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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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泉北、再び

そして、再び泉北に行った。11月上旬の頃。

泉北にある多治速比売たじはやひめ神社が気になっていた。タジハヤヒメって、一説によるとヤマトタケルの妻だった弟橘姫のことか?と言われているらしい。タチバナ→タジハヤってことかな?

けれどわたしはそれよりは、アヂハヤ→タジハヤのほうがまだ説得力があるのじゃないかな、と思った。

「味原」も「タジハヤ」もアヂスキタカヒコネやその息子のアチハヤオ(アヂハヤオ)に関わる名なのじゃないか?なんていう疑惑がわいてきた。

泉北とアヂスキタカヒコネも関係がないでもなさそうだった。崇神天皇の時、オオモノヌシを三輪に祀るため、泉北の方から見つけ出されたオオモノヌシの子孫が大田田根子おおたたねこ。その子孫がカモ氏らしいのだけれど、そのカモ氏が祀っていたのがカモノオオミカミことアヂスキタカヒコネだそうだった。

「泉北ぐるりんウォーキング」の「荒山公園コース」と「小谷城趾コース」の一部を組み合わせてコース設定をしてみた。

荒山公園コースは栂・美木多駅を出発して荒山公園や野々井遺跡を巡って泉ヶ丘駅にゴールするコース。小谷城址コースは泉ヶ丘駅を出発して小谷城址や美多彌神社を巡って和泉中央駅にゴールするコース。小谷城は元は平氏の豪族だった小谷さんの城で、南北朝時代には千早城ののろしを浜寺に中継する役割を担っていたそうだ。

千早城は楠木正成の城で、浜寺は今の浜寺公園あたりにあったというお寺だな。けれど織田信長の時代、小谷城は根来攻めで一緒にやられてしまったそうだ。

多治速比売神社は荒山公園にあって、荒山公園コースだけ歩いてもよかったのだけれど、前半の大蓮公園あたりは前回歩いていた。前半はパスして、小谷城址コースと混ぜてみた。


前回は栂・美木多駅(泉北高速)だったけれど、今回は光明池駅で降りたった。栂・美木多駅からもう1駅向こう。

近くに光明池があるから光明池駅。光明池は大阪府で3番目に大きい溜池なんだって。1位は久米田池(岸和田市)、2位は狭山池。光明池が造られたのは、行基も関わっている1位2位とは違い、昭和になってからだそうだ。

今回は行く予定はないのだけれど、光明池は、光明皇后がこの地で産まれたという伝説からつけられた名前みたい。

駅の改札を出ると北側に向かい、自転車置き場前を上っていった。すぐに公園(新檜尾公園)だった。公園に入るとすぐに右折。木々は紅葉していて、きれいだった。

ここは前に歩いたとが緑道あたりの公園とは少し違っていて、付近には住宅もなく、山の中のような雰囲気だった。せせらぎもあって、なんだか野趣あふれる感じ。

駅の近くに公園があったから、せっかくだからとコースに入れてみたのだけれど、これは来てよかった。素敵な公園だった。

案内板が現れたら、右折して「ひいらぎ橋」方面に向かった。ずっと遊歩道になっていた。そして人の姿をほぼ見なかった。

泉北高速の高架下を通るとすぐに池で、池の右側を歩くべく右折。ところが池ではなく、実は川だった。光明池の余分な水を流す甲斐田川だって。南の光明池から1.1キロ北の和田川に向かって流れているのだけれど、ここから北は暗渠となっていて、姿が見えないらしい。それで池と思ったわけだった。

甲斐田川をひいらぎ橋で渡ったら、鴨谷公園だった。

緑に塗られた歩道が現れて、この先しばらくはこの緑に沿っていけばいい。ここの公園には鴨谷池があり、桜並木があって、春になると最高だろう。今の季節には近所の人の姿を少し見るくらいで、静かだった。

公園を東から出て、美木多中学、美木多小学校前と進んでいった。いつの間にか山中のようなところに入っていた。一番の高台だろうってところで右折して、道を下っていった。

バス通りに出て、すぐに鳥居があった。階段か坂か、どちらでも好きな方を登っていくと、美多彌みたみ神社。

神社には地元の人達が多くやってきていた。なにかイベントでも?と思ったくらい。でも普通に参拝したり、途中の空き地で四方山話をしたりって感じだった。神社が地域の公民館的な役割を担っているように感じられた。

鎮守の森が8250㎡だって(2500坪くらい)。後醍醐天皇の時代には30000坪あったんだそう。小学校も中学校も鎮守の森だったところなのかな。

本殿が大きな屋根の下にガードされていた。後ろの木が倒れてきたりするのを防いでいるのかな?

