11.孤独
雨だ。雨が降っている。この家は雨が降るとにおいが変わる。
夏のにおい。むせかえるような青臭さと、ほこり臭さと……。
リンは「あの日」に引き戻されてしまうと感じ、恐怖した。
だが、鼻腔に届けられた慣れ親しんだ香りが、かろうじて食い止めてくれていた。
――今日はカレーなんだ。
モールから帰って、いつの間にか寝てしまったらしい。部屋が暗い。
目覚めたときにここが自分の家のリビングだったらよかったのにと思う。
もっと昔の、東京に住んでいたころの「カレーの日」だったらいいのにと願う。
「ライスカレーを食べさせてもらえるん!?」
女の子の声がする。そうだ、サチコちゃんだ。
リンは思い出す。両親への当てつけにサチコのことをバラしてしまった。
あのときは、そのせいでユウキが叱られようが、サチコがお祓いされようが知ったことかと、ヤケになっていた。
サチコは隣の居間で、両親に連れられてデパートのレストランでカレーを食べた思い出話を披露している。「カレーってそんな昔からあったの?」と弟の声。「明治時代に渡来してきたんじゃなかったかな」と父の声。
「俺の子どものころは辛味入り汁かけ飯と呼んどった」
「うちもやなあ、敵性語はつこうたらあかんって、言われとったなあ」
「いや、親父は戦後生まれだろ……」
祖父も帰っているらしく、父から冗談にツッコミを入れられている。
リンは、ふーっと息を吐いた。
サチコは受け入れてもらえたのだ。
自分の八つ当たりで追い払われなくて、よかった。
あの感じなら、母や祖母もなんとか理解をしてくれたのだろう。
安堵し、ふすまの向こうの会話へと耳を傾ける。
どうやら、ちゃんと戦争時代の幽霊だということも了解済みのようだ。
昔の話だけでなく、彼女の幽霊スキル(?)のことも話題にあがっている。
楽しそうだった。親戚の子が遊びに来たような雰囲気だ。
いつもは団欒に混じらなければ孤独を感じるものだが、今のリンの胸へは、家族の声によって大きな安心が届けられていた。
――このぶんなら、イヤフォンは要らないかな。
リンは家族に「自分の知らない話」をされるのが嫌いだった。
置いて行かれているような、ひとりぼっちにされているような気がするから。
出かけるのは苦手だったが、自宅での思い出作りには必ず参加した。
代わりに、テレビ画面や食事を囲むとき以外はなるべく耳を塞ぐようにしている。
疲れているときは、ノイズキャンセリングだけを使って音楽や動画を流さない。
反対に、「知らない人間が介入する余地のある状況」では、絶対にイヤフォンを使わない。
聴覚だけでなく、視覚も手放さない。スマホに夢中になって周囲への警戒を怠るなんてことは、決してできなかった。
父が帰り、東京へ戻ったときはよかった。
集団登校をし、近所の子といっしょに帰れたから。
「あいつ」が来るかもしれない駅やバス停には近寄らないようにする。
遊びにもなるべく行かないようにして、出かける必要があれば自転車を飛ばす。
中学にあがり、見知らぬ大阪へと引っ越してからも恐怖の日々が続いた。
登校は部活の朝練のせいで早い。中学校は自宅から駅の反対方向にあったから、スーツ姿や学生服たちとすれ違わなければならない。
それでも、彼らは何をする人なのか服装で分かるからまだマシだ。
だが、進行方向が同じで私服姿だったりすると、不安になる。
それがおとなの男性だったら、走って逃げたくなる。
道の同じ側を歩くのは必ず避ける。自転車通学が禁止なのが憎かった。
――今なら、私も入っていけるかな。
ずっと腕の上に伏せたままだった顔をあげた。
涙や鼻水が渇いてこびりついている。居間は隣だが、回りこんで洗面所を経由して出ていかないと。
立ち上がると、湿ったにおいが濃くなった。雨、風。田んぼの、うねる音。
――大丈夫、大丈夫。
