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10.死人

 ずきんずきんと脈打つ頭。

 夕食のビールに加え、舅のシゲルに付き合って焼酎もやったのがまずかったか。


 シゲルの言うことの半分は当てにならない。

 いつも冗談交じりの男。酒の席ではなおさらだ。


 だが、その気のよさの裏には、今日に至るまでの数十年、町役場に務め続けたという実直さが隠れている。


「アイさん、幽霊のこと、ちょいとまじめに調べてみます」


 そう言った義父からは笑みが消えていた。

 彼は定年を間近にしていたものの、盆も正月もなく、まだまだ精力的に仕事をしている。

 幽霊なんて冗談だと笑っていたが、身内に振りかかったらそうも言ってられん、霊障の話や、関連しそうな事件事故、古い話などを漁ってくれると請け負ってくれた。


 これが通常の心配事なら、心強い側杖を得たと気が軽くなるのだが、アイとしては幽霊を見たのは自身に問題があるせいだと考えているために、気休めにもならなかった。


 ――とりあえず、今日一日は休ませてもらおう。


 ダイスケとユウキは虫捕りに行くといっていた。

 そのはずが、珍しくリンがくっついて行き、ゆきさきが街のモールへと変わった。

 自分は抜きでやってくれて構わない。ここの家事の取締役も痛飲を気遣ってくれているから、頭痛と蝉の声だけを相手にしていればいい。


 アイは座布団を枕に、居間の天井を見つめていた。

 深呼吸をすると、古びた畳の香りに混じって線香のにおいがした。


 目を閉じ、山のきわにこびりつくように林立する御影石を思い浮かべる。

 本来ならば今日の午前中は、義弟の墓参りに行く予定だった。

 それが、幽霊騒ぎで一日見送りとなった。


 夫の弟であるタツヤは、二年近く前に死去していた。

 享年三十二歳。生きていれば三十四。兄とは六つも離れている。


 仏壇に手を合わせこそはしたが、墓参りもまだなら葬儀にも出ていない。

 世界的な感染症の流行が理由だったが、アイはそれに感謝していた。


 ダイスケは隠していたが、アイは知っていたからだ。

 タツヤの死因が尋常ではなかったことを。


 腹をナイフで一突き。

 街でうしろ暗いことをやって、怨みを買っていたらしい。


 ――やっぱり。


 盗み聞いた(・・・・・)とき、ぞくっとした。


 ダイスケが海外赴任をしていたころは、アイもふたりの子どもとともにタツヤと同じ屋根の下で暮らしていたのだ。


 それが、殺された。殺されるようなことを、していた。

 そんな男と、二年近くもいっしょに、暮らしていた。


 もっとも、犯人はすぐに逮捕されており、前科もある札付きだったようだ。

 当人だってすでに死人、過去の人だ。

 だが、夫が舅と話す電話口に、「もみ消し」だとか「脅迫」だとかいうワードが聞こえたことが引っかかっていた。


 当然、今回の帰郷には乗り気ではなかった。

 可能ならば、自分は行かずに済ませたいとまで考えた。


 ――自分は。


 アイはときおり、自分を薄情な女だと思う。

 生ぬるい環境で育ち、夫に寵愛されていながら、大切なのは自分の身なのだ。


 無論、子どもたちのことは心配している。

 だがそれが、子どもたちのためではなく、自分自身が悲しまないために、あるいは親として非難されないためにしている心配なのだと思うことがあった。


 そして、もうひとつ。子どもたちがタツヤという危険と隣り合わせにあったことに恐怖をしながらも、同時にあの非日常を「面白い」と思った自分もいた。


 アイはときおり悪夢を見る。どこからか出られない、閉じこめられる、そういう内容が多い。バスや電車を乗り間違える夢もよく見る。

 当然、夢の中では必死にもがいて苦しむのだが、目が醒めて夢を振り返ると、その悪夢もまた「面白かった」と感じるのであった。


 非現実的なドラマやアニメを体験したかのような興奮。


 いや、もっと悪い。とりわけ、あのときは。

 盗み聞きのさい、アイは腰が砕けたようになり、自室に戻ってへたりこんでいた。

 あの感覚は恐怖というより、ベッドで愛し抜かれたあとに似ていたと思う。


 ――やっぱり、おかしいのは私ね。


 私はまだ、子どもなんじゃないだろうか。あるいは、箱に押しこめられた私は、レールに乗せられ続ける私は、「生きていない」のではないだろうか。


 箱入り娘として育てられた。堅苦しい家風。

 押しつけられた清純な振舞い。習い事のかずかず。

 学生時代にダイスケと隠れて交際したことで、その箱は破られたはずだった。

 それがいつの間にか、当の夫の手によって再び箱へ押し戻されていたのだった。


「愛」


 口に出してみる。言葉は重たい石のように、どすんと畳の上に落ちた。



 ……アイさん!



