01.鳥居
危ないことはしないで。
佐藤勇気の頭の中で、母親の口癖がリフレインする。
ユウキは、危険といわれる行為をおこなったりはしない。
怪我なし、病気なし、成績も問題なし、自覚している範囲では非行もなし。
ただ、この小学生最後の夏休みの思い出作りとして、クラスメイトたちと川遊びをやってやろうかと企んでいたが、せっかくの計画も里帰りで流れてしまっていた。
里帰りの話が挙がったときには、「自分だけ家に残る」という考えが頭をもたげかけたが、母の冷えた視線が釘を刺した気がして、口にすらできなかった。
今こうして、行きの車窓から小山の中に見つけた「灰色の何か」を調べに出かけているのですら、父親の「二年もここに住んでたでしょ」という苦笑がなければ叶わなかったと思われる。
そもそも、その父親がいつものように「家族らしい付き合い」をぶちあげたおかげで、友人との約束が立ち消えになったのだが。
ユウキは、川にて自分の度胸を試してみようと考えていた。
飛びこむとか、対岸まで渡るとかそういうことをして、「勇気」を示す予定だった。
普段から自分には意気地が足りないと思っていた。友人にどうもバカにされている気がしていた。それを挽回する機会を失ったのだ。
数か月前から資金のために小遣いをやりくりして、仲間と「子どもが川に流された」やら「バーベキューで中州に取り残された」やらのニュースを見せ合って、「悪い笑い」を交換していたこともあり、ショックは大きかった。
友人たちは今ごろ、電車に揺られているだろう。
ユウキは石段をのぼる足を止めた。足もとで木漏れ日が揺れている。
見上げれば、枝葉の天井の切れ目から青空が覗いていた。
蝉が滝のようにさざめいているが、聞き慣れれば静かにも思えた。
振り返ってみれば紀伊の山々と田畑、その中に点在する人家や農具倉庫、廃虚と区別のつかないくらいに古びたスーパーマーケットが見える。
ここからでは見えないが、付近には大きな川がある。
自然の中にある、立派に流れる本式の川――紀の川――だ。
友人たちが向かっているであろう郊外の淀川も、三本の川の合流する近畿の動脈だが、府内から出ないということと、第二の都市大阪というレッテルがケチをつけていた。
だが、友人たち抜きでは、自然豊かな紀の川さえも興味を惹かない。
ひとりでは無意味なのだ。この歳になって姉と遊ぶわけにもいかないだろうし。
苔むした石段の隅に、動く何かを見つけた。小さな蟹だ。よく見ればどこからか水がしみ出してきて、石をしっとりと濡らしている。湧き水だろうか。
こんな発見のひとつでも盛り上がれたものをと考えると、里帰りにますます腹が立った。
かといって、ひとりでは蟹に八当たるほどの気勢も持たない少年は、黙って石段の続きに取りかかることにした。
幅の広い石の段。この先にあるのは、いったいなんだろうか。
ユウキの頭によぎったのは城跡だった。
京都のどこかしらで登ったそれに似ていると思った。
刀や槍のひとつでも転がっていたらいいのにと、期待を持ちかけて捨てた。
妄想する間もなく、石段の終わりが見えたのだ。
灰色の正体も分かった。興ざめだった。
「神社かよ」
やっと口にした反抗心は、夏のコーラスの中に呑まれていった。
ふいに、静寂が訪れる。
ユウキの言葉に喉を詰まらせたかのように、蝉たちがぴたりと鳴きやんだのだ。
全校集会の校長先生ですら、こうはいかないだろう。
視界に境内が現れてから、日当たりのいい場所が増えたが、むしろ麦茶を求めて冷蔵庫を開けたときのような冷えた空気が流れていた。背にシャツを張りつける汗が、氷のようだ。
鳥居の色は、根元が苔に覆われて地面と一体化している以外は、御影石そのままで、ユウキの知っている朱に塗られたものと比べて、ぼけた印象を受ける。
父親がシンメイがどうとかミョウジンがどうとか、くぐるときは一礼してまんなかを通らないようにするとか講釈を垂れているのを聞いたことがあったが、そんな大それた話の似合わない、ちっぽけなものだと思った。
デザインも上部が何やら角ばっており、飾りけがない。
社殿も階段や扉こそはあったが、人が中に入れるようには思えない半端な大きさだ。「ほこら」と呼んでやったほうがしっくりとくる。
ユウキはあえて、鳥居のまんなかをくぐってやることにした。
どうせ誰も見ていないのだ。社殿の中も覗いてやってもいいかもしれない。
よう、ちっぽけな神様。お賽銭箱がなくて運がよかったな、とひとりごちる。
そんな勇気など、ありはしないが。
鳥居を目前として、足が止まった。
バチが当たるとか、憑りつかれるとか? まさか。
母親はこれすらも「危ないこと」と言うだろうか?
