39.抱擁
まさか私が、こんなことするなんて。
リンは嫌がるユウキに押しのけられながらも、まだ笑顔のまま泣いていた。
――願いが叶ったんだから、ちょっとくらい弟をハグしたっていいでしょ?
父ダイスケの意見により、サチコを祓うか否かの判断は朝まで待たれた。
ところが、陽が昇ってもユウキはうなされ続け、高熱も下がらないままだった。
これ以上は待てない。
もとよりユウキの生命を優先していた祖父母が動いた。
シゲルは病院の手配、クミコはツグミにお祓いの依頼。
リンは粘った。「まだ待って」と。
アイが「私が産んだ子だから私の意見が強いでしょ」と加勢し、ダイスケも「病院なんて無駄だ」とシゲルを引き止め、電話の奪い合いと怒鳴り合いを開始した。
「ここでユウキを信じないでサチコを祓うのは、彼らの尊厳に関わる」
「信じてダメだったら死ぬか廃人だ。それでも、おめえの家族はやり直せるのか?」
「家族なんて、手段のひとつであって目的じゃない。大切なのは個人の尊重だ」
「んなことは分かっとるわ。だから“俺”はユウキを黙って死なせたくねえんだ!」
クミコは息子と夫の言い争いを縫って、見届け人の巫女を起こしに抜け出した。
だが、リンが目ざとく見つけ、「ツグミさん、何かうちに隠してることありますよね?」とにこやかに言うと、巫女は「うっ、お腹が痛い! ちょっとケガレを出してきます!」と便所へ逃げた。
じっさいのところ、ツグミが言うにも、憑かれた者に薬を与えても、病院にやっても無意味だということだ。
ユウキの異常は、明らかに非現実的な現象を伴っていた。
彼は高熱のほかに、ときたま、うっすらと白い光や赤い光を発していた。
光はリンとツグミのほかには視えていないらしかったが、心霊的な事象のひとつだという。
ユウキはうなされて、「からい」だの「痛い」だのと口走っていたが、彼の声色だけでなく、明らかにサチコのものも混じっていた。こちらに関しては、全員がはっきりと耳にしていた。
リンたちは苦しむ少年の姿に勢いを失い、祖父母の意見に押されかかっていた。
ところが、急に祖父母たちのほうが折れたのだ。
それは、個人と家族についての論争でもなく、巫女のごまかしでもなく、少年少女の寝言のひとつが原因だった。
「長谷部幸子、うちの名前と似とるなあ」
その名に、覚えのある者たちがいた。
「シゲルさん、今、ハセベユキコって」
「あーっと、聞き覚えが……」
シゲルは眉を寄せて首をかしげる。
「長谷部は、あなたのお母さんの旧姓じゃないですか」
クミコは「お義母さん」と呟くと、ユウキのそばに座した。
「さっちゃん、ひいおばあちゃんと知り合いだったの?」
リンが疑問を口にすると、「ユキちゃん」とユウキが少女の声色で返事をした。
「さっちゃん、ユキちゃんか」
シゲルも腰を下ろし、かつて母に聞かされた戦時の思い出話を語った。
「おふくろは疎開で来た子らのその後をよく気にしとったな。当たり前だが、引き揚げていった奴らは、誰もここには戻ってきやんかった。特に仲良くなった“さっちゃん”とは、長生きする約束をしたとか言うとったが、それがこのサチコかは分からん……。おふくろはもう逝っちまったし、おめえも、そもそもガキの幽霊やろうが……」
孫息子の顔を覗きこむ祖父の背中が細く、頼りなく映った。
「みんな、ここからいなくなっちまうんや。ユウキ、おめえは逝くなよ。おめえらが逝ったらきっと、誰もここには帰ってこなくなるやろうからな……」
父の弱音を聞いたダイスケも口を閉ざし、親父に背を向けて座った。
延長戦に突入したものの、布団を何重にも重ねたような重苦しい空気が部屋に充満していた。リンは不安だった。
眠れる少女の寝言は楽しげだったが、反してうなされる少年の身体が赤いような黒いような光を放つ頻度が上がっていた。
