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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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中高野街道を平野まで

そして中高野街道の続きを歩くべく、また別の日に深江橋駅におりたった。

地下鉄中央線深江橋駅。本町から中央大通りを東に行ったところ。

4番出口を出ると東に進み、龍光寺を過ぎて右折。北は城東区、南は東成区。もう少しだけ東に行くと東大阪市というところ。ここを南下していく。これが中高野街道。

ずっと道なりに進んでいった。下町で、古い建物や店、地蔵なんかも所々にあった。そこに工場が入り込んできていた。カーブした旧道のまま車幅が広げられた道を通るのは、ほとんどがトラックだった。

東深江公園を過ぎ、地名は右が深江南(大阪市)、左が高井田西(東大阪市)。このあたりは、中高野街道が市の境になっているらしい。

ここは暗越奈良街道で通った深江から高井田に向かうあたりにも近く、もう少し南は十三街道(俊徳街道)で通った小阪あたり。

大昔、十三街道から北あたりが河内湾(もしくは河内湖)で、深江はそこに浮かぶ島だったそうだ。11代垂仁天皇の時、大和から笠縫の人々が移住してきたという深江。後には笠縫島と呼ばれるようになったその島は、これから向かう足代あたりまで続いていたのだって。


途中、ふかえ幼稚園を過ぎたあたりから、立派な旧家が目立ち始め、ついつい横道に入って行った。

古そうな真行寺があり、立派な長龍寺があり、「菅笠の里・段倉」があり、「国宝・角谷一圭(釜師だって)記念 深江郷土資料館」があり、そして、あれ?見たことがある・・・と思ったら、深江稲荷神社だった。笠縫氏の氏神ね。

オオクニヌシから国譲りされて孫のニニギが天下りするとき、アマテラスは、これを私だと思ってと、ニニギに鏡を与えた。それ以来、鏡は三種の神器の1つとして代々天皇のおうちに祀られていたそうだ。けれど10代崇神天皇のとき、それぞれの神器を祭るべきところに祭ろうってことになった。鏡を託された姫(崇神天皇の娘の豊鍬入姫とよすきいりひめ)は祭るべきところを探して回った。

最初の候補地になったのが大和の笠縫邑。詳細は不明で、大和のどこにあったのかもよく分かっていないみたい。磯城であったようなのだけれど。

次に垂仁天皇の治世になって、垂仁天皇の皇女の倭姫命(ヤマトタケルのおばさんね)が引き継ぎ、鏡を祭るべき場所を探して、一時とどまったのが山田村。最終的には伊勢に決定した。

そして垂仁天皇の時代、大和の笠縫邑から人々が深江に引っ越ししてきた。そしてシタテルヒメを祭った。それが深江稲荷神社だった。

天皇が稲の収穫を祝う祭りごとに使われる菅笠も、笠縫の人たちが作っていたそうだ。


10代崇神天皇は伊香色謎いかがしこめの子だった。

淀川近くの伊加賀(枚方)に住み、9代、10代天皇のとき、天皇に仕えていた伊香色雄いかがしこおの同母妹。イカガシコオはニギハヤヒの子孫で、物部氏の先祖ね。

それまでは大和にとどまっていた感じの天皇の勢力が、10代、11代天皇の頃から、外にも広がっていくそうだ。

天皇家の勢力地がイカガさんらと手を結ぶことなどで変わっていき、河内湖あたりにも進出していったってことなのかも?


元の道に戻って、続きを歩いた。

突然にぎやかになり、「ブランド~リ布施」なる商店街が現れた。

高いアーケードが立派な、人で賑わう商店街。「自転車は降りて」と書かれているけれど、かなり|(というか、ほとんど)の人が、ふらふらしてるおばあさんも含めて自転車に乗ったまま通っていた。

布施って、こういうイメージ。

右や左に交差している道も、古そうで面白そうだった。ここは戦後になって、こんなににぎわうようになった町ではないだろうかという気がした。

戦前のスプロール地帯、それほどの古さではない。でも猥雑で、戦争の後のゴタゴタの中で、区画整理なんて全く関係なくどんどん家が増えていった感じ。

布施駅(近鉄電車)の下を通り抜けた。立派な足代安産地蔵や案内所があって、ここからは「フラワーロードほんまち」。

すぐに右側に浅草寺参道(浅草観音通り)が現れた。浅草寺があるらしい・・・というので、ちょっと行ってみた。

「柳小路料飲食街」とも書かれていて、雰囲気的に言って、ちょっと怪しかった。・・・と思ったら、やっぱりここは昭和26年にできて、すぐに廃止され、その後は赤線として存続していた花街であったらしかった。

電車の高架下あたりなんて、もう完全に役目を終えてガタガタ。シカバネのようになっていた。

浅草寺(関西観音)はすぐにあったけれど、残念ながら歴史はそんなになさそうなところで、入りにくい雰囲気だったし、詳細はよく分からなかった。


そして今度は布施戎神社が現れた。

元々はここに「都留弥つるみ神社」があったのだけれど、明治時代に他の神社に合祀されてしまったそうだ。けれど氏子さんたちが跡地を守り、そこに昭和29年、西宮神社からヒルコ神を勧請して、戎神社としたんだって。

