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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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古堤街道を登美ヶ丘まで

そして、古堤街道の続きを歩くことにした。2月だったけれど突然暖かくなった日。住道から終点の登美ケ丘あたりまで歩くつもりだった。

JR学研都市線住道駅に到着すると、北に向かった。住道駅ももう何度か目になるから、勝手が分かってきた。最初にやってきたときは読み方さえ分からなかったけれど。

すぐ北で寝屋川と恩智川が合流していて、それを全部またぎ越す道が、駅の2階から続いている。今回は川は渡らずに、途中、右手(東側)の階段を下りて恩智川の南側に降りたち、恩智川沿いを東に向かっていった。

住道駅までは寝屋川の堤を歩いてやって来た。ここからは寝屋川(川)は北の寝屋川(市)に向かって行く。

寝屋川(川)は寝屋川(市)方面から南下してきて深北緑地の西側を通って住道に至り、ここで東からやって来た恩智川と合流して西に向かい、大阪城北の京橋(橋)の下を流れて淀川に合流。恩智川は高尾山から流れてきて、恩智、花園中央公園の東側を通って北上し、途中で西に向きを変えて住道へ。


道なりに進んでいくと、JR学研都市線の線路の下を通り、すぐ「御供田地区雨水貯留施設」が現れた。一段低くなった場所に、素敵な遊歩道がつくられていた。桜が植えられ、ベンチも置かれて、「雨水貯留」したことなんて随分なさそうだった。地名は御供田ごくでん

誰もいないその遊歩道を進んで旅人気分を味わっていると、右手に八幡神社が現れた。周りには古い家もところどころにあった。元々はこの遊歩道は水路だったところで、その川沿いに神社や旧家が並んでいたのだろうなあと思われた。あとはたんぼだったのだろう。今では住宅地になっているけれど。

八幡神社や、その裏手に行ってみると、面白い一帯だった。獅子吼山安楽寺があり、古い大きな旧家があった(表札は恩智さん)。

一帯が少しだけ小高くなっていて、それでここに古い時代、集落ができたのだろうなあと思われた。神社は平安時代、石清水八幡宮から勧請したと言われているのだって。地名の御供田も、石清水八幡宮の寄進地だったことから名付けられたそうだ。

旧家や神社にはムクノキが育っていた。枚方の上之町に「田中家のムクノキ」があり、「鋳物師あるところムクノキあり」と説明されていた、ムクノキだ。でもだからって「ムクノキあるところ鋳物師あり」ってわけではないのだろうな。

雨水貯水施設(遊歩道)が終わってもそのまま道なりに進むと、なんだか複雑なことになっていた。恩智川が流れていて、その防潮堤は高く、それを越えるための橋を限られた空間につくるためにか、一見、迷路のようになっていた。ここは御供田中橋か、その横の御供田新橋かで恩智川を越えるといいみたい。

橋を越える手前には、古堤街道についての説明が書かれていた。

京橋から寝屋川の北堤を通り、角の堂(住道)浜まで至って、船に乗って深野池を渡るという「古堤路」が古くからあった。その後、大和川が付け替えられて深野池に流れこまなくなって、池は農地となり、御供田から平野屋会所までにかけても新田となった。御供田新田は、鴻池みたいな豪商による新田ではなく、村人たちによる村人たちの新田だったそうだ。

東には豪商平野屋による新田があり、その先には「中垣内越」と呼ばれる大和への山越えの道があって、「古堤路」から大和まで、全部まとめて「古堤街道」と呼ばれるようになった。

だから古堤街道と名は付いているけれど、御供田あたりからは堤の道じゃなく、山越えの道になるのだって。生駒山地を越えていくんだな。


橋を過ぎると、そのままバス通りを道なりに進んでいった。恩智川から離れて東へ。引き続き、旧家がところどころに見えた。泉公園あたりでは、東に山がきれいに見えていた。家はぎっしり建ち並んでいるし、道もきれいにされているけれど、なんだか田舎の様相だった。郵便局も田舎の郵便局。

道が少し上り坂になっていた。それから川を渡ったのだけれど、その川が、昔の小川のイメージのままだった。緑に覆われた土の上を流れる小川。銭屋川というらしい。

少しだけ道を進んだところで、左手に木々が茂っているのに気がついた。なんだろうと行ってみた。あたりは最近出来たらしき新興住宅地で、木々といえば神社だけれど、神社って大きな通りや新興住宅地からは入れなくなっていることがままあるから、どうかなあ、神社はあっても参道が見当たらないパターンかも・・・と思いつつ進んでいった。