「はーい、ここで残念なお知らせがあります!」
元気のいい声とともに柏手を打った者がいた。水分継美である。
一同は、ユウキとサチコの終焉かと思い、ぎょっとして彼女のほうを向いたが、巫女は頭を掻きながら、媚びるような「にへら笑い」を浮かべていた。
「じつはお宅のお墓がですねえ……」
ツグミは白状した。佐藤家の墓がアガタによって倒壊させられ、よその墓所にまで被害を及ぼし、その修理費を増やそうとしたあげく、競馬で全額スッたことを。
「あっはっは! ごめんなさい! ナンマンダブ!」
巫女は両手を擦り合わせて謝罪した。
「笑いごとじゃないよ。それに、それは仏教の作法でしょ……」
ダイスケはため息をつき、額を押さえた。
クミコは巻き添えとなった家の墓を心配して、寺の電話番号を探し始める。
いっぽうで、順当に行けば次に墓へ入るはずの男は笑っていた。
「ま、ええわ。当分は誰も入る予定はねえからな」
「そーそー! みなさん息災ですしねえ。そもそも、たましいは天に昇ってますし、お墓はからっぽで、あるのは骨だけ!」
巫女は手もみをしながら、シゲルにすり寄る。
「いや、弁償はしてもらうが?」
「悪いのはアガタなんですって! ちょいと聞いてくださいよ!」
ツグミは、アガタがタツヤの悪霊に怯えて墓を倒した様子を身振りで再現した。
恐怖をまねた顔芸はもちろん、袴や袖をばたばたとやっての大騒ぎだ。
シゲルはもちろん、不謹慎に弱いアイが大ウケし、それにつられてダイスケも吹き出した。
――ツグミさん、わざとだ。
リンは気づく。巫女が仕事をした。
部屋中に満ちていた重圧感が霧散し、ユウキのまとう昏き光も弱くなっている。
もっと明るくしよう。
リンは立ち上がり、居間へと続くふすまを開けた。
居間のさらに向こうから、陽が差しこんでいた。
庭に植えられた榊が天からそそぐ光を受けて照り輝き、風に鳴っている。
――そっか、朝だ。いい天気。
誰からともなく、朝食の支度やら何やらで動き始めた。
黙って待つよりも、そのほうがいいのだろう。
リンだけはツグミのそばにつき、静かに弟と妹のことを見守った。
ほどなくしてのことだ。
「ダブってる……」
ユウキと重なるように、うっすらと赤い着物の少女の姿が浮かび上がっていた。
思わず手を伸ばしそうになるも、横から伸びた白い袖がそれを止める。
「あなたにも、もう視えてるんだ? あと少しだけ待ってあげて」
巫女に従い、尻を落ち着ける。
しかし、ユウキの様子が次第におかしくなっていく。
サチコの声では寝言を言わなくなり、彼本来の声で頻繁に呟きを発している。
この鬼婆め。サチコが悪いんじゃない。死ぬな。生きろ。
熱っぽかった顔も今や青白くなり、目の周りにはくまができ、呼吸もときおり止まり、泡まで吹き始めた。
リンは家族を呼ぼうとまたも腰を浮かすが、同じくツグミが引き止める。
巫女は頬に汗を伝わせ、これまで見せたことのない厳しい表情を結んでいた。
「サチコ!」「今だよ!」
ひときわ大きく叫んだ弟の身体から、赤い袖の腕が突き出て、リンはそれをしかとつかんで引きずり出した。
胸の中に抱くは、確かな重みと温かさ。
「あれ? うち、撃たれて死んだんやなかったっけ……」
まったくの寝言だ。リンは「もともとおばけでしょ」と笑い、妹の黒髪を撫でた。
「何かあったの!?」
最初に駆けつけたのはアイだった。
彼女はサチコを一瞥すると口元を緩ませ、息子を起こそうと屈みこんだ。
リンはそれを止める。
「お母さん、ユウキが自分で起きるまで待ってあげて」
でも、と言いたげな母の顔。
リンは笑って言ってやった。
「うるさくしたら帰ってきづらくなっちゃうでしょ? 私のカン、だけど」
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