31.散華
こんなにすがすがしい気持ちになったのは何年ぶりだろうか。
リンは解放されていた。部屋中を覆っていた憎悪の渦から。
身体は軽く、もはや誰かと繋がっていなければ不安だと思うこともない。
「はーい、そこまでっ!」
手を打ったのは新たな闖入者だった。
白い衣の大きな袖。緋色の袴と、黒く艶やかな長髪を揺らす女性。
「どっこいしょ」
彼女は開け放たれた縁側をよじ登った。
「ツグミさん、靴! じゃなくって、草履脱いで!」
うしろから彼女へ声をかけたのは弟のユウキだった。
彼はなぜかバイクのメットを被っており、留め具を外して巫女へと手渡した。
「はい、ちゅーもーく!」
巫女はこぶしを作り、メットをこんこん! と叩いた。
言われなくても全員が彼女を見ている。
彼女の遠く背後には青空。居間に、世界に色が戻っていた。
今や赤いのは巫女の袴と、アガタの顔面くらいだ。
あとは……。
「さっちゃん!」
リンはうずくまった妹の姿を見つけると駆け寄った。
サチコを取り巻いていたはずの不気味な炎も鎮火しており、彼女は寒空の下の小雀のように震えていた。
「なんや、嫌なこと思い出してもーた……。めっちゃ腹立って、分けわからんくなって……」
リンは何も言わずに彼女を抱きしめた。温かい。
温かいなら大丈夫だと思った。
「お嬢さん、あんた誰や?」「巫女です!」
家主のシゲルからの問い。即答である。
「そうやなくって、なんでうちにおるんや?」
シゲルはつきものが落ちたかのように、普段の雰囲気を取り戻している。
巫女は言う。あなたの奥さん、クミコさんからの依頼ですと。
クミコの従兄は神主で、この巫女の祖父らしい。
クミコは悪霊祓いを依頼しに神社を訪ねたものの、豪雨で帰りの足を失い、今は従兄とお茶を飲んでいるそうだ。
巫女は「そんな中、スクーターをぶっ飛ばしてきた私、偉い」とかのたまった。
「おまえは確か、詐欺師の水分だな!」
苦々しく言ったのはアガタだ。
彼はいまだに胸倉をつかんだままだったダイスケの腕を振りほどいた。
「詐欺師じゃありません! 本物の巫女! 紀州一の美人こと、水分継美! 気安くツグミちゃんと呼んでください!」
ツグミなる娘は、こちらに向かってずいと胸を張った。
それからアガタを指差し、「でも、あなたは不可!」と付け加える。
「元気な娘やな……。ってーことは、お祓いかなんかに来たんか?」
シゲルが視線を巫女から外す。その先にはタツヤがいた。
彼は正座に直っているようだったが、半透明となり、うしろのふすまの模様を透かしていて、腰から下については、ほとんど消えていた。
「邪気祓いはすでに済んでいます。あとは、あなたたちの問題です」
巫女は、にっこりと笑った。
彼女がやったことといえば、縁側の外から柏手をひとつ打っただけだ。
確かに空気は一変したが、リンは思わずアガタの文句に同意しそうになった。
「そうだ、謝罪が済んでいない」
ダイスケが言った。
父はこちらを見ている。リンは、この場から逃げ出したくなった。
「タツヤ、アガタ。おまえたちはリンに謝らなければならない」
間髪入れずに、「ごめんよお」と「誰が!」が聞こえる。
「アガタ、謝罪するんだ!」
再び胸倉をつかむ父。だが、今度の彼の声は震えていた。
「殴れよ。いじめっ子さんがよ」
父は「クソッ」と吐き捨て、アガタを離す。
「警察に突き出してやるからな……!」
アガタは「そうなると思ってたんだ」と言うと、なぜか笑った。
「俺のスマホには、証拠がたっぷりと入ってるからな。もちろん、タツヤがおまえの娘をヤってるところもな!」
彼の高笑いが黒板消しとなって、リンの頭の中をさっと走った。
綺麗になった黒板には、『証拠=動画』の式が記された。
――私、撮られてたの?