たしかにフェンスで囲われて、中には入れないようにはなっていた。けれどそこは神社ではなく、会所跡だった。金網の向こうに、遺跡風に石が残されていて、「船着場」「道具藏(納屋)」「千石藏(土倉)」と札が立てられていた。

ここは平野屋会所だったところだそうだ。10年くらい前に解体されてしまったらしい。


このあたりの新田(深野南新田、河内屋南新田)が平野屋(平野屋又右衛門)の所有になり、ここに会所が開かれたんだって。平野屋は鴻池や天王寺屋と同じ、船場に店を構える両替商だったらしい。

会所は年貢の計算などを行う、新田の事務所みたいなところかな。特産品などを船で運び出し、干鰯などの肥料等を運び入れ、等々の業務も行った。

横には「四間井路」があって、それが水運にも使われていたんだって。「船着場」のところで荷下ろしなどされていたんだな。その「四間井路」が銭屋川であるらしかった。平野屋が銭屋と名乗っていたことに由来するんだって。このあたりは今も地名は平野屋だった。

会所は東西120m、南北60m。森や池もあったそうだ。森だったらしきところは、今はカラスの巣になっていた。新興住宅地で出されたゴミをあさって暮らしているみたいで、あちこちでゴミが散乱していた。

座摩太神宮が会所にあったらしく、それは残っているようなので行ってみた。そこに至るまでも、ほぼ住宅地になっていた。会所跡は船着き場あたりを残して、後はほぼほぼ新興住宅地になってしまったんだな。

そして会所跡の周辺らしきところには、相当に古そうな家々が残って建っていた。

座摩太神宮は船場の坐摩神社から勧請したと思われるそうだ。周囲には、池の堤防あたりだったんじゃないかなあという雰囲気のところなどもあった。それも相まって、なんだかいい雰囲気だった。まだ会所跡の名残が残っているような、ずっとこのままでいて欲しいようなところ。けれど今も道路を工事中で、どんどん変わっていくのだろう。

古い集落なのに、そこを通る学生の声が不似合いにうるさかった。大きな学校ができ、この土地をとくに愛しているでもない学生たちに侵略されつつある地域なのかなあって感じがした。


元の道に戻り、道なりに東へと進んでいった。道の右側は下りになっていた。川が流れていたとかかな?

立派な旧家があって、旧街道というにふさわしかった。大きな通りに出て、そこは外環(170号線)。ここもまた工事中だった。

前方すぐ右には大きな送電施設かなにか(東大阪変電所)があって、むき出しの金属の塔がずらっと並び、旧街道らしさをまるきり損ねていた。

この近くには前に来たことがあった。東高野街道歩きで中垣内公園に寄り道してみたら、すごく殺風景なところで、街道が交差するところだっていうのに予想外で、かえって印象に残っていた。

工事中の道を東に進んでいった。左手には大阪産業大学の施設がいっぱい建ち並んでいた。「産大生諸君、他人の敷地に駐車して迷惑をかけないように」と東高野街道歩きで呼びかけられていた、あの産業大学だな。

変電所と大学に大きな敷地をもっていかれたのだろう集落だけれど、その合間には立派な旧家が並んでいた。目の前には山。墓地もあった。

前回、ただただ殺風景で、長居する気になれなかった中垣内公園もまた工事中だった。7400万円ほどで請け負った工事を行っているところなんだって。巨額をかけて公園を生まれ変わらせて、周辺に新興住宅地をいっぱい造ろうとしているところ・・・なのかな?

散歩していて学んできたパターンではそうだ。新興住宅地をつくる前に公園や道路を新設したり改修したりする。


次に交差した車道は、東高野街道。交差点には道標が2本。1つは半分は土に埋もれて読めないけれど上部は「たつまの」、もう1つは「すぐ大峯山上」という文字が見えた。大峯山って、一部女人禁制の天川村にある山だと思っていたのだけれど、「すぐ」ってどういうことだろう? 昔の人の「すぐ」の距離感がすごいな、と思うことは多々あるけれど、これは天川村を指すなら酷すぎだな、と思った。まだ「すぐ」が「この道をまっすぐ行けば」という意味だとは知らなかったもので。

この少し南は東大阪市で(ここは大東市)、孔舎衙くさかあたりだった。

このあたりから本格的に登りが始まった。家々、工場、元・商店などがあり、上の方には「はや」(料理店)が見えていた。そして立派な旧家が並んでいた。道なりにじぐざぐ進んでいくと、覚順寺。交差する道も気になるような、古くて面白そうな集落だった。

