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03.心配

「そんなに心配しやんでも大丈夫。だんない、だんない」


 包丁がまな板を叩く小気味のいい音とともに、姑の久美子(クミコ)が言った。

 だんない。心配ない。

 姑の鷹揚な声には、リビングに腰を落ち着けるような安心感があった。


 だが、佐藤(アイ)は口にはおろか、顔に出したつもりもなかった。

 しつこくスマホを確認していたのを見られたのだろうか。


 夫の大輔(ダイスケ)が自分の顔色の裏まで読むのは珍しくない。

 彼はアイにだけ「ちょっと見てくるね」と言って、クミコには何も告げずに家を出てくれている。


 まだ陽は沈んでいない。門限こそは過ぎてはいるが、あくまで時計の針の話。

 ここは田舎だが近所の目は温かく、治安がいいのもよく知っている。

 夕食の支度を手伝っているため確認はできていないが、ダイスケが出てからすぐにスマホの通知の振動も感じていた。


 恐らくユウキが『ごめんなさい、すぐに帰ります』とでも送ってきたのだろう。

 よくできた子だ。最近は少し、ぼーっとしていることが増えたとは思うが。


 玄関のほうから明るい呼び声がした。「クミコさーん」

 姑がおしゃべり好きのお隣さんに対応するために台所を離れる。

 アイは、かつてよくそうしていたように調理作業を引き継ぐことにした。


 手慣れたものだった。調味料や調理器具の位置は何も変わっていない。

 味噌汁はどこでも買える合わせ味噌。煮物も粒状の市販品を出汁にする。

 山菜の処理だけは東京、大阪と転居を繰り返すうちに忘れたらしく、(ふき)は塩もみだったか塩水だったか、銀色のボウルの前で待たされることとなった。


 クミコはお隣さんを手早く退けて戻ってきた。

 彼女は鍋はそのままアイに任せ、蕗を両手でねじ切るように裂き、皮むきを始めた。


 雑談の片手間に調理が進む。ひと月前にお隣のヤマダさんのところのおばあさんが亡くなったと聞かされた。


「やっちゃんが、お()やんが幽霊になってうろついて迷惑をかけとるって」

「はあ?」


 なんだその話は。何やらこの近隣で、心霊現象が起こるのだとか。

 アイは肝を冷やす。

 怪談話が怖いのではない。それを呼び水に、「本来なら出席するべきだった葬儀」に話が移るかと思ったからだ。しかし姑の興味の矛先は、新築のマイホームへと向けられた。


「やっぱり、IHにしたほうが便利なんやろうか」


 ふたりは電子機能のひとつもついてないコンロを前にしていた。


「電気とガスは使い分けたほうが、災害時には便利だって話ですよ」

「どっちかが使えたらええもんね。ここも、私らが生きてるうちにどうなるか分からへんし、なんもしやんでええか」


 電気やガスの前に、この古びた木造の日本家屋の倒壊のほうが心配なのだが、アイは黙っておいた。舅と姑は大雑把な性分だ。


 いつか来る、いつか来ると言われている巨大地震。

 豪雨、原発、感染症、戦争に物価の高騰。元総理も撃たれた。

 テレビをつけても、スマホを見ても、心配事の種ばかりが目に留まる。

 紀伊の山に囲まれたこの地だけは、そういうのとは無縁だと思っていたのだが。


 もっとも、そう思えたのは、その種のひと粒が二年前に取り除かれたからだったが。


 アイは、蕗を氷水からあげつつ軽い調子で子どもたちの様子を訊ねるクミコへ、何もかもをぶちまけたい衝動にさらされた。


 しかし、抑えこむ。


 ――私は恵まれているから、そういう資格はない。

 男の人たちを責めるような態度を取って、いいはずがない。


「ダイスケとは仲良うしとる?」


 厭味なほどの慧眼は親子そろっての才か。

 アイははっきりと肯定しておいた。助け舟を出される資格もない。


 アイは幸福な主婦である。


 生まれも育ちも東京。それも下町ではなく上流向けの住宅街。

 金銭、交友関係に不自由なく成長し、両親もきょうだいも健在。

 四つ上のダイスケとは恋愛結婚だった。付きあい始めたころは社会人と高校生だったため周囲に隠してはいたが、アイが大学を出ると同時に籍を入れた。

 今振り返っても、六年以上の交際のあいだ、よく失敗をしなかったものだと思うが、結婚に関しては誰も反対をしなかったし、ただただ祝福があった。

 ダイスケはわざわざ和歌山から上京して名門大学を出たというだけあって、コンピューター関連の一流企業に勤めていた。

 アイは働く必要もなかったし、思うままに学生の延長と新妻を往復し、計画通りに長女の(リン)を身ごもり、両親の世話を受けてスムースに母親となった。


 ひとつ、苦労らしい苦労をしたといえばそこから数年後、ダイスケがアメリカへ赴任した時期だ。兄夫婦の一家が実家に居座っていたためにそちらを頼れず、この紀伊のど田舎で生活をすることになったことくらいか。