鮮やかに浮かぶ学校の教室。
私はなぜか裸で着席していて、スマホを操作しているみんなが、私を見ている。
『リン+動画=?』
父がアガタからスマホを取りあげた。
しかし、アガタは「そっちじゃねえよ」と別のスマホを渡した。
それから見つけやすいようにか、「あの日」の日付を口にした。
――お父さん、見ないで。
リンは父に向かって手を伸ばしたつもりだったが、それは想像の中だけだった。
「だいじょーぶや」
腕の中のサチコが言う。
「すこい嘘やって。あいつが嘘つきなんは、うちとユウキくんがばっちり調べたからなあ」
ふたりが? リンは首をかしげる。
ユウキを見ると目が合った。彼はそっぽを向いて、へたくそな口笛を吹いた。
父は怪訝そうな顔でスマホを操作していたが、「さっきのスマホも見せろ」とまたスマホを要求した。
アガタはダイスケからスマホを取り返し、別機を投げるように渡す。
「な、ない! あのぶんだけじゃない……!」
アガタが声をあげた。
「全部消えてる! カードが無い!? なんでだ!?」
「証拠を隠滅したのか? 汚い奴め!」
ダイスケは罵ったが、スマホを投げ返して、「ないならないでいい」と言った。
――ないの? 消えたの? もとから?
どっちにしろ、教室はひと粒の涙となってリンから離れていってくれた。
「警察に頼らなくても始末はつけられる。おまえがタツヤにやらせたんだな?」
「やったのはタツヤだ! タツヤがやろうと思わなきゃできねーだろ! 俺のせいじゃない!」
「そうだ……」
タツヤが立ち上がり、幽霊然と風に流されるようにこちらに近づいてくる。
それから彼はリンの前にひざまずいた。
逃げられない。リンはサチコの体温に集中し、こらえた。
「申しわけありませんでした。赦してください」
タツヤが泣きながら土下座をしている。リンは喉が締めつけられ、声が出ない。
ダイスケが「リン」と言った。
――それは、赦せってコト? アヤマッタカラ、ユルセッテコト?
「赦せないなら、赦さなくていい」
ふっと、喉を縛っていた枷が緩む。
「なんでだよ、兄貴! おれは、悪かったって、リョーくんが、こいつがやれっていうから!」
「悪いが、僕はおまえの兄だが、リンの父親なんだ」
「お父さん……」
リンは見上げる。父の横顔。彼は顔を紅潮させて、瞳に涙を溜めていた。
「おれは、謝るために、戻って来たのに……」
タツヤは床に伏して背中を震わせ始めた。
「俺のことは散々祟った癖に! こいつらのことも呪う気じゃなかったのか!?」
アガタがタツヤに怒鳴っている。
「おまえは謝る気はないんだな」
「あるか! 殺すなり警察に突き出すなりしろ!」
アガタはかぶりを振る。それから何やらぶつぶつとやり始めた。
「クソッ、証拠がないなら! 証拠がないのに! ちゃんと証言してもらわねーと終われねえ! あのガキと、ほかの女も、ゴウダやエグチはどうだ……?」
まるで、ひとりでこの場にいるように呟き続けるアガタ。
父はしばらく彼を見ていたが、視線を巫女へと移した。
「リンが赦さないなら、手はひとつだ。タツヤのことは祓うなりなんなりして、消してください」
「なんでだよお!?」
死霊は兄へと命乞いをしている。
――私が赦さない、なら。
「俺からも頼む。息子の不始末は、最後には自分でつけさせる」
彼の父もまた見放した。「おまえは極楽にはやられへんわ」
リンは胸が詰まりそうだった。
事情は知らないが、やらされたタツヤを憐れに思う気持ちもなくはなかった。
無論、だからといって絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、赦すことはできない。
「お願いだよお! あいつが全部悪いんだよ! リョーくんは、リンちゃんだけじゃなくって、ほかの女の人にもたくさん酷いことをしてたんだ! おれにも無理やりやらせたんだ!」
「親友を売るのかよ。つーか、自分の罪も白状してら。ま、ショーコなんてねえけどな」
アガタが笑い、こちらを見た。
乾いた鼻血がひび割れている。
「おまえはちゃんとケーサツに証言してくれるよな? ごめんなさいって言いながら犯されましたって!」
アガタが何か言った。彼の頬骨とダイスケのこぶしが嫌な音を立てる。
「リン! こいつは赦さなくていい! 親父、もう殺すしかない!」
ダイスケが叫ぶ。また怒りの形相だ。
シゲルは顔をシワまみれにして歯を剥いているが、否定も肯定もしなかった。
