04.浮遊
母親の悲鳴。佐藤の長女、凛はそれを鼻で笑った。
帰りの遅いユウキが死体にでもなって帰ってきたか。
彼女は急ぐわけでもなく、のろのろと玄関へと駆けつけた。
腰を抜かした母親と、それに寄り添う祖母。
父と弟は、ぽかんと口を開けてバカづらだ。
「お、女の子の幽霊……」
母親はユウキの頭上あたりを指差しているが、もちろん何もいない。
「アイさん大丈夫? 私がけったいなことゆーたせいかに……」
「い、いえ。いました、見ました! 赤い着物の! おかっぱの!」
こんなに怯えた母を見るのは初めてだ。リンはおもしろいと思う。
同じ心配にしても、母はもっと現実的な心配をするタイプだと認識していた。
登下校や外出のたびの「気をつけてね」は、蝿のようにぶんぶんと煩わしい。
そのくせ、サスペンスドラマや探偵マンガが好物だから、娘の身に何か起こって欲しいのかと気に障ることも珍しくない。
「赤い着物の女の子? 見間違いじゃない?」
父が頭上を振り返りながら否定する。
ユウキも靴をきっちりそろえてから玄関を見回した。
――バカみたい。
そう思った瞬間、玄関の引き戸がきゅるりと音を立てて開いた。
全員が動きを止める。
「なんや? 全員そろうて」
もちろん、幽霊ではない。佐藤茂。この家のあるじ、父方の祖父だ。
「アイさんが幽霊を見たって」
クミコが答えると、シゲルはだみ声で「だはは」と笑い、「おう、見た見た。ババアの幽霊。やーやんとこのお母やんや」と歌うように言った。
ダイスケが「赤い着物の女の子って言ってたけど」と補足すると、シゲルは「若いころの姿で出たんやろう」と迷いなく返した。
コンピューターオタクの父は、超常現象のたぐいを信じないたちだ。
旅行先で神社やお寺、伝説や伝承の解説をしながらも、いつも科学的解釈やケチをつけるのが趣味なのだ。
「ダイスケは隣のババアが怖いんやろ? 小さいころに柿を盗んで叱られたで」
「そんなことしてない!」
「うん、しとらんな。適当なことゆうた。幽霊も見とらんし、柿もそもそも生えとらん」
笑う祖父。「この人の言うことは半分は嘘だ」と、父はがっくりと肩を落とす。
幽霊騒ぎは明るく流され、一同は夕食のために居間へと集まった。
炊き立ての白米、蕗と油揚げの煮物、クロチヌの塩焼き、葉まで使った大根の味噌汁。
そして、なぜか大きなステーキが切り分けた状態で大皿に乗ってテーブルのまんなかに鎮座している。
「お待たせ。達也にもやってきた」
仏間から戻ってきた祖母が着席するのを契機に全員が手を合わせると、待ってましたとばかりにシゲルが「幽霊の話」を始めた。
何やらこの近所では、女の子の幽霊の目撃されたり、ポルターガイスト現象が起こるのだという。祖父の勤める町役場にも、その手の苦情がよく来るのだそうだ。
リンは首をかしげた。仮にそれが本当だとしても、幽霊のやったことを役場に苦情って、どうかしてる。
「ま、俺は見たことあらへんけどな」
シゲルは話し終えて満足すると、背後に置かれたお盆からビール瓶を三本まとめて引っつかみ、テーブルに乗せた。
手際よく三本とも栓を抜き、一本は隣のクミコへ、もう一本はダイスケのほうへ寄せ、残りの一本を手酌し、自分のグラスを満たした。
「乾杯!」
シゲルはそう言うとグラスの半分ほど飲んだ。
だが、彼以外は注ぎもしていない。
「何が乾杯だよ。不謹慎だぞ」
非難したのはダイスケだ。父が怒っている。珍しい。リンは不満に思う。
ダイスケは瓶を手にしようとするも妻に先を越され、「ありがとう」とビールのそそがれる音とともに鎮火されてしまった。
