ウィステリア・ブルー・ハート
「僕ね、心臓がないんだ」
出会った少年は、にこにこ笑いながらそう言った。
暮時の日差しが、廃棄された前文明の遺物を照らしていく。錆だらけの世界で、少年の瞳だけがひどく透明だった。
「心が無いってこと?」
「いや、文字通り。ほら」
ジャケットを開いてシャツのボタンを外して、少年は自らの胸を見せた。ぽっかりと、不可思議な穴が開いていた。
「ね、ないでしょう」
「ないけど……」
少年を見つめる。彼は深海の底から取り出したような眼差しで見つめ返した。
「なら、ヒトじゃないの?」
「ヒトだよ。歴とした前文明由来の生命体。遺伝子検査をしたっていい」
ひらひらと、自信ありげに手を揺らして少年は笑う。
「でもさ、標準のヒトがもういない以上、その質問に意味はあるのかな。誰もが変異したヒトなのに、誰一人として同じ『ヒト』はいないのに、何をもって敵じゃないと判断するんだろうね」
「それは、ごめん」
もっともな主張だった。一旦謝ってから続ける。
「でも、まさか心臓もなく生きているヒトがいるなんて、思わなくて」
「まあ、そうだろうね。分かるよ」
少年はケタケタ笑った。柔らかな黒髪が揺れた。
「正直に言うと、僕だって驚いた。変異していると思ってなかったから」
「え?」
戸惑いの声が漏れる。愉快そうな少年が、唇を歪めた。
「僕、つい先日までは標準のヒトだったんだよね。少なくとも、見た目と自認は。心臓を奪われるまでは」
「……元々、なかったわけじゃないんだ」
「そう、僕の心臓は確かに存在して、今も鼓動を続けている。それは分かる。どこも損なわれることなく、静かに僕を生かし続けている。でも、それだけ。どこにあるかも、誰に奪われたかも分からない。その目的もね」
少年は一度目を伏せ、それからこちらを見た。
「だからさ、取り返すの、協力してくれないかな」
差し出された手は、当たり前のように血色がよかった。
「どうして?」
「一人では大変だから。君はいい人だと感じたから。他に理由が要る?」
「そんなあっけなく、他のヒトを信じてはいけないと思うんだけど」
「信じるよ。僕が信じたいからね」
少年は不思議なほど楽しそうに続けた。
「前文明が戦争でなくなって、隕石が降ってシェルターも争いで壊れて、生き残ったヒトビトも自分だけで精一杯。そんな世界になってしまっても、誰かを信じるのに、難しい理屈なんていらないだろう? それとも君は、理論立てて合理的でなければいけないヒトなのかな」
「違うよ。違うけれど……」
言葉を濁し、理由を探る。けれど考えれば考えるほど疑う理由が消えていって、空転して、考えるのが無駄に感じた。
「そうだね、君の言うとおりだ」
頷いて、微笑む少年を見返した。
「君を信じるよ。そして、協力する。君が心臓を取り戻すまで」
「あはは、取り戻した後はそれっきりなんだ、悲しいな」
ちっとも悲しそうでない少年にため息をついて、口を開く。
「取り戻した後どうするかはそれまでに考えるよ。特に目的もないしね」
「ああ、そうなんだ」
「強いて言うなら、生きることかな」
「それは大事だね。僕らが死んだら、僕らそれぞれたった一人だけの『ヒトの亜種』は絶滅してしまうわけだから」
少年は遠い夕陽に顔を向け、目を細めた。
「きっともう生まれないよ、心臓が奪われても生きているヒト」
「そうだね、確かに」
「君だってそうだろう? どんな変異か知らないけれど」
言ってから、ああそうだ、と少年がこちらに顔を戻す。
「僕は藤青。君は?」
「好きな風に呼んで。できるなら、同じ名で呼び続けないでほしいけれど」
少年はぱちりと瞬きをした。
「もしかして、自己がない?」
「持ちたくない。気持ち悪い。特定の誰かでいたくない。『ヒト』の一人でいたいんだ。数多いる中の普遍的な存在でありたいし、誰かの特別になる気もない。レッテルのない一生を送りたい。誰のことも変えたくないし、変えられたくない。この感覚でさえ、できれば消してしまいたいよ」
吐き出した声を、少年は笑みを浮かべたまま聞いていた。
「それ、僕と協力するのは大丈夫なの?」
「助けを求められて応えるヒトなんて、ごまんといるさ。応えないヒトも、同じくらいいるだろうけど」
肩をすくめる。少年は同意するように笑いをこぼした。
「分かったよ。なかなか面白い変異で、興味深いね」
「興味を持たないでほしい」
「まあまあ、仲良くしよう。これからしばらくは一緒にいるわけだし。それぞれが生きるために、それぞれが生きやすいようにしよう。元来、ヒトってそういうものでしょう?」
「……そういうものだね」
少年の言葉に、しぶしぶ賛成する。少年は何がおかしいのか、クスクスと笑う。笑い続ける。
諦めて、視線をよそにむける。沈みゆく夕日に、そっとランタンの灯をともす。止まらない笑い声を聞きながら、明日もまた、ありふれた一日でありますようにと願った。