「お願いだ。リョーくん! 助けてよ! リョーくんが悪いんだろ!? おれ、消えたくないよ!」
「俺もおまえも終わりだ! タツヤ、俺たちはいっしょに地獄行きだ!」
「違う、おれはあんたとは違う! そうだ、呪ってやるぞ! そのために来たんだあ!」
タツヤは再びくっきりとした姿を取り戻すと赤く燃え始め、アガタに組みついた。
「おまえは俺に恩があるだろうが!」
「嫌なこともいっぱいやらせたくせに!」
「それは謝っただろう? おまえは、赦すって言ったじゃねーか!」
「赦すって言ったけど、言わなきゃよかったって思ったんだ!」
言わなきゃよかった。赦すと後悔するだろう。絶対に。
タツヤの言がリンの胸に刺さる。
リンは父たちを見た。怖い、嫌だ、悲しいと思った。
憎悪にまみれた誰しもを見ていると、リンはもう赦して何もかもを終わりにしてしまいたい誘惑に負けそうになった。
生きた悪人がタツヤを殴っている。
怨霊がアガタを殴り返す。
それを見守る家族たちも、またあの「悪い顔」に戻りつつあった。
もう、うんざりだった。
リンの目からたくさんの涙がこぼれた。
「ねーちゃんのことは、ほったらかし?」
言ったのはユウキだ。
「こいつらを早く始末しないと!」
「父さん、それは違うよ。俺たちに、そんな権利はない」
ユウキは父を睨んでいた。ダイスケは反論を呑みこんだようだった。
「リンが決めるべきね」と母が言う。
だが、少年は首を振る。
「無理矢理こんな状況にされたリンに、責任を押しつけるのは違うと思う」
「でも、赦しておけないわ。彼らは間違ってる」
「そうだね。俺も、こんなやつら殺してしまえばいいと思った」
少年は続ける。
「みんな、すごく悪い顔してるよ。ねーちゃんは、それが嫌なんだよ」
佐藤家は互いに顔を見合った。
「おばけや霊能力がホントにあるなら、鬼もホントにいるのかもね」
弟はやれやれといった調子だ。
リンは彼を見上げた。
声はまだ出ない。だが、心で問いかける。
「赦せねーなら、赦さなくていいと思う。でも、だからって、呪ったり復讐をしなきゃダメってこともないやろ」
彼は笑ってみせた。
「そんなことより、またゲームしようぜ」
リンは泣いた。声をあげて泣いた。
その背をサチコがさすってくれている。優しい手がもうひとつ、ふたつと増える。
父と母の謝罪。娘は「ありがとう」で答えた。
「おまえもか! おまえも!」
場を切り裂く怒号。
アガタの声だ。今まで一番まっくろで、まっかで。
「死ね! 親父め!」
さらに重く、雷鳴のように響くであろう、それ。
少年へ向けられた、いや、彼の頭に押しつけられた銃口。
すぐさま引き金が引かれ、花のように赤いしぶきが咲いた。
玉響。少年の身体が床へ転がる。
それを追って降り注ぐ、いのちの雨。
リンには何が起こったか、すぐに理解ができなかった。
「しまった!」
聞き慣れぬ女性の声、ツグミのものだろう。
ユウキは尻もちをつくようにして畳の上にいる。
古びた畳に、さっと血の池が広がっていく。
それは津波が町を覆っていくさまに似ていると思った。
「やってもうたなあ……」
ふわりとした京ことば。
諦めたような、呆れたような声だった。
少年の腕の中。牡丹はすでに散ったか、血に染まり見えなくなっていた。
「サチコ、なんでだよ!」
少年は幽霊の女の子を揺さぶっている。
「ほんまに痛いわ。なんや、わろてまうなあ……」
胸を押さえたサチコは口からも血を流していた。
リンも駆け寄った。背後ではおとなたちがどたばたとやっているが、構わず妹の手を取る。
「幽霊に鉄砲が効くわけないだろ!」
ユウキは、サチコの手を硬く、硬く握りしめていた。
リンの手にだって、サチコのぬくもりが伝わっている。
「せやなあ。おばけはカレーも食べへんし、自転車も乗らへんし、髪も切らへんもんなあ……」
サチコは黒い睫毛を合わせた。
「おおきになあ、ねえさん。おおきになあ、ユウキくん」
つかんでいた感触が消える。
ふたりの手をすり抜け、溶けるように少女の腕がこぼれた。
「ふたりとも、大好きや」
リンはどこか遠くに、小鳥の羽ばたく音を聞いた。
弟が、自身の血まみれの膝を叩きながら、「なんでだよ」と咽び泣いている。
リンの手にも、まだぬくもりがあった。撫でてもらった背にも喜びが残っていた。
……。
その日、おばけのサチコが死んだ。
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