神社の裏手ではペットボトルのハチ取りが仕掛けられていて、中で大きなハチが何匹か死んでいた。こんな大きなハチが飛んでいたら、怖いな・・・。


美多彌神社の祭神はアメノコヤネで、中臣氏の祖神。詳細は不詳ながら、アメノコヤネの子孫である(アメノホヒの子孫とも言われる)民直みたみのあたいが祀ったものらしい。

民直の「あたい」は、階級的なものを表すみたい。

アメノコヤネの子孫が大小橋命(玉造あたりで生まれた人ね)で、その子孫が中臣鎌足(母は大伴氏らしい)で、その息子が藤原不比等。藤原不比等と県犬養美千代って人の間に生まれたのが光明皇后。民間初の皇后になった人ね。

泉北あたりで生まれたという伝説があるくらいだし、中臣氏と泉北は関係が深いのかな?

そして美多彌神社は楠木正成一族の守護神でもあったそうだ。神社は織田信長に焼かれたこともあったけれど、後に楠木正成の末裔の和田さんが再建したらしい。玉垣にも和田さんの名があり、他にも山口、檜尾などこのあたりの地区の人々の名が連なっていた。

後で知ったことには、楠木正成は橘諸兄の子孫を自称していたそうだ。橘諸兄は光明皇后の異父兄。

藤原不比等は藤原四兄弟の父だったけれど、後に県犬養美千代さんと再婚して光明皇后が産まれた。その県犬養美千代さんもまた再婚で、前の夫(美努王)との間にもうけていたのが橘諸兄。

中臣氏と言うより、県犬養氏と関係が深かったのかな・・・?


神社の前の道を南に少し進むと、美多弥神社前交差点の手前、左手に下っていく道があった。この道を進んでいくと、道はカーブして、東に向かっていった。

いきなりの古い集落だった。「泉北ニュータウンは谷にある古い集落を残したまま、丘陵部分に建設された」ってやつだな。このあたりは谷の古い集落。

和田川流域の和田谷地区だ。和田谷は別名鴨谷なのかな? それとも別ものかな?

集落には「美多彌神社宮座跡」の立派な碑があった。宮座って、神社の祭祀を行う集団のことらしい。

道を下っていく途中、左手に入っていく道があり、ここを進むと歩道橋を渡って、美木多小学校に戻れるようになっていた。そしてその途中に「左 妙見山」と古い道標があった。前回行った上神谷の妙見さん、感応寺のことだろうな。

ここはスルーして直進し、信号を渡って進んでいくと、大きくて立派な和田治兵衛翁記念碑。すぐそばには和田邸跡の碑もあった。和田って名の名士が、ここの農業や治水のために力を注いだんだろうな。

