは呼び鈴を押して玄関からにします」
幽霊が正式に訪ねるというのもシュールな図だが……。
「サチコさん、こんな遅い時間に出歩いちゃいけない。危険だし、法令的にも問題がある。親御さんも心配するよ」
父は父でトンチンカンなことを言っている。というか、生きた子どもだと思ってるようだ。サチコはそれを敏感に察したらしく不満顔になって、「両親はずーっと前に亡くなりました」と言い、さっと袖を振り上げて腕を壁へ突き入れてみせた。
「えっ!?」
またも親子そろって声をあげる。お互いに人差し指を立てて、沈黙を押し付け合った。ダイスケもまた、彼女を見られるとまずいという認識を持ったようだ。
「いややわぁ。ユウキくんも、まーた驚きはって」
言いつつも上機嫌の幽霊。何度見ても、びっくりするものはびっくりする。
幽霊さんは調子に乗ったらしく、今度は顔の半分を残して床の下へと沈み、目だけで笑ってみせた。
「て、手品じゃない……!」
「あはは、親子そろうておんなし反応してはる!」
廊下にサチコの声が弾む。ちょうど、居間のほうで笑いがあがったタイミングだったために、声は都合よく掻き消された。
「大きな声を出したらバレちゃうよ」
「バレたらダメなん? なんで?」
おかっぱ頭が傾く。
「なんでって……」
ユウキは言葉に詰まった。不法侵入だから?
幽霊に法律なんて通用しない。手錠だって牢屋の壁だってするりとすり抜ける。
うるさく心配する家族もいないときている。ほとんど最強のチートだ。
ダイスケに助けを求めようとしたが、彼は何やら虚ろな目をして、口の中で「幽霊なんていない」とぶつぶつ言っている。マンガやアニメで見るようなリアクションだ。
ユウキはふたりを二階の物置き部屋へと連れていくことにした。
ダイスケは応じてくれた。まだ呑みこみ切れていないようだったが、わざわざ宙に浮かんでついてくるサチコを眺めて口元を緩めたのも見た。
男と男の約束。ふたりの秘密。父と「悪い笑い」を交換し合うのを想像した。
物置き部屋には、祖父母よりも前の代から存在するような箪笥や、黄ばんでぱりぱりになった紙に包まれたよく分からない長物や、旧字体だらけの難しい書物などがしまいこまれている。
そういえば、ガラスのケースに入った日本人形も置いてあったはずだ。
あれもまたおかっぱで赤い着物。ユウキは、ガラスケースがからっぽになっていたら……などと考える。
開き戸を開けると、慣れ親しんだほこりっぽいにおいが、当のほこりとともに鼻に忍びこんだ。図書室や資料室もほこりっぽいが、それらとはまた別のにおいだ。
「あ、お人形はんや。うちにそっくりや。知らへんかったなあ」
黒いレバースイッチをあげて電気をつけると、サチコはすぐにリアクションをくれた。
箪笥の上のケースには日本人形が鎮座している。
どうやらあれが化けて出たわけではないらしい。
「ちょっと待てよ、知らへんかったって何?」
疑問をぶつけると、少女は得意げな顔を見せた。
サチコいわく、「ここらは知り尽くしてる」とのことだ。
あの神社を拠点にあちらこちらを飛び回り、不法侵入や盗み見、盗み聞きを繰り返しているのだとか。
この佐藤家にも侵入経験があるらしいが、窓がなく普段は明かりが点かないこの物置きのことは分からなかったらしい。
「視覚は生きた人間と同じなんだね。もしかして、物に触れたりもできるの?」
ダイスケが訊ねる。ユウキは「さっきそう言ったのに」と不満だったが、黙ってサチコに任せた。
サチコは箪笥の上のガラスケースにそっと両手を添え、床へと下ろした。
それからケースに被ったほこりを息で払って、生きた人間らしく咳きこむと、ガラスケースを開けずに中へ手を差し入れて、人形の髪を撫でてみせた。
ユウキは「ゲームの宝箱の鍵開けスキル並みに便利だ」と使い道を思索しようとしたが、察しのいい父親が「悪用厳禁だね」と先回りしてしまった。
まあ、同じことを考えていたのだから面白い。父親の顔を盗み見て頬を緩める。
ダイスケと一対一で何かをするのは珍しいことだった。いつもは「家族」で何かをしていたから。少年は父親がひとりの友人になった気がした。
ところが、彼の気持ちはそうそうに裏切られることとなった。
「じゃあ、うちの親父の言ってた近所の幽霊騒ぎも、きみの仕業だったのかい?」
咎めるようだった。口調も、顔も。おとなの顔だ。
サチコは「ええと」と言いかけたが、畳みかけるように「ユウキに憑りついたの?」。
「お父さん!」
