02.少女
心臓が、きゅっとなった。
だが腕を突き刺されたとか、幽霊がすり抜けたというよりは、イメージされたのはホログラムやバーチャル映像のたぐいだった。
続いて口をついて出たのが「手品?」という、まぬけた感想。
当の「おばけ」は憤慨したようで、「奇術とちゃうよ」と頬を膨らませた。
「だって……」「ほら!」
間髪入れず右胸にもサチコの手が差し入れられた。
やっぱり、どう見てもすり抜けている。感触はない。
ユウキは後ずさり、またも左手を入れられる。また後ずさり。
おばけのサチコはユウキが下がるたびに追いすがって、交互に手を突っこんだ。
「どっかから、映してる?」
ホログラム映像の投影機があるかもしれない。
こんな大掛かりな仕掛け、大物の動画撮影者でも隠れているかもしれない。
少年は首を伸ばして境内から外れた茂みを覗いた。
「映してる? まだ信じはらへんの?」
「いや、だって……」
「男のくせにしゃっきりせーへん」
サチコは、ばっと袖を振り上げた。
叩く気か。ふいにユウキは自分が上級生の男子だったのを思い出す。
しかし、サチコは指をさすと「うしろ危ないよ」と言った。
いつの間にか境内から出て、かかとが段差から乗り出していた。
転げ落ちるような勾配でもないが、ユウキの口からは自然と「ありがとう」が出た。
サチコはまたも首をかしげる小雀になっていた。
「ありがとうなんて言われたの、何年振りやろか。うちは脅かそうとしたのに」
両袖で口を隠し、ころころと笑い肩を揺らす少女。
「せやったら、おもろいもん見せたげるな」
サチコはぴょんと跳びはね、言った。
「これでおばけやって信じてくれはるやろー?」
彼女のジャンプは妙に高く――いや、これは――。
ユウキはまるでスカイツリーでも見上げたような格好になっていた。
空を背に、影になった着物姿の少女が、両膝をうしろに曲げて浮かんでいた。
「う、浮いてる!」
「やーっと驚いてくれはった!」
赤い袖を翼のように羽ばたかせながら「おばけ」が喜んでいた。
――いや、待てよ。
手の中にはまだ「投影機」の線がしっかりと握りしめている。
映像が映されているのなら、それが飛ぼうが火を噴こうが同じことだろう。
ところが、
草履が地に着いたのを見届けると、今度こそ本当にたまげるハメとなった。
「うちがおばけやって知っても、逃げはらへんのね」
嬉々とした笑顔の少女。彼女の両手が、少年の手を握っていたのだ。
しかも、ちゃんと温かい。
また、ほこりっぽいにおいが漂った。
その中に、どこか化粧品コーナーに似た甘い香りを見つける。
「ユウキくん、男らしい人やなあ」
いまどき言わないような、両親が嫌うような「男らしい、女らしい」の表現が、目の前にいるのが、自分とそう変わらない歳の女子だということを強く意識させた。
青くなればいいのか、赤くなればいいのか。
少年はしばらく、自分の手を握り締める相手の顔を、じっと見つめるほかになかった。
「あんまり見やんといて」
耳まで赤く染める「おばけ」。
彼女はようやく手を離したが、少年も首から上が真夏になった気分だ。
「マジで、おばけなん?」
くどいようだがまた訊ねる。
教室でクラスメイトからうつされた関西弁が自然と出た。
「ほんま、ほんま。まだ疑わはるん? ユウキくんたら、いけずやねぇ」
確か、「いけず」は「いじわる」だ。
そう言いながらもサチコは笑っている。
ユウキは鼻を掻くふりをして、少し大げさに手を動かし、指先をそっと彼女の肘に当てようと試みた。やはり指先はするりとすり抜けた。
触るもすり抜けるも、彼女の意思次第。ようやくここで、「本物」だと呑みこめた。
幽霊らしいが、害はなさそうに思える。少なくとも悪霊ではないだろう。
ユウキはポケットからスマートフォンを取り出すと、カメラのアプリを立ち上げた。
「何、いらってはるん?」
スマホだよと答えると同時に、ユウキは気勢が萎えるのを感じた。
彼女のことを撮影して、クラスメイトへの手土産にする気だった。
だが、無断撮影は失礼だし……かといって、女の子相手に撮影許可が取れる気もしない。
「それ、ルーペ?」
サチコは無遠慮にスマホを覗きこんでいた。
ルーペ、虫眼鏡のことか。画面には拡大された地面が映っている。
さっきから微妙に話が合わないのは、彼女が「昔の幽霊」だからか。
そうと分かれば、ユウキは水を得た魚のごとく、あれこれとスマホを操作して機能を披露してみせた。
「あはは、さっぱり分からへんわあ」
スライドを繰り返す画面に合わせて、少女の表情もくるくると変わる。
彼女はフォトフォルダに行きついたときに、ようやく「写真?」と言い当てた。
分かるのかと訊けば、「色はついてへんけど、昭和にもカメラとか映画があったなあ」と返された。
それからサチコは、「今はヘーセーなんやろ?」と今度は外した。
令和だと訂正してやるとお次は「ホウギョなさったん?」と来て、ユウキが小学生なりに頭を絞ってスマホをタップし、「譲位」だと訂正してやった。
「はー、時代は変わるもんやねえ」
おばけ娘は腕を組んで感慨深そうにうなずいている。
「サチコはいつの時代のひとなん?」
「昭和九年生まれ。死んだんは九歳で、昭和二十年のときやなあ」