言い聞かせて、みんなのほうへ視線を向ける。
ふすまに隙間が開いていて、明かりがひと筋、畳の上に伸びていた。
ふいに、談笑が遠ざかった。
光はふすまからではなく、煩雑に打ちつけられたトタンの壁から漏れていた。
田んぼからの湿気が忍びこみ、むっとするような熱気に包まれている。
――タツヤお兄ちゃんに頼まれたクワはどこだろう。
リンは見回す。小学六年生の、「あの日」の、「あの場所」で。
目印として柄に赤いテープが貼ってあると聞いたけど、見つからない。
一輪の猫車や犂、バケツがあり、土嚢袋やコンクリートブロックが積まれているが、クワだけが見当たらない。
ここはおじいちゃんの田んぼの倉庫じゃない。田舎では貸し借りは当たり前だと聞いていたけれど、勝手に入るのは不安だ。諦めて見つからなかったと言おうか。
リンは勇気を奮い起こすために、タツヤへの反撃のカードを引っぱり出す。
四角いガラスの向こうに閉じこめられるようにしていた、あいつの顔。
文句を言われたら、お風呂を覗いたのをバラすと言って、脅迫してやるんだ。
そう考えた瞬間、鼻いっぱいに土臭いにおいを吸いこみ、呼吸が止まった。
誰かの手が、背後からリンの口を塞いでいた。
強くつかまれたくちびるがゆがみ、舌先に塩辛さを感じた。
続いて胸にも腕が回されて乳房が押しつぶされ、ブラがずれた。
リンは指を力いっぱい噛んだ。今度は苦い味がした。
男のうめき声。突き飛ばされ、まっかな猫車の中へとすっぽり収まる形になった。
見上げれば見知った顔。タツヤお兄ちゃん。
彼はいつもの優しい口調で言った。「暴れると服が破けるからね」
リンは「やめて」と言った。二回目は「やめてください」と敬語だった。
タツヤは言う。「おれが悪いわけじゃないんだよ」
ぎゅっとつかまれた二の腕。太い指についた土が擦れて少し熱くなる。
息を切らしたような、ぜえぜえという呼吸。私の? こいつの?
震える指がリンのジーンズのボタンに手間取り、何度もお腹が圧される。
「ママに言いつけるから!」
「おれのせいじゃないんだ。きみのママにも責任があるんだよ」
噛み合わない会話。
「パパ、助けて!」
「パパはアメリカだよ!」
ジーンズに締めつけられていたウエストが楽になる。
それから下腹部に、ざり……という感触を感じた。
……。
リンは叫んだ。「痛い、痛いよ!」
タツヤは「リンちゃんが悪いんだよお!」と叫び返した。
鼓膜が破れるくらい、大きな声で。
あいつが揺するたびに、猫車のかどが足の裏に当たって痛かった。
向きを変えさせられるたびに、肩の骨が外れるかと思った。
両親や祖父母を何度も呼んだが、返事をしたのは青臭いすきま風だけだった。
タツヤの肩越しに、ひとつ小さな星のようなものが、ちかちかしていた。
何もかもが泥の中に沈んでいくようだった。
流しこまれた泥が身体から溢れ、腿を伝って落ちた。
じっさい、リンは服を着なおしたあとに田んぼへと突き落とされた。
服は破れなかったけど、けっきょくは捨てることになった。
身体をいくら洗っても、あとからあとから濁った水が流れ出た。
――私は、助けてって言ったのに。
あの日から、リンは身体の中に泥が詰まったままのような気がしていた。
世界が小さな農具倉庫とただっぴろい田園だけになり、その向こうはまっくら闇になった。
突き刺すような。貫くような、闇だった。
ぶつりと途切れた先に、未来はなかった。
あの隙間から入りこむ光は、希望ではないのだ。
伸びた米の苗たちが風に波打ち、太陽が輝やかせて作ったものだ。
リンは重いお腹を引きずり、あの風景の中を歩いた。
太陽は裏切るかのように、泥を乾かし固くこびりつかせた。
歩く。あぜ道をいくら行っても、みんなのところへたどり着かない気がした。
道を囲う田園はその年、青刈りされたという話を思い出す。
――青刈りって、なんだろう?