ユウキが声をあげるも、父親は「きみは悪霊なのかな」と詰問を続けた。当の幽霊は正座になって、膝の上でこぶしを握ってダイスケの顔を見ている。
顔も赤く、まるっきり、叱られた子どもだった。
「私が悪霊かどうかは分からないんです」
ちゃんと芯の通った声だった。
「憑りつくっていうのが、どういうふうなのかも分かりません。人を驚かせたりしたことは、確かにあります。構って欲しかったからです。音をたてたり、姿を見せたりしました。でも、怪我をさせたりとかはしてないはずです。物を盗ったりもしてません。お父さんとお母さんは、そんな人間になったらいけないっていってましたから」
サチコは毅然と返答していた。
内容は確かに子どもじみた、幽霊らしい(?)ものであったが、その中にも、しつけの行き届いた気品らしきものを宿していた。
ひとつ年長のユウキは感心し、詰問者も途中から気圧されていたようだった。
だが、長くは続かなかったらしい。「ご迷惑をおかけしました」と手をつき頭を下げたときにはもう、声が震えてしまっていた。
さすがにダイスケも慌て、「きつく言って、ごめんね。僕が迷惑をかけられたわけじゃないし、うちの子に何もしてないなら、それでいいんだよ」と繕った。
彼はサチコの肩に触れようとしたようだったが、それは空を切っていた。
ユウキは今がチャンスだと思った。
「ねえ、お父さん。こっちにいるあいだ、サチコと遊んでいいよね?」
承諾は貰えたものの、「こいつめ」と言いたげな顔をされた。
ユウキとしても、また会う約束はしたものの、女の子相手ということで気恥ずかしさもあったし、本当に会えるかどうか疑っていたところでもあった。
渡りに船ってやつだ。それに、このままではサチコが可哀想だと思った。
それは……「別にサチコのことが好きとか、意識しているとか、そういうことじゃないぞ」ということのウェイトが大きかったが。
「ほ、ほんまに遊んでええの?」
サチコの目が輝いていた。それは比喩ではなく、本当に輝いていた。
瞳に溜まったものが揺れて、天井の電灯の光を乱反射させていた。
ダイスケが請け負うと、はらりとひと粒こぼし、「おおきに」と花開くように笑った。
ユウキ少年は自分自身に念を押した。
マンガのキャラクターに対しても、可哀想とかよかったねと思うことがあるのだから、ここに確かにいる幽霊に対して同情したって、ちっともおかしいことじゃない。
いや待て、じゃあ好きになるのもヘンじゃない……。
「でも、絶対にアイには知られたらダメだよ。心配するに決まってるから」
心配性の母の顔が浮ついた気持ちを振り払い、ユウキはまじめな顔でうなずく。
「約束する。サチコもうちのお母さんには姿を見せないようにね」
サチコは「はい」と快活に返事をした。母に知られると、最悪「お祓い」とか言いかねない。
父にしても、尋問の返答次第ではそうなっていただろう。
「おじいちゃんとおばあちゃんにもダメだ」
「なんで? 生きてる人間のふりをしたらいけそうだけど。っていうか、お母さんもそれなら平気じゃ?」
「うーん、確かにそうかもしれないけど……。でも、親父はこの辺の人間を全員知ってるだろうし、それにその姿じゃなあ……」
まっかな着物を着た少女を見て唸るダイスケ。
「サチコ、ほかに服は持ってないの?」
訊ねると、サチコもダイスケをまねるように「うーん」と唸った。
「ちょいと、うしろ向いてもらえへん?」
頼まれ、男ふたり背を向ける。「もうええよ」と言われて向き直ると、サチコは紅色のだぶついたズボンに赤紫と薄紫の矢羽根文様のシャツという服装に変わっていた。
袖と裾の両方が、きゅっと絞られているこの特徴的なシルエットは……。
「モンペって、これのことかあ」
ユウキは間の抜けた声をあげた。
昼間の会話では学校に苦情を言いまくる保護者のことだと勘違いしていた。
「これか、着物しかあらへん……」
「さすがにこれだと、まさに戦時中の幽霊だね。物に触れられるなら、服も着れるんじゃ?」
ダイスケの問いかけにまたも「うーん」。
サチコは日本人形の入ったケースに手を差し入れるとそれをつかみ、ケースを開けずに引っぱり出そうとした。人形はすり抜けないらしく、それをつかんだ手もそこで引っかかった。
サチコが触っている物まですり抜けることはない。
着物かモンペに限っては、念じればその姿になることができる、とのことだ。
透明になったり、そのまま移動したりするのも可能だといって、実演してみせた。
「もしもほかの服を着てついうっかり壁を抜けたりなんかすると、服だけが引っかかって残るわけだ。物理エンジンのバグみたいだね」