死んだ。幽霊だから。当たり前だ。
軽い気持ちで訊ねたが、返された言葉に混じった「死」に背筋が冷える。
たった数分の会話で、彼女が「あっち側」の存在だという認識が薄まっていた。
同時に、「これは幽霊でもデリケートとかセンシティブとかいう話題なのだろうか?」というイマドキな疑問も浮かんだ。
「なんで死んだん?」と続けたかったが、ちょっと引っ掛かることがあった。
年齢の計算がヘンだ。ひとつ下の学年なら、十か十一のはずだ。
「自分の歳なんて間違わん。そっちが間違ってはるんやない?」
問い返され、ユウキも自分の生年月日を西暦で答えたが、逆に「ひとつ余分」だと返された。それこそありえない話だ。あまりにも自信満々で言い合うものだから、お互いにそっぽを向いて黙りこくる格好になってしまった。
――いきなりケンカかよ。
心の中でため息をつく。せっかく勇気を出して「サチコ」と呼んでいたのを、急遽「ササベさん」に変えようかと思った。
いつの間にか蝉が鳴き始めていた。
ユウキは、幽霊の娘が消えてしまった気がして、慌てて彼女へと向き直った。
まるで鏡映しだ。
少女もちょうどこちらに向き直ったところで、ぴたりと視線が重なった。
女の子と見つめあうなんて、不思議な気持ちだ。
学友たちや、母親や父親を出し抜いたような、こっそりとおとなになったような、そんな気分かもしれなかった。
「あははは! ダメ、負けてもーた!」
睨めっこのつもりか、サチコが急にお腹をかかえて笑いだした。
最初に口に袖した慎ましやかさはどこへやら、彼女は吹き出して、ユウキの頬に生ぬるいしぶきまでかかった。こいつホントに幽霊か。
だが、腹を立てるよりも、ここは笑うべきだと感じ、ユウキもその通りにした。
それからふたりは仲直り、お互いのことを話した。
ユウキが聞かされたのは、「戦時中」の話がおもだった。
社会科の教科書の後半部分。もうすぐ習う予定の時代。
秋に修学旅行で行く予定になっている、広島に関係するそれ。
サチコは駄菓子やゴム跳びなど、今の小学生にも通じる話もしていた。
書籍にもユウキが図書室で読んだことのある共通のタイトルがあった。
符合すればふたりの会話は鞠のごとく弾んで、打つ手から外れたようにどこかへと転がっていった。
しかし、「戦争」という言葉が、ユウキの心の底に仄暗いものを居座らせてしまっていた。
死がつねに隣り合っていた時代。
自分と変わらない歳の子どもが、このサチコが、死んだ。
少年は思う。死より恐ろしいものなんて、絶対にないだろう。
母の口にする危険。その最たるもの。事故や事件のその先。
それに立ち向かえば、勇気があるってことになるだろうか。
……危ないことはしないで。
母親の口癖が聞こえた気がする。
「なあ、サチコはなんで幽霊になったん?」
死という言葉、そのものだけは避けて問う。
「んー……」
つと、表情を落とす少女。少年は心の内で苦いものを噛む。
「川で溺れてなあ……」
空襲とかじゃないのかよ、とも思ったが、脳裏にすぐそばにある紀の川や、ずっと北にある淀川が浮かんで、彼らが手招いた気がした。
川遊びをしてるであろう友人たちのことが、急に心配になった。
どぼん、という音が、聞こえた気がした。
「ユウキくんは、死んだらあかんよ」
どこか冷たく、突き放すような声。
「おばけになってもーたら、寂しいからなあ……」
サチコは空を見上げていた。蝉時雨、縫うそよ風。
死んだはずの少女の黒髪が揺らされ、彼女の汗ばんだ頬に数本張りついた。
すっと、無垢な指先が髪を払う。
七月の教室で見た、女子のしぐさ。
再び吹いた風はどこからかプールの塩素のにおいを運んだ。
ユウキは、「サチコは嘘をついている」と感じた。
何を指して「嘘」なのかは自分でも分からなかったが、彼女だけでなく、急に自分が存在しているこの場所までもが曖昧で、嘘のようになった気がしたのだった。
「なあ、サチコってマジで……」
少年は彼女の肩へと手を伸ばしていた。
触れてみたい。彼女の着物と、その下の柔らかな肌、もっと下の確かな骨。
しかし、指先は鮮やかな赤に吸いこまれてしまい、にわかに死を思い出させた。
「ユウキくん、今なんか、うちに悪いことしようとしはった?」
「べ、別に何も……」
「ほんまに?」
悪い、笑い。クラスの女子とは違う、くちびる。
「うちら、やってもーたなあ。“男女席を同じうせず”やもんなあ」
赤い袖が花びらを隠して、おばけのサチコが笑う。
「そろそろ帰ったらどーや?」
はたと気づく。境内に差しこむ斜陽。
少女の顔に深い陰を作り、いっそう艶やかに見せた。
少年はニ、三歩後ずさり、逃げるようにきびすを返し、駆け足で鳥居をくぐった。
スマホを見れば十八時の門限どころの騒ぎではなかった。
すでに母親から注意、催促、心配の三つのメッセージが届いている。
「……」
ふいに、足が止まった。
ユウキは振り返り、「また明日も来るから!」と叫んでいた。
来たときの悪態と同じように、声が吸いこまれた。
けれども今度は夏の虫ではなく、静寂が呑んだ。
かげり始めた境内は、誰も彼もから忘れ去られたようだった。
着物の少女もまた、夕陽と混じって溶けてしまったかのように、消えていた。
***