 いや、それも大したことではなかった。

 ずっと東京暮らしだった彼女には、この緑麗しい自然は魅力でもあったし、舅姑もおおらかで冗談好き、うるさいことは一切言わないときた。

 ダイスケも二年で戻る約束をしっかりと守り、長女が中学にあがるのと同時にマイホームまで持った。


 だが、そのあたりから何かが着実に狂っていったのだとアイは考えている。

 彼女はずっと、「圧迫するような違和感」に苛まれていた。

 常に何かが心配で、常に片足が平穏からはみ出した気持ちになっていた。


 ぴかぴかのマイホームの設備は最新鋭で、耐震構造も抜群。

 電気ガス複合で自家発電機能もある。

 家具にだってダイスケが転倒防止の器具を噛ませてくれた。


 しかし、入居してすぐに隣の家の植木がこちらの土地に伸びてきたし、庭には首輪のついた猫が落とし物をするし、はす向かいの家の二階からは深夜に罵声が聞こえた。


 夫は言った。「家を買ってしまえば逃げられないね」

 彼は休暇や帰宅後の時間を使い、老夫婦に植木をどけることを承諾させ、猫を室内飼いにさせ、はす向かいに住む青年にはゲーム配信とやらをやめさせた。


 どれも入居半年以内のスピード解決だ。

 問題のあった各家とも特に遺恨を残していない。


 夫は何もかもをやってくれていた。今年なんて、ユウキのぶんのPTA役員がとうとう当たってしまったのを引き受けてくれるとまで言ってくれた。

 専業主婦である以上、そこはどうしても突っ張るべきところだと思い、役員はアイが受けたが、集まりがあるたびに世間の主婦たちとの格差を突きつけられることとなった。

 もっともその格差も、アイは優雅で自由ないっぽう、周りのパートタイマーの主婦たちはカネや時間のやりくりに苦労しているという、贅沢なほうのものだったが。


「リン、ちょっと配膳手伝って」


 娘へと呼びかける。


 返事は無かったものの、居間からふらっと長いポニーテールを揺らした娘がやってきた。


「暑い」

「暑いなら切りなさい。街に行けば美容院くらいあるわよ」


 返事はない。リンもまた、手慣れた様子で食器棚を開ける。

 彼女はここのところ、美容院代をせがむ間隔が長くなっていた。

 ユウキと同様、ぼんやりとしていることも増えた。

 姉弟ともに成績は特に落ちてはいなかったが、どうも気力に欠けるところがあるように感じる。


 ダイスケには相談していたが、ユウキのことは「心配し過ぎ」、リンのことは珍しく「ごめん、女の子のことは分からないかな」と白旗をあげられてしまった。

 それとなく娘に何かあったのかと聞いたこともあったが、「何も無いのが問題だ」などと返されただけだ。


 恋煩いか何かかとも思ったが、リンのスマホにはそれらしい履歴のひとつもなかった。


 覗き見は親とはいえ越権だったし、自身には資格がないのも承知していたために、それ以上深くは追求できないでいた。


 ただ、リンは高校受験を控えながら、進路についてまだ何も希望を出していなかった。それでは困るだろう。

 アイは「制服の可愛いところか、仲のいい友達の行くところにしたら?」と勧めたが、暖簾に腕押しだった。


 何かがおかしい。何がおかしいのか。


 畳張りの居間の長テーブルに茶碗を並べる娘を見つめる。


 ――おかしいのはリンじゃなくって、私じゃないの?