道なりに進むと、すぐ和田川だった。

左折して、川沿いを歩いていった。思いきり農村だった。川は護岸されて、随分下を流れているけれど、かつてはすぐ道のそばを流れていたのだろうかな。

たんぼ。干したワラ。ガードレールにも干されていたりして、農村でのガードレールの使い方を知った。

古い家は緑の屋根にふき直されているところが多かった。このあたりで流行ったのかな? 新しい家も多くて、風情は失っていた。

和田川は、このずっと先で石津川に合流するみたい。


桧尾橋を渡って、今度は川の右岸を進んだ。橋の上から見ると、川には相当大きな魚がいっぱい密集して泳いでいた。

泉北高速の下を通った。このあたりの川沿いのおうちの敷地の広さったらなかった。無造作にがばっと敷地をとったって感じ。右手にお寺(大定寺)が見えるところで右折。

川を離れて行くと、また上り坂だった。和田川を挟んだ丘陵地帯に作られたニュータウンに向かっていく。

和田川の西側は、北から赤坂台、さっき通ってきた新檜尾台と鴨谷台、城山台。川の東側は、北から桃山台、前回、栂・美木多駅から歩いた原山台、庭代台、御池台。

今から向かうのは桃山台。


坂を上っていくと、文化会館が前方に見えた。ここを右に行くと、栂・美木多駅。前は駅から南に歩いて行ったけれど、ここは北側だ。前方の階段を上って行ったら、西原公園。

ここから栂緑道を桃山公園方面に歩いて行った。他の道とも交差するけれど、歩道と自転車道とが分かれた道が栂緑道で、分かりやすかった。

桃山公園、それから野々井遺跡が現れた。須恵器づくりを行っていた人々の集落があったと思われるそうだ。

古墳時代にはこのあたり一帯は茅渟県ちぬのあがた陶邑すえむらと呼ばれた地帯だった。茅渟県主なる有力な豪族がいた。

弥生時代から人が住み、5世紀頃からは須恵器生産に携わる人々も住み、大きな村となっていたんだって。5世紀から10世紀にかけて、このあたりは須恵器の一大生産地。泉北丘陵には1000くらいも窯跡があったのだって。

それまでの土器より薄くて壊れにくい須恵器は、大陸で試行錯誤の末に生み出された方式の窯で焼か

れた土器で、茅渟県でも5世紀頃に大陸からやってきた渡来人たちによって焼かれ始めたらしい。

ろくろで成形して、斜面を利用して作られた登り窯で焼くというもので、今までとは見た目からして全く違っていたそうだ。

5世紀頃、百舌鳥古墳群などの円筒埴輪も窯で焼かれたものに変わっているのだって。円筒埴輪もここらで焼き、川で運んでいたのかな?

皿やかめなどの生活用品も焼かれていて、そのうち飛鳥時代の7世紀頃になると、各地に窯が設けられ、その地の役所で使う食器などが焼かれたのだって。

それ以降もここは一大生産地。大量生産し、各地に流通。瓦なんかも焼かれていたのかな。


桃山台は静かなところだった。おうちはいっぱいだけれど、人は住んでいるのかな?と思うくらいだった。

横を通った高校で、生徒が何人も校内放送で呼び出されていて、「6組の○○」って言っていたから、クラスはいっぱいなんだな。

いいところだった。木々は紅葉して、すぐそばに自然があり、町を見下ろしている。でも、暮らすために計画的にツクラレタ町。ここに暮らすってどんな気持ちなんだろう?

中学校からは昼休みの音楽が流れてきていた。山あいに流れる静かな女性シンガーの歌が、なんだか、ここで暮らすことを良しとはしていないんだって叫びに聞こえた。

中学校を越すと、こおろぎ橋は渡らずに、下の大きな通り(府道堺泉北環状線)に降りて行って、東に向かった。

右手に尾美濃池や松ノ池。その向こうには古墳か?と思うようなこんもりした緑が見えた。なんでもここは大庭寺陣屋なる渡辺家の陣屋があったあたりなんだとか。

大庭寺おばでらはこのあたりの地名。尾張藩の家老に渡辺さんって人がいて、その子孫の一人が大庭寺に住むようになり、陣屋を築いたのかな。後には伯太に移ったらしい。


大庭寺交差点があり、府道沿いは都会の装いだった。道は広いし、車の通りも多いし、いろんな店が並んでいた。でも、ほんの一歩通りを外れたら、田んぼなんかのある田舎だった。

この時は全く知らなかったのだけれど、大庭寺でも遺跡がいろいろ見つかっていて、奈良時代には立派な倉庫群もあったことが分かっているそうだ。

行基年譜によると、行基によって大庭院(和泉国大鳥郡上神郡大庭村)もつくられている。ここにいた有力者はおそらく大庭みやつこ。カミムスビの8世孫であるアマツマラの子孫だそうだ。

前にイザナミやイザナギよりも前、最初に現れた神は天之御中主神だったってことを知ったけれど、その後、2番目に現れたのがカミムスビとタカミムスビだって。

アマツマラはアマテラスの岩戸隠れのとき、呼ばれた人。岩戸に隠れてしまったアマテラスを出すためにみんなで試行錯誤したとき、この人も連れてこられた。「鍛人かぬち」だったそうだ。