覚順寺のあと、「この先行き止まり」と看板があった。そばには古い道標が立っていて、「すぐ生駒宝山寺 五千・・(ちょっと読めず) 左新道」とあった。左に行くのが府道701号中垣内南田原線で、古堤街道は701号線を行けばいいみたい。すぐ阪奈道路に出て、「この先行き止まり」なのは、その高くなった阪奈道路に阻まれるから。かつては行き止まりじゃなく、ここから山道に通じていたのだろうな。


「左新道」を行く前に、右手には須波麻神社があって、名前からして古そうだったので寄り道しに行った。

「この先行き止まり」のところに直進し、阪奈道路につきあたる前に右折して進んでいくと、すぐ畑のようなところに出た。下り坂一面が畑になっていて、その間の畦道を降りていくと、下に見えている道に出られるみたい。おかあさんに持ち上げられ、下っていった。

その先は山みたいな、素敵なところだった。新しい家がひっそりと山際に並んでいて、山との間はしっとりした細い山道みたいになっていた。そこに慈光地蔵尊がいて、その少し上には庚申塔があった。江戸時代のものと思われるそうだ。2羽の鶏と3匹の猿が彫られていて、その猿が「見ざる聞かざる言わざる」になっていて、素敵な塔だった。

すぐそばには鳳字寺(尼寺らしい)があって、その前には行者のような人が彫られた塔があった。ヒゲと杖で行者みたいだな、と思ったのだけれど、そうなのかな。役行者えんのぎょうじゃって生駒山系にもいろいろ伝説を残しているらしく、役行者の像なのかも。カモ氏の出の、飛鳥時代の人であるらしい。


その向こうに須波麻神社(犬NG)があった。名前からも推察できるように式内社。

湖畔(または池畔)だったので「洲浜」、そこから須波麻すはま神社となったのではないかということだった。孔舎衙に近いし、草香江の湖畔だったのかな。

祭神はオオクニヌシで、その祭祀は出雲大社と「同体」と言い伝えられ・・・って、ちょっと意味が分からなかったけれど。意味深な土地の感じがあったけれど、神社はけっこう小さくなっていて、裏山も削られていた。削られて阪奈道路が通るようになったのだろうかな。

「この先行き止まり」のところまで戻った。左の新道方向に進み、阪奈道路を渡り、そのまま続きを歩いていった。

大東動物霊園の前を通り、じぐざぐと進んでいった。車道だけれど、車はほぼ通らなかった。建物も少なくなった。下の方から見えていた「はや山荘」が現れた。レストランだったけれど、夜はどうかわからないけれど、昼間には怖いようなところだった。道の向こうは崖のようになっていて、怖いくらいの高さだし、「はや」は昼の光の下で見ると、さびれ果てている感があって怖い。

道は350度ほどカーブして、またじぐざぐと続いた。あとは建物もなく、時折車が通るだけだった。歩行者なんてもちろん他にはいない。この日歩いた中で、ここだけが人の住んでいないところだった。けれど街中よりもずっとゴミが散乱していた。食べ物の袋などが道路の模様のようになっていた。「ゴミを投げ捨てないでください 地主」という文字が見えた。

そして久しぶりの阪奈道路に合流した。701号線もじぐざぐ山を登ってきたけれど、阪奈道路も別ルートでじぐざぐやってきて、ここで1つになるみたい。

阪奈道路にはここからしばらく横に脇道的な道路がたいていはあって、他には道もないし、脇道を歩いていく。阪奈道路の向こうにある脇道に行くため、いったん阪奈道路を横断。こんなところは車しかいない。歩く人と犬は我ながらかなり違和感があった。

古い家もぽつりぽつりと残っているのを見ると、山の中にあって、風光明媚なところだったのだろう。けれど今は車の通り道で、このあたりは街道としては、歩くまでもないような所になりはてていた。

ここに住み暮らしてきた人たちには、あきれるような変化だろうな。古くから住み暮らす人の誰がそれを喜んでいるんだろう。けれどここで山越えしたい車のためだ。少数派の悲しさを感じさせられた道だった。


そのまま右側の脇道を歩き続けると「にっちもさっちもいかない」ことになってしまった。歩行者は進めない感じ。「大阪メモリアルパーク」との分岐点(大きな看板が目立っているところ)まで引き返して、阪奈道路の左側の歩道を歩いていった。

