行基
散歩していて知った行基は、聖徳太子や空海と同じくらい各地で名を見る人だった。
奈良時代の僧で、奈良の大仏をつくるのに手を貸した人。
飛鳥時代、大鳥郡(今の堺市)の生まれらしい。父親は高師浜あたりの高志氏といわれ、百済からの渡来人。母は大鳥郡の人で、百済系渡来人の家系だとか、中臣系だとか、つまりは不詳なのだろう。
奈良時代になって、仏教はどんどん広まり、お寺も有力者などによって次々に建てられていった。
それまでは岩とか木とか山とかが信仰対象だった日本人にとって、朝鮮半島を経由してやって来た(といわれる)仏教は、仏像、仏殿など、洗練された「形」のある、文明的な、最先端をいく宗教だったのかな。
金ぴかの仏像をもち、寺社を建てる者が救われる宗教であり、一般人には無縁のものだと施政者たちは思っていたみたい。
けれど人々を救うというのが元々の仏教で、庶民を救おうとするお坊さんもいた。行基の師匠の道昭もそんな一人だった。道昭も百済系渡来人の家系で、百済の王族の子孫の船氏の出。
師匠亡き後、行基も巷に出て、人々を救った。
当時は民のために橋を架けるとか、治水工事をするとかの地方の公共事業を国家がしてくれる時代ではなかったから、渡来人の進んだノウハウをバックにもつ僧が、民の助けも借りて行っていたみたい。行基も高志氏の人々に囲まれて育ち、秦氏と連携。各地に池や寺、港や橋などを造っている。
散歩していても、行基が云々と、聖徳太子と同じくらいの頻度で説明されていることが多くて、わたしもやっと知った人だった。
後には空海とか一遍とかも土木工事を行っているそうだ。
奈良時代、一般人はみんな農業などして、重い税金を払っていた時代だった。
でも作物は思うように育たないわ、病気は流行ってばたばたと人は死ぬわ、田畑を捨てて逃亡するってこともよくあったみたい。
重い税金は代表者が歩きで都まで運んだ(現物納付で米を運んだ)そうなのだけれど、途中で野垂れ死にすることも多かったらしい。十分な食料も持たず、長い距離を歩き続けるしかなかったから。当時はホテルもコンビニもなく、一般人にはお金も無縁で、体1つで都まで歩くしかなかったのだって。
行基は農業などがうまくいくように池を改修するなどの土木工事を行ったり、税を運ぶ人々のために炊き出しもやる無料休憩所(布施屋)を設けたりした。行き倒れになった人々を弔い、墓などもつくった。
まったく生き仏のようだったろうなあ。
行基の周りには僧や信者など千人余りが集まって、やがて組織化されて行基集団と呼ばれるチーム(智識結)になっていった。秦氏も関係し、大規模工事を次々に手掛けていった。狭山池の改修や、昆陽池や久米田池の造成などいろんな土木工事を行い、港をつくり、橋などもかけた。
資金提供したのは、その土地の有力者たちだったのかな。彼らに誘致されて施工を行い、寺も建て、そしてその土地が交通の要所だったりすると、行基の提案でか、布施屋も設けたりしたのかな。
行基より30歳くらい年下の聖武天皇は、若い頃は病弱で、代わりに長屋王が政治を行っていたそうだ。長屋王は保守的な考え方だったのかな、貧乏人にも布教する行基を嫌っていて、プチ迫害していたみたい。
百済王から伝えられてこのかた、仏教は金ぴかの仏像や自分たちの寺をもてるような人々のためのものだった。ところが行基のような人たちは、貧しい人たちにも教えを説き、仏教の品位が下がると思ったのかな。
けれど光明子を聖武天皇の民間初の皇后にしたかった藤原氏(藤原不比等の息子たちである藤原四兄弟。光明子には異母兄たち)によって、反対する長屋王は陥れられて(と、言われている)しまう。長屋王は自害。これが長屋王の変ね。
妹を皇后にして、藤原四兄弟がますます・・・と思いきや、国際化の激しかったこの天平時代、天然痘(だと言われている)が入ってきて、ばたばたと人々が死んでいき、藤原四兄弟も次々に死亡。