 誰かに呼ばれた気がして、慌てて身を起こす。見回すが誰もいない。

 シゲルは仕事。クミコは隣のヤマダさんの家に行っているはずだ。

 声はタツヤのものだったような気がしたが、仏間を覗いても、幽霊も何もいないようだ。


 ――幽霊、か。


 もしも霊が存在するのならば、やはり「面白い」と思う。

 着物の女の子は少しベタだが、タツヤの霊ならば、彼がどんなうしろ暗いことをしていたのかとか、殺される瞬間はどうだったのかとか、訊いてみたい。


 ――まあ、幽霊なんていないのだけれど。


 飛び交っているのは浮遊霊ではなく、蚊くらいのものだ。

 気まぐれに一匹、好きに血を吸わせてやる。

 たっぷりと膨らんだそれを、殺す。


 そうやって時間を潰していたら、ダイスケたちが帰ってきた。

 もう少し独りでいられたらよかったのにと小さな不満を覚えたが、彼らは「おみやげ」をいくつも引っ提げていた。


 非日常を望んだアイでも、さすがに理解が追いつかなかった。


 まず、長女のリンは帰ってくるなり、挨拶もなしに足を床に踏み鳴らして客間に消えた。

 彼女は怒り、泣いているようだった。


 ダイスケにどうしたのかと聞くが、歯切れが悪い。

 何かあったのはリンではなく、ユウキと「サチコちゃん」とやらだという。


 じゃあ、ユウキはどうしているのかと思えば、庭に停めた車の前で見知らぬ女の子と談笑している。

 ふたりはアニメのキャラクターのキーホルダーをおそろいで指にぶらさげていた。


 あの子がサチコ? その名前は最近どこかで聞いた気がしたが、思い出せない。


 ダイスケにもう一度事情を聞く。


 ユウキの「友達」であるサチコも連れて、モールへ遊びに出かけた。

 昼食前にお手洗いに行ったら、待っていたユウキとサチコが、不良に絡まれたのだという。

 サチコいわく、「ユウキくんが追うはろうてくれた」とのことで、怪我などはない。

 ダイスケはフードコートで昼食をとりながら、ちょっとした防犯教室のようなものを開き、うんちくを垂れたらしい。


 防犯教室。

 PTAの会合でも学区内の危険なスポットの説明会を受けたのを思い出す。

 ゴミを放っておくと治安が悪化するとか、落書きは人目を盗める危険な場所を示すサインとか、ガードレールがない道での車からの声かけには気をつけろとか。


 ダイスケは語った。

 犯罪やトラブルは、人の性質よりも現場の環境が強く引き寄せる。

 一万円札が落ちていたとして、それが持ち主の背後か、誰もいない道端かで、届けるかネコババするかの判断が変わるものだろう。

 銃があるのとないのとでは、殺人事件の発生率も変わってくる。

 日本はこれでも、平和なほうなんだ。


 ユウキは、「周りは助けてくれなかった」と偉そうに怒ったらしい。

 犯罪や救命において、目撃者が多いと、誰かがやるだろうと責任を押し付け合い、けっきょくは誰も助けないなんてことは珍しくない。

 自己責任というワードが闊歩する先進国ではありがちのことだ。

 助けを求めるときは「誰か助けてください」と周囲に呼びかけるのではなく、個人を指名して、責任を発生させてやるといい。


 ダイスケがそのあたりまで説明したとき、リンの様子がおかしくなった。


「じゃあ、お父さんは? なんで助けなかったの? 責任、何割ですか?」


 トイレに行っていたあいだのこととはいえ、確かにダイスケにも責任はある。

 見て見ぬふりをした利用客などよりも、保護者の責任がより重いのは当然だ。


「だけど、どうもユウキたちのことで怒ってるわけじゃないらしくて……」


 娘をなだめすかすも、取りつく島もなく、「もう帰りたい」の一点張り。

 対して、女の子の前でいい格好をしたという息子が頑として譲らず、ダイスケは板挟みとなった。


 そういうわけで、あいだを取って早めに切り上げて帰ってきたそうだが……。


「ここは女同士ということで、お願い」


 ダイスケに手を合わせられるのは珍しい。

 アイは引き受ける。サチコとやらも……その子といやに親しげにしている息子のことも気にはなったが、やはりここは女親としての責を果たさねば。


「リン?」


 客間の隅に身を投げ出して突っ伏した娘へ声をかける。

 リンは答えない。触れると身体をゆすって振り払われた。

 不良は関係ないのかと訊ねれば、首を振る否定で返される。


 だったら、なんだろう。


 ……アイさん。リンちゃん。

 再び声が聞こえた気がした。タツヤは死人だ。


「また、幽霊を見たとか?」


 リンのすすり泣きが、ぴたりと止まった。

 アイは思わず周囲を見回す。


「幽霊なんていないわよ。大丈夫だから」

「いるし、ずっと!」


 こんなに声を荒げる娘は初めて見た。ずっと、ずっといる!