竜間リハビリテーション病院を過ぎて、左側に現れた脇道に入っていった。ここまでにも脇道ぞいには古い家がぽつぽつと建っていたけれど、ここは集落レベルで集まっていた。阪奈道路の向こう側(右側)も古い町並みがひろがっているようだった。

龍間の古い集落だった。古堤街道は別名「中垣内越」とか「龍間越」とか呼ばれるっていう、龍間ね。脇道は龍間の集落に続いていたけれど、阪奈道路から離れないように歩いて行った。小さな龍間公会堂があり、そのそばには報徳講とあるお堂があった。大日大聖不動が祀られ、「大阿闍梨○○先生 大峯入峯55度」の立派な碑があった。

その後ろには石垣があって、今はなにも建っていなかったけれど、元は何かあったんだろうな。「庚申」と同じように「講」とか「大峯山」とか「太神宮」とか、古い集落でよく出会う。


道なりに進むと再び阪奈道路に合流し、竜間交差点だった。ちょっと複雑で、わかりにくかったけれど、交差点をもう少し進んで右側、ドッグランの前の上りの道を行くのが龍間越の道のようだった。

わりあい急な坂道で、少し上っていっただけで、空気も一気においしくなった。車通りもいっきに減って、静かになった。

そして地蔵堂が現れて、その中の「一石二段六地蔵」についての説明があった。鎌倉時代のもので、六地蔵って、六道(餓鬼道・人間道・畜生道・地獄・阿修羅・天上)のそれぞれを守護してくれるお地蔵さんたちなのだって。

ここを右折すると、更に上って、大元師明王だった。大元師明王については特に説明もなく、よく分からなかった。地域の人々の信仰の場だったところなのかな?

あたりは滅法古くて、家も一体いつの時代からあるんだろう、と思うようなものが多かった。今も水路が流れていて、そのそばに家が建っている。

まるごと苔むしたように思える旧家もあった。時間の流れが止まっているようなところで、しいたけの原木が庭に並べられていたりするのも見えた。そのしいたけが時間が流れているって教えてくれるようなところ。


地蔵堂に戻って続きをしばらく行くと、龍間神社が現れた。

ここは龍間前田ってところで、祭神は天忍穂耳アメノオシホミミ命(ニニギの父)だって。詳細は不詳。

けれどこんなところにひっそりかんと存在するには美しすぎた。なんというか、どこかフレッシュだった。空気が新鮮だからかな。元の本当の祭神は何だったんだろうと思った。

クロガネモチとカヤが一緒になった、不思議な木があった。根元近くでだきこんで、ほぼ同体のようになっている。

東に進み、田んぼに行き着いて左折した。このあたりでも、ゴミステーションはしっかり蓋がされているタイプだった。蓋をしていないと、山から動物が下りてくるんだな。

遊歩道みたいな歩道が現れて、「環状自然歩道」とあった。かつては素敵なところだったに違いない。けれどその日、車道には大きな車が行き来していた。クレーン車や、トラックや、大きな車ばかり。近くで大きな工事が行われているかなにかで、その行き帰りのように見受けられた。


左手では発砲音のような音が何度も聞こえ、拡声器の「○○しなさい」って投降を呼びかけるような声がしていた。急な下りになっている左側は、フェンスと木々にはばまれて見えなかったけれど、警察の訓練所でもあるのかな? それともサットの秘密訓練?とか思った。どうやら大阪府警察総合訓練センターだったみたい。

T字路で左折して北に向かった。右折すると生駒山麓公園につながっていたみたい。

右手に巨大なお坊さんの像の背中が見えてきていた。大きすぎて、その亀の甲羅を背負っているように見える黒っぽい背中に、恐怖を覚えた。それまで生きてきた中で、一番の怖さだったかもしれない。すぐ横をびゅんびゅん大型トラックが走る大和川の土手を歩いた時とはまた違う恐怖だった。

そして右手にトラックなどの入っていく工事現場(?)が現れた。中は相当に広いみたいだった。道道「ハイキングコースにつき歩行者多し。注意」みたいな、工事車両に向けた文言を見たけれど、とてもハイキングコースとは思えない有様だった。ここまで来る途中、1組だけハッカーに出会ったけれど、口にハンカチを当てていた。

本当は素敵なハイキングコースなのに、そこで大工事が行われていて、それを知らずにハッカーが、そしてわたしたちもやって来た、ってことかな。まるで1つの町を造ろうとしているかのような工事に思えた。また新しく○○台を造り上げようとしているとかだろうか?