ユウキは母の顔を打ち消してやり、境内に踏みいってやった。
「わ、お客さんやぁ」
聞き違いか。女の子の声がした。
関西弁ふうの発音だったが、ふわりと浮かんで転がすような声だった。
無論、少年は背中だけでなく心臓まで凍らせていた。
「何、固まってはるん? うち、別に神主さんとちゃうよ」
振り返れば、視界の中央にまるで血が広がったような光景を見た。
赤地に白い花柄の着物。綺麗に切りそろえられた、おかっぱ頭。
丸顔で、くりくりとした目をしていて、日本人形か雛人形かという風采。
どうしてこんな場所に、そんな格好をした女の子がいるのか。
クラスメイトのオカルト好きが脳裏によぎったが、神社にその服装、夏休みとくれば、祭か何かかもしれない。
首を振り打ち消す。明確な違いは知らないが、あれを浴衣といったら、姉が笑うだろう。屋台もなければ祭囃子も聞こえない。いや、聞こえたら聞こえたで「確定」だが。
「いややわぁ。そんな顔しはって。やっぱり、こんなかっこは場違いやろか」
女の子が袖を持ち上げてみせれば、赤地に浮かんだ白い花がひらりと揺れる。
彼女の頬も温かな桜色になっていた。
どうみても生きた人だ。
日本人形ならおしろいを塗って口紅もしていていいくらいだ。彼女には化粧っけもないし、両脚は厚い草履履きだが、ちゃんと地面についている。
「なあなあ、なんか言ってくれはらへん?」
女の子は雀がちょんちょんと跳ねるように近づいてきた。
ユウキは口が利けなかった。
「ここで子どもにおうたんは何年振りやろ? なあ、あんたは生きてはる人? 死んではる人?」
少女が問う。
ふっと、山の薫りに混じって学校の資料室のようなにおいを感じ、少年は正気に戻った。
小さなプライドが、ちくりとする。こっちが聞きたいくらいだ。
「俺、佐藤勇気、小六」
少し角ばった言いかたをしてみた。
去年あたりから、女子に話しかけられるとどうもむずがゆかったせいだが、返事がツボに入ったのか、女の子は「ショーロク」と口の中で二度転がして笑った。
「うち……わたしは、雀部幸子といいます。初等科の五年です」
ぺこりとこうべを垂れ、おかっぱを揺らす。
初等科という言い回しが引っかかったが、一個下の学年らしい。丁寧になられるとかえって年上にも見えてきたが、それでもユウキの肩から力が抜けた。
「こんなとこで何してんの?」
「知らん子見かけたら、見におりたんや。そちらさんこそ、どこから来はったん?」
場違いの京娘は首をかしげた。やっぱり、雀みたいだ。
「大阪」
短く答えた。教室なら「大阪やで」で、母親の前なら「大阪です」だ。
「大阪。ええなぁ、懐かしいなあ。今はどないなってるんやろなあ」
サチコはそう言ったが、質問というよりは独り言のようだった。
ユウキは社殿を振り返った。その向こうは森。山にはもう少し続きがあったが、神社はおおむね頂上にある。サチコの「おりた」という表現は、どういう意味だ?
「その格好でのぼってきたの? 動きにくくない? 汚したら怒られない?」
訊ねて恥ずかしくなる。三つもまとめて、がっつくように言ってしまった。
サチコはそれに対して丁寧に答え、今度はユウキが雀になった。
「このかっこでおりてきたんです。モンペは嫌いやし、この一張羅も汚れたりせーへんよ」
やはり、「おりてきた」という。
モンペ、モンスターペアレントが好きな人などいない。
どうかすれば、裾が草や地面に触れそうな着物が、汚れない?
「うち、“おばけ”やしなぁ」
またまた御冗談を。
ユウキ少年には心霊経験などはないが、ホンモノに遭った場合は本能的に「分かる」ものだということくらいは耳にしたことがある。
「嘘やと思うてはるやろ?」
サチコはその手の冗談が似合うほど幼いようには見えなかった。
だが、声はちょっと怒ってるような早口で、けれども顔は笑っていた。
これは「悪い笑い」だ。
水難事故のニュースを見せ合ったときの友達と、同じような。
だからユウキも、同じ顔をして証拠を要求した。
「ほんなら、見せましょー」
少女はそう言うと、少年がひとつ瞬くあいだに目の前までやってきた。
まるで、すーっと滑るように。
それから漂う人のにおい――少し甘いような、女の子の――ほらみろ、やっぱり人間だ。
続いて少年が「俺よりも背が低いな」と思ったときにはすでに、サチコの赤い振袖が彼の左胸の中へと深々と突き刺さっていたのだった。
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