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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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中高野街道を守口から

大阪を高野街道が何本か走っている。

平安時代から流行していたっていう高野山参り。京に住む皇族や貴族たちが使った道が、生駒山の西麓を歩く東高野街道で、ほか、堺からの西高野街道、平野からの中高野街道、天王寺からの下高野街道もある。河内長野でみんな合流して1つの高野街道になる。

中高野街道は何度かに分けて歩いていた。まず平野~喜連を歩き、別の日に喜連~河内松原を歩き、また別の日に河内松原~河内長野まで。

けれど中高野街道は、京から船で淀川をくだって来て守口で降り、そこから高野山を目指す道でもあったらしい。その場合の始点は守口で、守口から平野へ、平野から河内長野へと進むそうだ。

まだ歩いていない守口から平野までの中高野街道を歩いてみることにした。


守口は京街道歩きで行ったことがあった。

地下鉄谷町線守口駅の東に京街道が走り、竜田越の道(守口から東に進み、生駒山地の北から奈良に入り、南下して龍田で竜田越奈良街道と合流する道。清滝峠を通るので、清滝街道とも呼ぶ)も通っていた。

京街道は淀川の堤につくられた道だから、淀川で船を降りた人々が歩き始める道も京街道あたりからスタートするのだろうな。

地下鉄谷町線で守口駅へ。谷町線は野江内代、関目高殿、千林大宮、太子橋今市、そして守口と、京街道で通ったあたりばかりを走った。

守口駅は3番出口から出て、市役所の右脇を通って京阪守口市駅方面へ。市役所は閉鎖されているみたいだった。守口市役所は昭和25年建築。耐震もいまいちで老朽化が激しく、近くの三洋電機本社跡に移転したそうだから、ここがその旧庁舎になるのかな。

早速にパン屋さんがあった。こんなに早くに買う必要はないかもとも思っただけれど、絶対においしいだろうって気がしたおかあさん、ここでパンをゲット。


つきあたりは古い煉瓦塀で雰囲気があった。地名は金下町。つきあたったのは、前に歩いた京街道の文禄堤。淀川の堤が京街道として整備されたものの、時代とともに淀川の流れも変えられ、堤はほぼ壊された。けれど唯一ここに文禄堤として残っている。

文禄堤に上がらずに右折して、すぐのところを今度は左折して、文禄堤のトンネルを通り抜けた。

信号を渡ったら、そのまま広い道を進むのではなく、一本右手の道で守口市駅(京阪電車)の下を通り抜けていった。

少々下町感の漂うあたり。地名は寺内町。

「あぜりあど~り」という通りで、商店が並んでユニークなところだった。「暴力団排除宣言」なんてわざわざ宣言しているところを見ると、元々は関係が深かったのだろうかな。韓国系のお店が多かった。

次の信号まで進むと、一本左の道へ。歩道が茶色く舗装されていた。あとはこのカラー舗装の道を進んでいった。

このあたりはすっかり新しくなっていて、覚仁寺なるお寺もあるはずが、固く閉ざされた通用門しか見えなかった。ビルに囲まれて姿が見えない。ずいぶん変わってしまったのだろうなあと思った。

しばらく行くと新しい道標があって、交差するのが三郷街道。道標では中高野街道は「高瀬・世木の道」となっていた。

古い街道らしくカーブしていて、交差する道もほとんどがカーブしている。古い建物も時々現れた。

そして「泥棒に注意」とか書かれた紙が玄関先に貼られているところを見ると、ちょっとガラの悪いところなんだろうか?

信号まで行ったら、前方に現れる2本の道のうち、左側を選んで進んでいく。このあたりから静かになった。地名は高瀬町。

すぐ左手に高瀬神社が現れた。本殿は存在感があり、木々がちょっとした森みたいだった。

守口って、飯盛山あたりの生駒山地へと続く森への入口だったらしい。それで森口、転じて守口となったそうだ。住宅地の下に隠された土は、まだそのパワーを残しているんだな。

祭神は、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ。その頃のわたしには、聞きなれない名前だった。

アマテラスよりも前、天地ができた頃にうまれたような、そんな神様なんだって。古事記では高天原たかまがはらに最初に降り立った神とされている。

そんな神が他にもみんなで5柱いて、その5柱(神様は「柱」と数えるんだって)が出雲大社にもオオクニヌシと共に御客座として祀られているそうだ。


高瀬神社についてはあまり分かっていないらしい。行基が云々とは言われているみたいだけれど。

伝説の人、行基の業績が記録に残されていて、そこに「摂津国嶋下郡穂積村」に高瀬大橋と高瀬橋院、高瀬橋尼院を造ったと記載されているらしい。それがこのあたりだったのではないかと考えられているそうだ。