工事現場の向こうには、荒れた海に浮かぶ小さな島のような小山が見えた。てっぺんに木が生えているだけで、周囲はえぐられたようにむき出しだった。そして「竣工記念碑」の大きな碑があった。工事中だけれど、いちはやく竣工記念碑をたてた、とかなのかな?


阪奈道路に再び出たら右折して、登山口交差点へ。どこが登山口?と思った。今や車社会のHABみたいなところでしかなかったから。けれど地図で見てみれば、南には今来た道、北にはむろいけ園地、北西には飯盛山があった。

南へのゲートは信貴生駒スカイラインの入口であるらしく、「土砂崩壊 なるかわ・高安山霊園・信貴方面には行けません」と書かれていた。夏の台風の後、信貴山に行くとスカイライン通行止めのお知らせが貼られていた。いまなお崩壊したままなんだな。

広い交差点には、相当に広い敷地のお寺があった。龍眼寺だって。見ると、奥の方に大きな像が何体か立っていて、とりわけ大きいのがあの亀の甲羅のお坊さんだった。修行大師像というのだって。前方から見ると、背中から見る、あんな恐怖はなかった。建造物と一緒に見れば、普通に思える光景なのかな。けれど自然の中、にょきっとただ一人立つと、恐怖を感じさせられるのかな。

すごく広そうな龍眼寺には入っていかなかったのだけれど、本堂の他にいろんなお堂が余裕をもって建っているようだった。隣は生駒霊園。

昔話のレベルの話に思えるけれど、行基が(聖武天皇に言われて)、旱魃に苦しむこの地で雨乞いしたんだって。すると若い龍が雨を降らせてくれたそうだ。けれど(竜王の怒りをかってか)、竜は3つに裂かれて死んだ。竜の体は3か所にばらばらに落ちた。

行基は竜の体が落ちた3か所にお寺を建てたそうだ。頭部が落ちたところに龍頭寺(今の龍光寺)、腹が落ちたところに龍腹寺(龍間寺)、尾が落ちたところに龍尾寺(四條畷に現存)。

龍間寺を建てたところが龍間になったそうだ。他にも龍鼻山とか、ここ龍眼寺とか、龍の体に関係した名がこのあたりには多いみたい。


登山口交差点を北に渡り、ゴルフ場入口の前の道(阪奈道路ではなくて、その左側の701号線)を東に向かっていった。

ここにはバス停もあって、さっさとバスに乗って住道に戻ればよかったな、と後で思った。この先はここまでの道と同じく、歩くまでもないような道に思えた。おまけに長かった・・・。

しばらく全く街道らしさはない車道で、道沿いにはラブホテルらしき建物が並んでいた。ホテルサファリってところには猛獣の像。天然温泉ホテルシエスタってところもラブホテルの感じ。

それから「○○台」、新興住宅地あたりに出た。701号線で田原台を過ぎて、昔からの集落らしき田原あたりを過ぎると、出店交差点で168号石切大阪線線(北には交野市)に交差、ここで古堤街道も終わるのかな。そのまま道を行くと白庭台で、学研北生駒駅(近鉄けいはんな線)に至る。そこまで歩いてから帰るつもりだった。近鉄電車は生駒から東に向かう奈良線と、北北東に向かうけいはんな線に分かれるんだな。

けれど田原台で早々にギブアップ。古い田原を見なかったのは少々残念だったけれど、この先701号線を歩いていても、それほどは面白い道でもないだろうと見た。

バスに乗って白庭台駅(けいはんな線)へ。山に囲われた中にあるような新興住宅地で、大きくてきれいで立派な駅なのに驚いた。

白庭はナガスネヒコの本拠地だったと言われるそうだ。ナガスネヒコの別名はトミ彦で、近くには鳥見トミの地名もあり、トミ雄川が流れている。

鳥見白庭ってところはニギハヤヒが交野の磐船神社に降臨した後に住んだところとも言われているそうだ。白庭の東に富雄川が流れ、西には天野川が流れていて、その天野川を下っていくと、磐船神社(交野市)がある。

トミヒコ、ニギハヤヒ、イカガシコオ、物部守屋、時代が流れるうち、天野川の注ぐ淀川の流域や、富雄川の注ぐ大和川の流域まで物部氏の勢力地になったのかもしれなかった。

散歩でいろいろ拾い集めて、犬でも勝手に想像できるのがいいなあ、と思った。古代はとっくに過ぎ去っていて、想像するのは勝手だものな。

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