人は大量死していくわ、天災は起こるわで、聖武天皇は「朕の治世が悪いせいだ」と思い悩んでいたみたい。いろいろやってみて、遷都も繰り返したみたい。
726 難波宮を副都とする
729 長屋王死去
741 全国に国分寺、国分尼寺をつくる詔を出す
743 奈良の大仏をつくる詔を出す
744 難波に遷都。すぐにまた紫香楽に遷都。
仏教に深く帰依していたらしく、国分寺と国分尼寺を各地につくらせ、妻の光明皇后も悲田院や施薬院をつくっている。
そして副都だった難波に1000人くらいのお供を連れて行幸の途中、柏原六寺に参り、智識寺の立派な金ぴかの盧遮那仏を見て、東大寺の大仏をつくることを決意。
人々にみんなで協力して作り上げようと呼びかけたそうだ。その呼びかけに応じて、少しでも協力した人々の名前が記載されたものが残っていて、その数がのべ260万人なんだって。
最初はうまくいかなかったそうだ。あんな大きなものを形にする技術がなかった。
そこで聖武天皇が頼ったのが行基だった。行基は優れた技術を提供し、大仏をつくりあげた。完成の少し前に亡くなったけれど。
ただ、遷都や大仏づくりはかえって国を疲弊させたそうだ。
すごい労力を使い、すごい量の銅(50トン近く。山口にあった鉱山から木津川経由で運んだ)やら金(もともとは大仏は金メッキされていた。この金を大量に見つけ出して出世したのが百済王さん)やら水銀(金メッキするのに大量に必要だった)やらを使い、鉱毒、水銀中毒の被害も相当にあっただろうと言われている。
いろいろ調べていて、行基年譜なるものを見た。行基が行ったとされる工事などの年表で、「行基開基と伝わる」という寺のほとんどは記載されていないけれど、中高野街道歩きで知った高瀬橋、狭山池のことなどは記載されている。
「摂津国嶋下郡穂積村に高瀬大橋、高瀬橋院、高瀬橋尼院を造成」みたいに。
誘致した地方の有力者はどなただったんだろう? 穂積村なら穂積氏だったりしたのかな?
年表には「津守」も載っていた。
地元近くの津守は、新田開発して出来たところで、行基の時代には海だった。けれど近くに津守村が古くから存在したんだな。
誘致したのはやっぱり津守氏だったのかな?
天火明の子孫で、神功皇后の時代に七道から呼ばれて住吉大社の宮司になり、それから代々ずっと住吉大社の宮司をしていた一族。住吉津から出ていたらしい遣唐船には一緒にのり込み、航海の安全を祈祷していた。
天皇家と姻戚だったこともあり、南北朝時代には南朝の後村上天皇が津守さんの屋敷に住んでいたこともあった。明治維新の後は男爵となった。
住吉や津守に関係していそうなのは、
730 摂津国西城郡津守村(今の西成区か西淀川区?)に善源院(川堀院)と善源尼院を建てる。
それに伴い、比売嶋堀川(西城郡津守村。今の西淀川区姫島)、白鷺嶋堀川(津守里。今の福島区鷺洲町)も造成。
734 摂津国住吉に沙田院を建てる。
摂津国住吉郡御津(今の住吉区長峡町?)に呉坂院(大海神社の近くにあった?)を建てる。
摂津国西城郡津守里に難波度院を建てる。それに伴い度布施屋も建てる。
713年に正式に郡などの名称が決まり、上町台地の西側は「西生郡」と決められたのだって。その後、「西城郡」「西成郡」と名前が変わったそうだ。
住吉郡はその南部にあたるのかな。
津守は今の新淀川あたり、かつて中津川が流れていたあたりにあったってことかな。
布施屋は行基によって畿内に9か所つくられたそうだ。
津守(度布施屋)と、前に歩いた下高野街道の石原(石原布施屋)、あと7つあったんだな。(方違神社の近くにつくられたという布施屋はここには含まれないみたい。)
山城国に2つ(泉寺布施屋・大江布施屋)、和泉国に2つ(大鳥布施屋・野中布施屋)、河内国に2つ(樟葉布施屋・石原布施屋)、摂津国に3つ(昆陽布施屋・垂水布施屋・度布施屋)、あと畿内以外に備後に1つだって。
そこを歩く時には行基さんのありがたさを思おうと思った。
あと、コンビニやベンチや自販機や電車のありがたさも。