 だが昨夜とは違い、アイには何も見えない。

 リンの様子がおかしいのは確かだ。なんとかして落ち着いてもらわないと。

 もう少し真摯に対応するそぶりを見せたほうがいいかと考え、立ち上がって仏間の確認でもしてくるかと考えた。



「そっちじゃない!」



 さらに大きな声だった。彼女は顔を伏せたままだ。

 自分がタツヤの仏壇を見ようとしたのを、気配だけで見抜いたらしい。

 アイはとりあえず、大声を出したことをなだめるように叱った。


「お母さんも、お父さんも、なんにも分かってない!」

「言ってくれないと分からないでしょう?」

「言っても無駄!」

「無駄って……。幽霊だから? 幽霊が何かするの?」


 リンは肩を引くつかせた。

 濡れた鼻声交じりだったが、彼女はなぜか笑っていた。


 気が狂ったのだろうか。まさか、狐憑き?


「幽霊なら、ユウキと今いっしょにいるよ。いいよね、男は」


 リンはそう言うと、身体を丸めてしまった。

 さっぱり訳が分からない。


「……お母さん、いつもユウキに危ないことしないでって言ってるよね? あいつ今、憑りつかれてるよ。おばけのサチコちゃんにね」


 リンが笑う。くっくっく。身を折り曲げ胎児のようになった娘が、笑っている。


 ――おばけのサチコ? さっきの子が?


 どう見ても生きた人間だった。何かの比喩か、謎かけか。


 不気味な笑いを背に受けながら、ユウキたちのもとへと向かう。

 廊下に出ると娘の笑い声は低くなり、男が笑っているようにも聞こえた。


 玄関の引き戸に手をかけたとき、縁側から出ればよかったと気づく。

 ふたりは庭にいるのだった。



 がらり。扉を開き、アイは敷居をまたいだ。



「ほら見て、でけた! 服着たまま浮けたわぁ」


 はんなりとした言葉遣い。

 ふんわりとした、身体……?

 少女がふわふわと、浮いている……?


「見られたらヤバいって。そういうんは神社とか人目のつかないとこでやろう?」

「はー、人目につかんとこ? ユウキくん、また悪いこと考えてはるなー?」

「考えてへんわ!」

「ほんまー? おかーさんとおとーさんに言うたろー……」


 宙に浮いた少女と目が合った。ふっくらとした丸いほっぺたが硬直する。

 続いてユウキも、ぎくりとこちらを見た。


「み、見つかってもうた!」


 少女が叫ぶと、途端に彼女の足元に何かがばさりと落ち、いつの間にか肌色一色の全裸になっていた。


 息子は「えっ!?」と言って、サチコのほうを見た。

 だが、そのときにはすでにサチコは裸ではなく、赤い着物姿になっていた。


 理解が追いつかないが、その姿にはアイにも見覚えがある。


「き、昨日の幽霊……!?」

「ど、どうもー……。雀部幸子いいます。ユウキくんの友達で、おばけです」


 おばけが空中でぺこりとお辞儀をする。


「……あはははは!」


 アイは笑いだした。

 そりゃ、こんなのに付き合わされたら、リンだって泣きたくもなるし、気も狂う。


「言っとくけど、危ないことはしてないから! サチコは悪霊じゃないし、憑りついてもいない!」


 息子は両手を突き出し必死に弁解している。

 ご丁寧にサチコの前へ立ち位置を変え、彼女をかばうように。


 ドラマの浮気シーンじゃないんだから。アイは肺が破裂するかと思った。

 ダイスケが上手く説明できなかったのも、この子のせいだろう。

 そう考えると夫の煮え切らない態度もなんだか可愛く、滑稽に思えてきた。


 だが、少なくとも息子は「憑りつかれている」ように見える。彼も男の子だし?

 サチコはユウキの背後で服を拾い上げて土を払っている。

 物が触れるのか。人とも触れあえるのだろうか?

 だったら、「危ないこと」をして危険になるのは、彼女のほうかもしれない。

 気の早い話か。あの子はいくつくらいだろうか。ユウキと同じくらい? それともリンと?


 ――おばけということは、あれも死人なのに。なんの心配をしてるのやら!


 アイはもう一度笑った。「あはは!」

 今度は腹の底から、遠慮なく。


 ひとしきり笑ったあと「はー、おもろ」と、普段は毛嫌いする関西弁をつぶやいた。


***

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