母の声がする。「リンは調子が悪いみたい」
そう、リンは、田んぼに落ちたのを「だから気をつけなさいって言ったのに」と咎められ、翌朝から熱を出して寝こんだことにも深いため息をつかれたのだ。
どこかで声がする。『今日こそ言いだすチャンスだよ』
リンは首を振った。『どうして?』
配膳を手伝う父と弟、カレーの香りに感動するサチコ。
ごとりと音がしたのは、祖父がビール瓶を置いたからだろう。
たった障子一枚。
リンはそこに入っていけない。入っては、いけない。
みんな、楽しそうだから。
「お父さんも手伝わはるんやなあ」
「今はサチコちゃんの時代とは違って……」
父が何か言った。彼の好きな流行の最先端、世界のスタンダード。
ダンジョビョードーガ、ススンデイル?
――ねえ、お父さん。
私はいつになったらビョードーになれますか。
欠けたところはどうしたら直りますか。
どうしてこんなにも、苦しいんですか。
『本当は知ってるくせに。なんでお父さんを責めるの?』
リンは、どくどくと脈打つ疼痛に合わせて謝り続けていた。
――あいつだって言っていたじゃんか。
「余計なことを言うと、リンのせいで家族が壊れるよ」
リンのせい。私が悪いということ。
私が悪い。今日もみんなに迷惑をかけてしまった。心配をさせた。
――心配なんて、してないか。
リンは立ち尽くしていた。
いつの間にか髪を乱して倒れ伏した自分自身の姿を見下ろしていた。
まるで、幽霊になったみたいだ。
でも私は、サチコちゃんとは違うらしい。
ふすまの光が揺れているのが見えるのに、音が聞こえない。
みんなの声が、聞こえない。
イヤフォンがノイズをカットしてくれたのかもしれない。
耳へと手をやるが、コードはなく、リンはもう、どことも繋がっていなかった。
誰かがふすまの隙間を閉め、闇が訪れる。ぷつり。
冷たいな、とも思ったが、まっくらなほうが安心できた。
ひとりぼっちのしじまの中、何事もなかったかのように、時間が過ぎた。
「そこに居ると布団が敷けない」と苦情を言われてしぶしぶ起き、風呂場で血がにじむまで泥をほじくり出し、髪も乾かさないで布団に潜った。
夢の続きを見た。
夢だとはっきり分かっていた。
中学のあいだに見聞きした知識が、あの日とは少し違う、作り物の世界に見せていた。
いや、幽霊らしく、あの日を外側から見ていた。
タツヤはリンではなく、まっかな猫車に向かっている。
泥人形を相手に、バカみたいな野良仕事に励んでいる。
猫の叫びは夏の合唱に掻き消される。
その合唱の中に別の音を見つける。これは、スマホのカメラアプリの音だ。
変なの、と思う。撮られてたはずがない。
タツヤは両腕で私を抑えこんでたんだし。
サチコちゃんみたいに、透明になれたらいいのに。
何もかも、すり抜けられたらいいのに。
念じると、身体がふわっと倉庫から吸い出された。
――猫車の私が、助けてって言っている。ばいばい。
目覚めると夜中だった。
家族の寝息が聞こえる。遥か遠くに、蛙の声。雨はやんでいた。
リンは起きだし、洗面所で蛙のまねをしたあと、居間のテーブルや台所をあらためた。カレーは残っていなかった。また、私だけ。
このまま、どこかに消えてやろうか。
靴も履かずに行こう。雨がきっとあぜ道をぐちゃぐちゃにしてくれただろうから。
いっそのこと、服も脱いで行ってやろうか。
「って、服があるし」
縁側に服が置いてあった。
丁寧にたたまれ、スニーカーと並べられたそれは、サチコのために選んだものだ。
「あ、姉さん。起きてきはったん?」
庭に浮いている女の子。
両膝を曲げ、余った袖で手を隠し、いかにも私は幽霊です。
その背後では、欠けた低い月が雲の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
リンは謝ろうと思った。自分がサチコのことを母にバラしたのだ。
気掛かりだった。それでひとつ罪を洗って、消えよう。
「姉さんが言うてくれはったんやなあ」