「一家の再会に乾杯しただけや」
悪びれもせずに言う、死者の親。
リンは仏間のほうを見て、こっそりとタツヤを鼻で笑い、不謹慎に怖じない祖父を心の中で称賛した。
「タツヤもやっちゃんのお母やんも見たことあらへんし、アイさんのも見間違いやに」
クミコはきっぱり言うと、ビール瓶の注ぎ口をアイへと向けた。
たぶん遠慮をするだろう。リンはそう思ったが、母は意外なことに酌を受けた。
母が飲むのはワインやリキュールのたぐいだ。
それも、記念日に父とふたりきりで出かけたとき限定。
「……」
弟のユウキもずっとだんまりで、いやに丁寧にクロチヌをばらしている。
みんな、何か変だ。何かあったのだろうか。
何かあったとしても、出来事自体はさして気にならない。
ただ、また自分だけが取り残されたような気になって、気分が沈む。
もう一度、仏間のほうを睨む。あいつめ、つまらない置き土産をして。
リンは家族を見るのが嫌で、料理に集中した。
ひさびさの父方の実家での食事は、思いのほか口に合った。
住んでいた当時は、田舎の食事を「精進料理」と心の中で揶揄していたが、久し振りに口にしてみると、友達と行くハンバーガー店やファミレスのものよりも味がはっきりと分かったのは意外だった。
蕗の苦みも悪くない。クロチヌも以前のように醤油どばどばではなく、塩味を楽しんでから臭みを見つけ、ポン酢の瓶を選んだ。さすがにおとなたちの飲むビールには興味が湧かなかったが、今日なら誰も止めない気もするな、なんて思う。
「ユウちゃんはなんで黙っとー?」
祖母が訊ねる。すかさずシゲルが「おばけが怖いんやろ」とやった。
「まあ、そんなところ」
ユウキは顔じゅうをしわだらけにした変な笑い顔で応じた。
母が「やめてよ」と言い、宙に視線を泳がした。
リンも続いて見回す。飛んでいるのは虫くらいだ。
仏間から距離を置きたくて、今日はずっと軒下でスマホを弄っていたが、蚊を軽くニ十匹は殺していた。刺されたのは三か所。勝ち越しだ。
蚊を追い払うアプリを試したが効果はなく、誰がなんの意図で作ったか、蚊を寄せつけるアプリはてきめんだった。メスの羽音に寄ってくるとかそういうところだろう。
オスなんて、どんな生き物でもおんなじだ。
「ユウキは彼女のひとりでもできたか?」
祖父の本日のターゲットは彼らしい。
弟は黙っている。早く答えてよ。同種の質問が自分に向けられてはたまらない。
リンは味噌汁の椀をながながと口にして喋れないふりをしておく。鼻の先に、クロチヌのあら骨が当たり、生臭いにおいがした。
「なんや、その反応は!? できたんか!?」
リンは味噌汁を吹き出しそうになった。そんなバカな。
ユウキを見ると、また変な顔をしているだけだ。
とはいえ、この反応は祖父の冗談に乗っているだけのことには見えない。
「はー、ユウちゃんに彼女?」
祖母も驚き、父母ももちろん目をぱちくりしている。
ユウキは男友達とばかり遊んでいる印象だった。
ここにいたころは学校が遠かったから、母の言いつけでリンが同伴となって年上の女子と絡むことも多かったが。
リンとしては自転車を飛ばせなくなるから、ユウキについてこられるのは好きじゃなかった。弟としては大切に思っていたが、この家の中にじっとしていることと天秤にかけたら、仕方のないことだった。
彼に「ねーちゃん、ねーちゃん」とあとを追われたていたころが懐かしい。
今も仲は悪くないものの、どこか疎遠になったと思う。
家族だが男女をわきまえた関係と言いたいところだが、まあ姉的には、まだまだガキだ。
そんな弟に彼女?