都留弥神社は足代村の氏神だったそうだ。祭神は「はやあきつひこ・はやあきつひめ」で、水関係の神様だったみたい。60代醍醐天皇が旱魃を憐れみ、雨乞いを行わせると雨が降って、そこを神社としたそうだ。

鶴見区が北東方面にあるけれど、その鶴見の地名の由来については諸説あるみたい。都留弥つるみからきたのかもしれない。


すぐにアーケードが終わり、右折して西に。

今度は「四条通西商店会」。今では普通のおうちの方が多いけれど、看板がいっぱい残っていて、往時の賑わいを物語っていた。そして、今でも人通りが多い。大半が自転車の人だった。

途中で東大阪市から大阪市生野区に入ったみたいで、地下鉄(千日前線)小路駅に出た。

小路駅なんて知らなかったのだけれど、大きな通り(千日前通)にあって、開けたところだった。

まだ西に歩き続けた。近代的な個性のない道路に見えるけれど、左手に「入国申請」と書かれたハングル文字の多いオフィスかなにかがあったり、右手には「宮跡」「春高稲荷跡」の立派な碑があったりした。

ここは小路村の村役場があったところらしい。神社の跡でもあるようだったけれど、よく分からなかった。

信号まで進んだら、左折。その道が前方で左右に分かれるので、そこは右手のカーブしている道を選んで進んでいく。

急に静かになった。


歴史の散歩道の舗装が現れて、左手に郵便局が現れ、その向こうには鳥居が見えた。ちょっと寄り道して行くと、清見原神社だった。小学校がすぐ横にあって、にぎやかな神社だった。

なんでも40代天武天皇が難波に行幸の際、ここを通ったのだって。天皇の聖蹟しょうせきということで、後にこの辺りを拠点とした大伴氏が天武天皇を祭ったんだそうだ。

大伴氏って、21代雄略天皇の頃から重用された豪族で、元々は大阪湾沿岸部あたりを本拠地としていたのだって。そして25代で天皇の後継者が途絶えそうになった時、次期天皇にヲホド(後の継体天皇)を押した。この頃の大伴金村って人が大伴さんの全盛期だったのかな? けれど失脚し、今の帝塚山あたりにあった邸宅で隠居生活を送ったのだって。その後はあまりぱっとせず、平安時代半ばには中央から姿を消したみたい。


中高野街道に戻って南下していった。

道なりに進んでいくと、途中でまた歴史の散歩道の舗装が現れた。舗装に従って歩いて行った。前に俊徳街道を歩いた時、迷子になったあたりだった。

近代的な藥泉寺の前を通った。地名は中川東で、静けさがはんぱじゃなかった。

勝山通りに出て、まだ南下。勝山通りと言えばわたしには御勝山古墳だけれど、ここは御勝山古墳の1km余り東あたりだった。

「信貴山」への道標があったりした。下足代しもあじろ橋で小さな川を渡った。左手に墓地などがあって、少し独特な感じだった。足代と書いてあじろ・・・これも「味」、アヂスキタカヒコネに関わるのかもしれないぞ、とか思った。

つき当たりを左折。すぐの信号で右折して、また南下していった。

地名は巽中だった。巽小学校があり、その前には「巽村役場跡」の説明板があった。

ここはかつて渋川郡大地おおぢであったところらしい。あたりには立派な旧家が多かった。屋根になんというか、小さな望楼のようなものがのっていた。正式名称は何というんだろう。

近くには念仏堂もあって、ここは大阪市ではなく渋川郡と呼ぶにふさわしい雰囲気だった。


巽南3丁目交差点に出たら、すぐ左側に地下鉄南巽駅。

そのまま進むと左手に大きな鳥居があった。下をくぐって参道を進み、巽神社へ。

このあたりの大地の氏神であったらしい。けれど今や明治時代の合祀令で6つの神社が一緒になっているそうだった。

元の道の続きを南下していった。ここからしばらくは工場地帯だった。西が生野区(巽)、東が平野区(加美)だった。

前方に緑が見えていて、杭全神社だろうな。そのうち平野川が近くなり、杭全神社がその向こうに見えていた。

道なりに進んでJRを越え、よけい橋で平野川を越えたけれど、杭全神社内を通ってもよかったかなと思った。素敵な緑と紅葉が見えているのに、通った道には工場ばかり。

途中、「ドイツ式スピードクリーニング取次店 一日仕上」という古い看板があった。

河骨池口地蔵の横を通って、宮前東交差点に。ここはもう平野郷ね。

その直前の左手に入る道が素敵で、思わず歩いて行った。瑞興寺に至る道で、向こうに緑が見えていて、どこかと思うような素敵な光景だった。

それから平野郷の中を歩いて、南港通に出て、平野駅から帰った。

駅に向かう途中、左手にある南都銀行の、南港通をはさんだ向かい側の建物のすごさに目を見張った。古い! まもなく取り壊されるんじゃあなかろうか。しっかり目に焼きつけておいたの。

平野から河内長野までの中高野街道は歩いたから、これで中高野街道はThe ENDだ。

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