川を越えて和田西交差点を過ぎ、上り道を進んで、泉北和田交差点へ。

この川は石津川だった。鉢ヶ峯、ハーベストの丘あたりから流れ出し、法道寺川、妙見川を合わせて北上していく。そして和田川と合流。

右手に広がる森があった。もう少し進むと荒山こうぜん公園。梅園で有名らしい。

森みたいにだだっ広い公園だった。元々は多治速比売神社の一部だっていうんだから、すごい規模の神社だったんだなあ。というか、山が切り拓いて暮らす場所なんかではなかった時代、山がまるまる神域だったのだろうな。

階段を上っていった高台に、多治速比売神社があった。

式内社(平安時代に編纂された神社目録に記載されている神社)で、他に式内社の鴨田社と坂上社が左右に合祀されて祀られていて、それらも合わせて荒山宮と呼ばれているのだって。


多治速比売についての説明はなかった。「鴨谷」や「カモノオオミカミ」と関係がありげな鴨田社についても。

このあたりはかつて茅渟県陶邑だったところ。

10代崇神天皇のとき、疫病などで国が荒れたようで、どうすればいいかと、三種の神器を祭るべきところに祭ろうとしてみたり(アマテラスの代わりである鏡を祭るべきところを娘に探させたり)、オオモノヌシを三輪に祭ったりした。

オオモノヌシって、オオクニヌシの魂とされている神さまね。オオクニヌシは最初少彦名スクナヒコナに手助けされて国造りを行っていたのだけれど、スクナヒコナが去り、次にオオモノヌシの手を借りた。

オオモノヌシを三輪に祀るにあたり、斎主(神を祀る人)としてオオモノヌシの子孫であるオオタタネコが茅渟県陶邑から見つけ出されてきたそうだ。

探し出したのは伊香色雄命いかがしこお。京街道で枚方の伊加賀を歩いた時に知った当時の有力者で、10代崇神天皇の伯父。ニギハヤヒの子孫で、物部氏の先祖。

後にオオタタネコの孫が、カモ氏の祖になっている。そのカモ氏が祭っていたのがアヂスキタカヒコネ。

オオモノヌシが祀られた三輪山からは古い祭祀の遺物が見つかっていて、須恵器もあったそうだ。その須恵器はmade in 茅渟県陶邑だったそうだ。

多治速比売神社が祀られたのは宣化天皇の頃と言われている。宣化天皇は継体天皇と尾張氏の間の息子。継体天皇(26代)には子がたくさんいて、皇后との間には欽明天皇(29代)一人。他、尾張氏の娘が産んだ二人の息子が天皇になっている。27代安閑天皇と28代宣化天皇。

欽明天皇の息子が30代敏達天皇。その孫に茅渟王って人がいる。その孫が天智天皇(中臣鎌足と一緒にクーデターを起こして蘇我氏を倒した中大兄皇子)や天武天皇。茅渟王のいとこの息子が美努王。

茅渟王というからには茅渟に関わりの深い人だったのかな。


荒山公園はひろ~い公園で、初めてのわたしたちは道も方向もわからなくなってしまった。

どこか分からないまま公園を出て、その後、泉北堂なるパン屋さんへ。

途中、古い屋敷が多いなあと思ったら地名は和田東だった。古くからの集落で○○台にはならなかったところね。多治速比売神社を挟んで西が和田、東が和田東だった。北と南は〇〇台。

神社は丘陵にあり、西と東には谷があって、和田という古い集落だったのね。

泉北堂は「極」食パンの有名なパン屋さんだそうだ。食パンは「予約パン」のところにずら~っと並んでいるばかりで、手に入らなかったと、おかあさんは普通のパンを買って出てきた。

「山ぶどうパン」がおかあさんはおいしかったって(わたしはレーズンNG)。


竹城公園、コノミヤ(スーパー)と通り過ぎ、泉ヶ丘駅にたどり着き、おうちに帰った。

泉ヶ丘って、西には信太、忠岡、東には狭山池、富田林、山を越えて葛城あたりと同じくらいの緯度だった。

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