神社を出て、信号を渡ると、高瀬川の碑があった。かつて淀川の本流がこのあたりを流れていて、高瀬川と呼ばれていたそうだ。前に城北公園に行ったとき知ったことには、淀川は守口市と旭区の境界あたりを流れていたということだった。すごーくおおまかなことを言うと、八雲あたりから南に流れ、文禄堤横や京阪守口市駅あたりを通って高瀬神社あたりへ、それから西に生江を通って流れていたのかな。

もっと時代を遡ると、相当昔にはこのあたりは河内湾の北岸だったそうだ。近鉄奈良線に乗るとよく分かるけれど、大阪平野はすごい平地で、そこにへばりつくようにビルや住宅が密集している。そのあたりはかつてみんな海で、生駒山地や上町台地に囲まれた河内湾になっていたそうだ。大和川も淀川も河内湾に注いでいた。

時代によって変わったようだけれど、河内湾の南岸は、玉祖道(十三街道)の北側あたりにあったそうだ。大きな湾になっていて、そこに上町台地が半島のように伸びていた。玉津あたりから東にずっと南岸が続いていた感じかな。

河内湾岸には古くから人々が住み暮らしていたのだって。近くの森小路では、古い時代の貝塚や、琵琶湖あたりの土器なんかが見つかっているのだって。

古代、この近辺には「長柄船瀬」なる河内湾の港があったらしく、友渕から長瀬あたりまでが住吉大社の領地であったんだそうだ。住吉大社神代記という住吉大社の古い所蔵本に記載されているのだって。


道の続きを進んだ。斜め右側、郵便局の見えている道。地名は馬場町。

この道をずっと道なりに鶴見通まで歩いていった。この日は高瀬神社地車保存会ののぼりがたっていて、いい目印になった。

落ち着いた感じのところで、古い家もけっこうあった。農家だったのだろう古い家や、町家だったのだろうお屋敷。アパートも古くて、個性的で、興味深かった。

特に護念寺のあたりは古かった。世木せぎ御堂ともいうらしい。世木村だったところなのだって。

蓮如の23人目の子(十男)実悟が加賀から河内にやってきて、古橋坊(願得寺)に住み、土居御坊をひらいた。他にも、加賀一向一揆で消失した本泉寺をここに復興。加賀の本泉寺は蓮如の叔父の創建で、蓮如もよく訪れ、北陸地方での布教の拠点としていたところだそうだ。

その後、本泉寺は移転していったけれど、跡地に護念寺が建てられたらしい。寺の前には高瀬川が流れていたそうだ。

そして護念寺には大塩平八郎の乱に参加し、獄死した橋本忠兵衛の墓もあるらしかった。

守口には大塩平八郎が滞在したこともあるという白石家書院跡もあった。少し前に取り壊されたらしかったけれど。

大塩平八郎は大阪の与力(幕府の役人)だった人で、天保の大飢饉にあっても続くおえらいさんの悪徳ぶりに武装決起。悪徳商人らを焼き討ちにしていったそうだ。そのせいで大阪のそこらじゅうが燃えてしまったらしい。

最後は平八郎は自らを爆破して乱は終わった。関係したとして取り調べを受けた人は約900人。豪農橋本忠兵衛もその一人だった。大塩平八郎の妾を自分の義妹としたり、平八郎の養子を自分の婿としたりして、関係が深かった。おそらくは拷問を受けて獄死し、その死体は塩漬けにされてひきまわされたんだって・・・。そして磔となった。

豪農だったけれど家財は没収。息子は屋久島に流されたそうだ。

「大塩平八郎の乱」と一口に言っても、関係した人々の諸々がいろいろあるんだな。取り調べを受けた900人の人々、その家族、家が焼けてしまった人々・・・。


この近辺に、千林の道端から見つかったというキリシタン灯篭もあったらしかった。キリシタン灯篭って、灯篭の下部をくりぬいて、そこにマリア像を彫り込み、土中にその部分は埋め込んで、分からなくしていたものだそうだ。