サチコは「おおきに」と続けた。
「また家族ができたみたいで、楽しかったわあ」
お礼を言われるなんて……。
リンは力無く縁側に腰かける。サチコもふよふよと宙を漂い、隣に座った。
「サチコちゃんは眠れないの?」
「寝えへんようにしててん。起きたときにみんながおらへんくなってたら、寂しいからなあ……」
臆面もなく寂しいと口にする女の子。羨ましい。
それから、可愛いと思ってしまう。妹がいればよかったのに。
「なあ、姉さんはだんない? いなくなったりせん?」
どきり、とする。
壁が抜けれるからといって、心まで見透かせるわけじゃないだろうけど。
答えずにいたら、サチコがぽつりぽつりと身の上話を始めた。
「うちの知り合いはみーんな、おらんくなってもーた……」
彼女は生まれは京都で、大阪の堺に暮らしていたという。
商家の長女と、貿易商の長男のあいだに生まれたひとり娘。
母親が京都の商家の出身で、京ことばを話すのはそのせいだそうだ。
サチコは裕福だった。
彼女は優しい父と母に守られ、友人に恵まれて暮らしていた。
「でも、今の時代のほうがええなあ……」
夕食のカレーが、自慢の思い出のものよりもおいしかったのには驚いたそうだ。
「サツマイモも、えろーうまなってて驚いたわあ。じいちゃんが、うちの時代の人らが頑張って改良したお陰やゆーてはった。うちもイモとナンキンはよー作ったねん」
くったくなく笑う少女。
カレーも食べ尽くしたくせに、イモも食べたらしい。
祖父母の畑で採れたものだろう。
舞妓はんみたいなしゃべりの子が、カレーにイモ。
おかしくなって、リンもつられて笑った。
だが、笑顔はすぐに掻き消える。
戦争が深まるにつれて金回りは悪くなっていった。
少しくらい貧しくなろうとも、一家は幸せだった。
だが……。
「召集令状が来てなあ。お父さん、お国のために出て行ってもーた」
それぎり。
「ほんで、大阪は空襲が来るからいうて、うちだけこの辺に疎開してなあ。いうても、和歌山も街のほうはやられとってんけどな」
母とも別れ、友達とも、それぎり。
母の妹の嫁ぎ先に身を寄せたらしいが、叔母は冷たかったという。
それでも、再会を信じて終戦前の貧しく厳しい日々を生きた。
「手紙が届いてん」
母からの便りは手続きを経たために古いものだった。
サチコはそれを胸に、戦後の暮らしに想いを馳せる。
そして、堺の大空襲。
空襲の噂は何度も聞かされていたが、サチコがはっきりとそれを知ったのは戦後に疎開先を離れ、かつての住まいを訪ねてからのことだった。
「お父さんもお母さんもおらんくなってもうた……」
池に揺れる月のように、しょんぼりと沈む少女。
「叔母さんらは、なんでもうちのせいにしはった。イモが消えても、お皿割れても、日本が負けても、台風が来てもうちのせいや」
自分を澄ませてくれたはずの妹の顔が、濁っていく。
泥の中に、沈んでいく……。
「うちが悪かったんや。疫病神やって」
そんなことない!
叫びだった。
びっくりした顔でこちらを見るサチコ。
リンは「サチコちゃんのせい、じゃない」と、よわよわしく繰り返した。
「おおきに」
再びの礼に、胸の奥がぎゅっとなる。
本当ならもっとたくさんの慰めの言葉をかけるべきなのだろうが、じつの両親が隣の部屋で寝息を立てている事実が邪魔をする。
たとえ、リンにとってはいなくても、生きた父母なのだ……。
息ができず、蒸した空気が泥に変わる気がした。
めまいがする。またあの日に引き戻されてしまう。
リンは耳に手をやる。ここはリビングじゃない。イヤフォンもない。
――でも、誰かと繋がっていないと、無理だよ。
指先がサチコに触れることができたのは、ふたりが同じ幽霊だったからだろうか。サチコは肩にかけられたリンの手にそっと触れた。
途端に、リンは呼吸が楽になった。
それから口から出たのは、可愛い妹への慰めとはさかしまの、おのれの中の泥であった。
「あのね、サチコちゃん。私のお父さんとお母さんも、いなかったんだ……」
***