ダイスケは顎に手をやり、面白そうに少女を眺めている。
「意識せーへんと物には触られへんのです。慣れるまでは、上手にいかへんかったしなー……」
幽霊活動にも結構な苦労があるようだ。「地面を歩く」とか「どこかに座る」のも練習が必要だったらしい。脅かして遊べるようになるまで数年間の修業が必要だったとか。
「それなら、車には乗れるかな」
ダイスケが呟くと、サチコは「乗れます! 特訓しました!」と元気よく言った。
ユウキは、どこでどんなふうに特訓したのか訊いてみたい気もしたが、ぐっとこらえる。悪霊のほうに寄せた発言はさせないほうがいいだろうし。
「じゃあ、明日はサチコちゃんを連れてモールまで行ってみようか。行動制限とかはあったりする? 神社から離れられないとか」
「たぶん、ないと思います。知らんとこにひとりで行くのは怖いから、あんましやったことないけど……」
地縛霊というわけでもないらしい。
加えて、ユウキは父親の態度がすっかり軟化したのを感じて、胸をなでおろした。
――でも、ちょっとがっつきすぎだろ。
ダイスケは幽霊の「科学的な仕組み」に興味津々のようで、サチコにモールの約束を取り付けてからも、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「生きていたころと物の見えかたや音の聞こえかたが違うか」に始まり、「たぶん同じ?」とおかっぱをかしげられ、「眠ったりはするのか」と訊ねる。
「あんま動き回ると眠くなるなあ……」
あくびとともに返事。
「せやけど、寝てしまうと、次いつ起きてこられるか分からへんから……」
ユウキは父親がコメントしようとしたのをさえぎり、「ずっと起きてるってわけじゃないんだ?」と訊いた。
「うん。ぼーっとしとると、何年も経ってまうこともあるなあ」
サチコが死んでから八十年近くが経過している。
彼女は日中、「寂しい」と漏らしていた。
死後から今日まで、額面通りの時間を孤独で過ごしたわけじゃないんだと知ると、ユウキはかすかに慰められる気がした。
「食べ物を食べたりとかは?」
「お腹空かへんからなあ……」
ユウキは、どこかの家庭の団欒を遠巻きに眺める着物の少女を想像した。
その「どこかの家庭」は、吹き抜けのリビングでテーブルにデザートを広げ、パーティゲームに興じる佐藤家だった……。
全員がテレビ画面を見て、コントローラーを握って、ユウキは「ねーちゃんずるいぞ!」と言い、リンは「勝負だし」とほくそ笑む。それを見てほほえんでいるダイスケ。
アイは自分が操作しなくていいタイミングを見計らって、テーブルの上のカップを回収してキッチンの流しへ浸しに行く……。
「じゃあ……」
はたと、父親が次にするであろう質問に思い至り、意識を現実へ戻した。
寝る、食うと来たら次はあれだ。
さすがにお手洗いのことを聞くのはデリカシーに欠ける。
理系の父は今、「質問」というよりは「実験」だとか「検証」だとかいった気配を見せていた。
「試してみよう」
「お父さん!?」
思わずうわずった声をあげてしまう。
だが、ダイスケは首をかしげ、「おばあちゃんがスイカ切るって言ってたろ。ちょっと待ってろ」と言って、物置き部屋を出ていった。
妙な勘違いをしてしまった。頬が熱くなるのを感じる。
神社でサチコに「なんか悪いことしようとしはった?」と悪い笑いを向けられたのを思い出し、父親を追った視線を彼女のほうへ戻せないでいた。
「なあ、ユウキくん」
「ん……」
床を見て、サチコの顔は視界の端にしておく。
「おおきに。ありがとう」
いたずらっぽい笑みではなく、素直な可愛らしい笑顔だった。
具体的に何に対して礼を言われたのかは分からなかったが、「う、うん」と、どもりながら応じる。
ダイスケがスイカを乗せた皿を持ってくるまで、ふたりはひと言も言葉を交わさなかった。だが、年齢のことで言い合ったときとは違った、どこかむず痒いような、顔が勝手に笑いだしてまいそうな沈黙だった。
それからダイスケ博士による「実験」がおこなわれ、「食べようと思えば食べられる」という検証結果と、「美味しい!」という悲鳴にも似た歓声とともに、少年が思わず、くらっとしてしまう笑顔が出力された。
「スイカ、久しぶりやったわあ。おおきに、ほんまおおきになあ……」
おばけのサチコが笑う。口の端にスイカの種をくっつけて。
少年は思う。明日の外出も、楽しみだ。
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