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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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中高野街道を諏訪まで

カーブしながら道は続き、阿遅速雄あちはやお(あぢはやお)神社が現れた。

幹6mの楠が立派だった。狛犬(左)がちょんまげみたいなのを頭につけていて個性的だった。裏に小さな森と公園があった。

祭神は阿遅鋤高日子根あぢすきたかひこね神。阿遅速雄さんの父らしい。そしてオオクニヌシの子でもある。

オオクニヌシは恋多き人で、子どももいっぱいいたけれど、アヂスキタカヒコネはシタテルヒメ(タカヒメ)の同母兄であるらしい。シタテルヒメは鶴橋駅北の比売許曽神社に祀られていた。

阿遅速雄神社も比売許曽神社も、住吉大社の子神とされていたのだって。

古代、このあたりが湾岸で、大和川の河口があり、港もあったそうなのだけれど、その港を設けたのが阿遅速雄さんなのだって。そして後には住吉大社の所領となっていったってことかな?


アヂスキタカヒコネは「阿遅志貴高日子根」などとも書かれ、別名、迦毛大御神かものおおみかみ。大御神と呼ばれるのは、アマテラスとイザナギの他にはこの人だけなんだって。

カモ族(三輪系氏族)の祖(オオタタネコの孫)の更に祖で、摂津河内に農耕を伝えたと言われているそうだ。葛城(御所)の高鴨神社に祀られていて、そこが発祥地だとされている。

御所あたりからは葛城川が流れ、曽我川と合流し、法隆寺あたりで大和川へと注ぐ。それから大和川は今とは異なり、柏原から北上して、このあたりで河内湾に注いでいたんだな。


オオクニヌシは天から出雲に下ったスサノオの子孫で、最初、王はオオクニヌシだった。国を治め、農耕や医療を広めていた。スクナヒコナの手を借りて。

葛城川上流あたりにいたのだろう息子のアヂスキタカヒコネは、下流部の摂津河内に農耕を伝えたのかな。比売許曽神社に近い(というか、比売許曽神社の元の鎮座地だともいう)産湯稲荷神社には、アヂスキタカヒコネが降臨して掘った井戸があったなんて言われている。そしてその息子のアジハヤオは、大和川の河口に港をつくった。

それより前の話かな? オオクニヌシに対して、アマテラスが自分の子孫(天孫族)に国を譲るようにと、何人かを派遣している。

最初に派遣されたアメノホヒはオオクニヌシに心服し、仕えるようになって戻らず、次にアメノワカヒコが派遣されたのだけれど、この人もオオクニヌシの娘のシタテルヒメと結婚して戻らなかった。それでアメノワカヒコは天からの弓で殺されてしまった。

シタテルヒメは嘆き悲しみ、アメノワカヒコの親は天から弔いにやってくる。葬儀にはシタテルヒメの兄のアヂスキタカヒコネもやってきて、アメノワカヒコの両親はアヂスキタカヒコネを息子と見間違えて喜んで抱きつき・・・アヂスキタカヒコネは怒った。

「大御神」と呼ばれるアジスキタカヒコネは、古事記のその部分だけに登場するのだって。

その後、国譲りは成功して、オオクニヌシたちに代わって天孫族が国を治めるようになる。アマテラスの孫のニニギが天から九州に降りてきて。そしてその子孫が大和を目指して東征してくる。初代神武天皇ね。

けれど実際には、そんなに単純な話ではなく、長い年月の出来事を簡略化しているのだろうな。

ニニギ、ヒコホホデミ(山幸)、ウガヤフキアエズ、それから神武天皇と世代交代していったけれど、神武天皇は関西に進出しようとしてこっぴどく撃退されている。

関西には豪雄たちがいたのだろう。それはアヂスキタカヒコネやアジハヤオの子孫たちだったのかもしれない。

アヂスキタカヒコネが天下ったという玉造近くに味原というところがある。古代には味原郷と呼ばれていたところ。味原の味は、アヂスキタカヒコネ(味耜高彦根とも書く)の味なのかも、とか思った。


南下を続けると、すぐに線路を越えた。こんなに幅のある地上の踏切は初めてだった。放出駅(JR片町線)がすぐ近くに見えていた。

すぐに渡った川は第二寝屋川で、その先は放出南商店会。またすぐに川を「しん田橋」で越えた。小さな川で何気なく渡ったこの川が長瀬川だったみたい。

大和川の本流だったという長瀬川。けれど江戸時代に柏原から西に流れを変えられた。元の大和川は姿を消したわけではなく、こんな小さな川になって、このすぐそばで第二寝屋川に注いでいる。第二寝屋川というのも、名称からして改修された川の感じだな。

地名は諏訪だった。あたりは昭和前半のような雰囲気だった。交差する道も、みんな古い感じがした。

諏訪神社があった。836年の石灯篭があるらしい。地車庫もあった。「道真の腰掛け石」なる石もあった。あちこちにある「道真公が太宰府に左遷されていくとき、道明寺の叔母に会いに行く途中で立ち寄った」というところだった。船で通り、長瀬川の堤にあったここに立ち寄ったのだって。

淀川、平野川、長瀬川、いろんなところに立ち寄っているなあ。もう河内湾はなかったけれど、小さな湖くらいには残っていて、川もいろいろつながっていたのかな。


諏訪神社は全国に数多あって、祭神はタケミナカタ。

オオクニヌシに国造りを迫るため、アマテラスが最初に遣わしたのがアメノホヒ、それからアメノワカヒコだったけれど、二人とも失敗して、次に遣わしたのがタケミカヅチ。

タケミカヅチはオオクニヌシの二人の息子に意見を聞いた。一人目のオオモノヌシの答えは「譲りましょう」。二人目のタケミナカタは「力比べで決めよう」。

そして結局タケミナカタはボロ負けして諏訪まで逃げて、ここから出ないからと許しを乞うたんだって。そして祀られたのが諏訪大社。この後、オオクニヌシは国を譲ることにした。

諏訪神社は「狩猟の神」「軍神」として、全国に広がっていったらしい。


諏訪神社を過ぎると、ちょっとした工場地帯になり、高速が見えてきた。

上を阪神高速が、下を地下鉄中央線が走っている中央大通りにたどり着いた。この日の中高野街道歩きはここまでとして、中央線深江橋駅から帰った。

前に難波大道を歩いてみたとき、五条公園があった。近くのバス停は神路を通って諏訪神社行きで、どんなところだろうと思ったものだった。それがこのあたりだったみたい。

深江橋というだけあってここにも川が流れていたそうだ。東の高井田あたりと、西を流れていた平野川を結ぶ水路が江戸時代の頃につくられて、その長さが1.8kmほど(千間ほど)あって千間堀川。昭和の時代に埋めたてられたそうだ。

次の駅の緑橋も千間堀川にかかる橋にちなむ名前。

あと神路って名は、このあたりを通る暗越奈良街道が神武天皇が東征につかった道だという言い伝えから、神路村と改名したことでうまれた新しい地名らしかった。

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