 ユウキのは反抗期で、リンは思春期特有のメランコリーなだけ。

 非常識はパートを理由に会合に顔を出さない人ではなく、専業主婦の私。

 近所との面倒を引き起こしたのは、自分が敏感すぎたせいだったのではないか。

 満たされすぎていて、無いところに不幸を探そうとしているんじゃないだろうか。


 ――だって……。


 亡霊のように揺れる不安のヴェール。

 その向こうでは、どことなく甘美な存在が手招きをしている気がする。


 アイは家族に降りかかるイレギュラーを妄想し、口元を歪ませた。


 みしり。ふいに大きな音がした。

 アイは天井を見上げる。


「地震? ()鳴り?」


 クミコは「どっちもよくあること。ま、ほかにもあるかもなあ」と軽い調子で言う。

 

「ほかにもって、土砂崩れとか、そういう?」

「まさか。ここは平ら」

「じゃあ……」


 問おうとするも、姑は「ま、シゲルさんに聞くんやに」と、歯を見せて笑うだけだ。


 やはり、不安。


 アイは調理台のうえの水滴を拭こうと、布巾を手を伸ばした。

 だが、台にこぶしをぶつけ、「痛っ」と小さな悲鳴をあげた。


「あら、大丈夫?」「平気です」「そう? ならええけど」


 クミコは炊飯器に向き直るが、しゃもじを持ったまま、くるりとこちらに振り返った。


「さっきはシゲルさんに聞けっていうたけど、やっぱりバラしたろ」


 またも、にやりと笑う姑。



「このはたでは、おばけがでるんや」



 またそれか。さっきのお隣さんの話だろうか。

 笑っておく。冗談は義父母の大好物だ。


 それよりも、今の一幕でアイは違和感の正体に気付いた。


 ここの台所は、「自分には少し高い」のだ。

 調理台の高さが少し合わない。上の棚も自宅のようなダウンキャビネットではなく、クミコと同じく足元の踏み台に乗って使っている。

 高さだけじゃない。流しの幅や、冷蔵庫までの動線にもどことなく不便を感じる。


 だが、構造はもちろん、食器や調味料の配置も、かつてここで暮らしていたころと変わらない。

 二年も使ってすっかり慣れていたはず。

 やはり、自宅のほうに自分が馴染んだからここが不便に感じるだけか……。


 アイは顎に手を当て、探偵マンガばりに考えこんだ。


 果たして、あのマイホームで一度でも「不便だ」と感じたことがあっただろうか?

 主婦の主戦場であるキッチンやバスルームはもちろん、家族それぞれの私室に加え、自動照明や端末に連動するインターホン、ソーラーパネルやガス排気熱の発電機に至るまで。

 リビングは一階から三階まで吹き抜けで広く明るく、家族のルールによって積極的に使われていて、どこからでも子どもたちの行動が見える。


 すべて、アイの意のままだ。


 もちろん、専業主婦にだって休暇はある。

 夫は土日に楽しそうにキッチンに立つ。そうでないときは家族そろって外食だ。

 彼は突飛に外出の計画をぶちあげるのが好きだ。アイもそういったサプライズ精神を気に入って、若いころはよく胸を躍らせ恋愛を楽しんだものだ。


 アイは気づく。


 ここの調理台が私にとって高いなら、自宅のキッチンはダイスケにとってはどうだったか?

 思い浮かべた夫の姿は、少し猫背だった。ダウンキャビネットも下げ切らずに半端なところに垂れさがっていたことを思い出す。

 自分はマイホームの設計にあまりタッチしていない。

 家具の配置も任せきり……いや、何をどこに置くのか迷う必要はなかった。

 それだのに、すべての高さとさまざまな動線がアイにフィットしていた。


 気の利く夫には、仕事に例えてプログラミングがどうとか、クライエントのニーズがどうとかいう癖がある。


 そう、あの家は「私のため」に設計されているのだ。



 佐藤愛が、ぴったりとはまりこむように。



 黙ってされたのは少し腹が立つ気もしたが……いや、やはり当時だって希望は訊かれていたはずだ、「ダイスケさんに任せるわ」と言ったのは自分。そのうえ、微に入り細に入りと隙間を埋められて苦情を言うのは身勝手すぎるだろう。


 アイはやはり「資格なし」の札を自身へ貼り付け、息子を迎えに行った夫にビールをお酌することを考える。


「ただいまー」


 帰ってきた。夫の柔らかな声のあとには、「遅くなってごめんなさーい」と、ちょっと不満そうな息子の声も追随する。



 ――私は幸せだ。なんの問題もない。


 アイは自分に言い聞かせると、玄関へと小走りで向かった。



 ところがどっこい、彼女は悲鳴をあげることとなった。



 だってそりゃ、夫の肩越しに赤い着物姿の女の子が浮いていて、目が合った途端にそいつが「にたり」と笑い、玄関をすり抜けて消えていったのだから。


***

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