彼も、変わってしまったのだろうか。また、私だけ変わらない。
リンはずっと、自分だけが別の世界に生きているような気がしている。
あるいは、「どこにも生きていない」気がしていた。
中学校では周りはみんな、進学のことや部活の引退試合、恋愛話に夢中だ。
それからアイドルや歌手の誰それがいいとか、どの動画配信者が推しだとか。
だがリンは、それに進んで混じったりはしなかった。趣味が合わない。
それに、二年生いっぱいで硬式テニス部をやめていたし、授業に分からないところもなければ、「勉強してないアピール」をする必要もない。
――別に、それでいいし。
ただ、進路が決まらないのはマズいと感じている。
どうにかしないと、何か考えないと。
成績はいいから、望みの学校を受けさせてもらえるだろうが……。
だが、来年の自分が、高校の制服を着て通学している自分の姿が、まったくイメージできなかった。
いつからこうなったんだろう。未来の自分が思い描けない。
小学校の卒業文集で将来の夢を書かされたのにも苦労した。
中学にあがってからも、夏休みが明けるまでには死んでるんじゃないかとか、流行りの病気に自分も罹って死ぬんじゃないかとか、「未来」には常に自身の「死」を連想していた。
怖いとか心配だとかいうよりは、地に足がつかない感じだった。
ふわふわと、幽霊のように浮いている、そんな感じだ。
いや、怖いといえば、高校が電車通学になったら怖い。
満員電車に乗るなんて、想像するだけでも吐きそうだ。
暗い道もダメだ。中学にあがって集団登校がなくなったばかりのころや、部活で遅くなったときは毎日が地獄だった。
校舎の最上階の片隅にある「心の相談室」の前までは行ったことがある。
だが、話したところで困った顔をされるか病院を紹介されるだけだと決めつけていた。
リンには、この気持ちを共有できる相手がいない。
親の仕事の都合による転校を重ねたせいもあるだろうが、幼馴染だとか、親友だとかいう存在がいない。作れなかった。
別に、孤立しているわけじゃない。
学友とはまんべんなく仲がいい。どのグループとも遊べる。男子以外。
誘われさえすれば放課後や休日も絡む。
それでも環境が変われば、付き合いはぶつりと途絶えるだろう。
卒業してしまえば、チャットアプリすらも使わなくなるだろう。
母に「こっちの友達に会いに行ったら?」と勧められたが、はなからそんな気はなかった。
ここにも「友達」はいないし、どうせみんな変わってしまっただろうから。
だけど私は、相変わらず浮いたままだろう。
ここに住んでいた当時だって、方言の違いやら何やらが引っかかっていたのだ。
みんなはここの土地の人で、自分だけ東京から来た人間。
自分の知らない言葉に、知らない話題。
ユウキはすぐにまねをしたが、リンはどこにいても標準語で通していた。
今でも学友にたまに指摘されるが、母が大阪寄りの関西弁を嫌うことを言い訳にできたのは救いだった。
――私は変わらない。でも、変わりたい。
いてもいなくても同じ、プラスゼロの存在なんて、いやだ。
ひとつチャンスがあるとすれば、「タツヤが死んだこと」だろうけど……。
今のところ墓前にも立たず、仏壇に手も合わせていないが、そうすることで何かが変わるのだろうか。
変わればいいと思う。でも、変わらなければどうしようとも思う。
幽霊騒ぎはともかく、タツヤの亡霊は確実に私に憑りついているのだから。
「ちらっ」
誰かが、なんか言った。
リンは聞こえた言葉通りに、みんなの顔を盗み見た。
酔っ払いたちとぼんやり小僧は声に気づいていないようだ。
「ちらっ、ちらっ」
また声。妙なアプリや蚊の羽音を聞き続けて耳がおかしくなったのだろうか。
声のするほうを見る。虫が入ってくるからと閉められた庭側の引き戸。
その透明なガラスの向こうに、ぼやけた赤い影があった。
「ちらっ、ちらっ」
手のような物体や、おかっぱ頭の女の子の顔のような物体が、ガラスを突きぬけて出たり入ったりしている。
――……。
リンも、ちらっと自分のコップを見た。
ははあ。おじいちゃんがいたずらをしてビールを注いだに違いない。
いや、麦茶だ。
分かった。コンタクトがズレてるのだ。それか、眼鏡をかけ忘れたか。
いやいや待って、私の視力は左右ともに2.0あります。
きゃー、とでも言うべきか? もう一度引き戸を見ると、女の子は消えていた。
――見間違い?
父はビールを片手に、畳の上でノートパソコンを広げている。
母と祖父はユウキの交際関係についてあれこれ議論している。
母はガチっぽいが、祖父は一貫して不真面目にからかっている。
当の議論の対象は……。
こちらを見て目を見開いていた。
「どうしたの?」
リンは首をかしげる。
「サ、サチコ……!」
ユウキが何か言った。
小学生のくせに女の名前を呼ぶたあ上等だが、あんたが見てるのは姉の顔だ。
「何? じっと見つめて……」
視線は自分ではなく、その背後に釘づけのようだった。
何があるのかと振り返ったら、ふわふわと浮かぶ草履履きの足とご対面した。
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