キリシタンがいっぱいいたという河内。禁止令が出されて、隠れキリシタンとなって、キリシタン灯篭をたてた人がいたんだな。

後で知ったので、気づかずに通り過ぎてしまった。また機会があったら見てみたい。


地名が清水になり、どうやらここで守口市から大阪市(旭区)に入ったようだった。

八幡大神宮が現れたけれど、境内は狭くて、なんてことなくて通り過ぎた。

ここからもう少し北西に行ったところには大きな八幡大神宮があるようだから、ここはその旅所とかなのかな? 元々は藤原氏が氏神の春日大神を祀った神社だったのだって。

このあたりは古さを感じさせないところだった。地名は新森、それから緑。

右に旭東中学校(工事中)、左手には城北朝鮮初級学校が現れた。長縄をとんでいる掛け声が外国語だった。

「城北ハッキョ地域」の文字があった。「ハッキョ」って学校のことらしかった。

学校でお祭りが開かれる前らしくて、ポスターが貼られていた。「城北オモニ会」も協力。出店されるのは、キムチ、パレ、コンナムル、トックスープ、イカフェ、ムク、ミミポン、チヂミ、スジクッなどだって。


光陽支援学校が現れ、広い通りを過ぎると、巨大な寺が現れた。視界いっぱいにまで広がる寺、金剛寺。

しかも、見た感じでは朝鮮風だった。なんだこれ~!?とど肝をぬかれた。日本の人が大正時代に開宗した念法眞教なる新興宗教の教団本部であるらしかった。

ここは鶴見区で、金剛寺のすぐ東側が鶴見緑地だった。

関目自動車学校があって、鶴見緑地のゲートが現れた。広大な鶴見緑地の、ほんの一部だけが、この道(府道159号平野守口線)沿いまで届いているらしかった。

この大きな鶴見緑地の端っこで休憩。おいしいパンをいただいた。

それからまだまだ南下していくと、鶴見通り。このあたりは新しい感じだった。万博が開かれるまでは何もなかったような場所だったのじゃないかなあと思われた。

次の信号まで南下して左折、次の信号で右折。信号1つ分、東側の道をまた南下していった。でもその前に、ここで寄り道をした。少し東に行くと、願正寺と鶴見神社があって。

ここが面白い一帯だった。迷路のようなたくさんの路地。行き止まりも多いし、全然思うように進めなかった。

古いおうちが多くて、解体中の家もあった。農家っぽい家もあった。銭湯の煙突がめだっていた。

きっと植松町みたいな素敵な古い町だったのだろうな。今はタワーマンションに見下ろされて、窮屈そうだった。

鶴見神社の祭神は、大山咋神おおやまくいのかみ荒魂。聞きなれない神様だなと思ったら、日吉大社東宮の神様らしい。日吉大社あたりから移ってきた人たちが祀ったんだそうだ。

日吉大社近くの比叡山が、最澄の後ごたごた続きで、日吉大社にもそれが及び、嫌気がさした農民17人が移ってきたらしい。火災や戦乱、洪水なんかで古文書が残っていないことが多いけれど、この一帯に関しては「小林家旧記」などに残っているらしかった。そばには小林さんの大きなお宅が今もあった。


それから街道の続きを南下していった。

道なりにずっと歩いて、寝屋川を放出大橋で渡った。左にはくっきりと山々が近く見えていた。西には大阪城、東には石切というあたり。

ここからはまた古い町並みだった。ちょっと松原っぽいかな。中高野街道を進んでいくと松原だから、おかしい話でもなかった。

途中、正因寺なる大きくて立派なお寺があった。中高野街道の説明もあった。このあたりではつるぎ街道とも呼ばれている。

そしてこのあたりには放手はなての渡しがあったそうだ。渡る川は長瀬川。旧大和川の本流だった川だって。時代とともに小さくなっていった河内湾に向かって、淀川(高瀬川)と大和川(長瀬川)が流れこんでいたという、その跡を南下してきた感じね。

天智天皇の時、草薙の剣が新羅の僧に盗まれるという事件があったそうだ。草薙の剣が納められていた熱田神宮から盗み出し、国に帰ろうとしていたそうだ。けれど船で逃げる途中、このあたりで大嵐になって剣を手放したことから「放手」、それが転じて放出はなてんという地名になったとも言われているのだって。

近辺の人が剣を拾い、しばらく保管していたのが、これから向かう阿遅速雄神社だそうだ。

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