猫間川を探る
2月、雨が降りそうで、そう寒くもない、ある日のこと、JR森ノ宮駅(環状線)に向かった。
そしてJR森ノ宮駅の西側を南下していった。玉造筋の少し東の道で、森ノ宮って都会かと思っていたけれど、もういきなり古びた感じだった。道道、古い家も現れ、小さくて地味でおしゃれなお店なんかも時々現れた。
左手に子安大日如来、そして右手には遠く緑が見えていて、もしかしたら難波宮跡公園かな? 地名は中道だった。
前に古堤街道を歩いて、堤って、すごくたどりやすいなあと思った。下に下る道には降りていかず、高いところを歩き続けたら、それが古堤街道、寝屋川の堤だったところだった。
大阪市内には猫間川なる川があったんだって。今は消滅しているけれど、かつては大阪城の東側を北上し、淀川に注いでいたらしい。
前回行った森之宮神社で、そばを流れていた猫間川の寝駒堤では聖徳太子の乗馬を育てていたと説明されていた。寝駒堤を馬を走らせて、田辺あたりまで行っていた太子の姿が目に浮かんだ。
猫間川の源流の1つは桃ケ池(阿倍野区の桃ケ池公園の池)であったらしい。桃ケ池の近辺には田辺(東住吉区)があって、田辺には馬を養育していた田辺氏がいた。
河内国分(柏原)あたりに住んでいた渡来人の田辺さんとも関係があるとも言われ、神功皇后のとき、朝鮮半島から連れて帰った白馬が逃走して田辺で休んでいたので、以後、住吉大社の神馬は田辺で育てられることになったそうだ。
柏原の田辺さんは元々は文官のような仕事をする渡来人だったと言われ、氏神は伯太彦と伯太姫の神社で、京田辺や博多や和泉の伯太などに移住しているとも言われている。
田辺(東住吉)の氏神とされる山阪神社に祀られているのは天穂日命。土師氏たちの祖。
河内国分と、土師氏の本拠地の道明寺は石川をはさんでいるだけで近いから、田辺さんと土師さんが結婚して、その子孫が東住吉にいたとかだったのかも??
そして聖徳太子ともつき合いがあったりしたのかも?? もし本当に聖徳太子が馬に乗って、田辺まで行っていたとするならば、他にどんなところを通っていたんだろう? 猫間川沿いの寝駒堤の上を走っていたのかな。
古堤街道を歩いた経験を活かして、寝駒堤を探ってみようと思った。
猫間川にかかっていた橋は、知っているところでは黒門橋と源ケ橋。地下鉄玉造駅を少し東に行ったところにある石橋(黒門橋)跡と、生野の源ケ橋交差点あたり。その2ヶ所を通って、あとは適当に歩いてみよう。
JR森ノ宮駅あたりを流れていたのは、森之宮神社の説明によると天野川のようだったけれど、分からないので適当にここからスタートした。
南下を続けるとロイヤルホームセンターに行き着いて、道路が消えた。線路の東側に移動して、南下を続けた。
すぐ西の台地の玉造界隈を散歩したことがあった。玉造稲荷神社や細川ガラシアの屋敷跡などのあったあたり。大阪城の三の丸だったあたりだそうだ。江戸時代、猫間川をみんなで浚ってきれいにしたことがあるらしく、玉造稲荷神社には、そのときの記念碑があるのだって。その浚えた時の土砂でできたのが寝駒堤だと書かれているのを見たことがあるけれど、堤は聖徳太子の頃からあったかもしれない。その堤の土やらも崩れて川の中にたまっていたのを浚って、新たに寝駒堤がつくられたのかも。
「どうぶつ夜間救急センター」を過ぎた。このあたりでは右手が高くなっていた。これはJRを走らせるために高くしたものかな。
それから長堀通りを過ぎたのだけれど、「二軒茶屋の跡」と「石橋(黒門橋)跡」の碑は、歩いてきたよりも少し東側の信号のところにあった。猫間川はもう少し東側を流れていたのかな?
石橋跡の碑のある信号から南下していくと、右手にJR玉造駅。案外こじんまりしていて、しゃれた感じの駅だった。
駅前には東小橋北公園があり、ここで川が合流していたんじゃあないかなあという感じがした。道が二手に分かれていて、とりあえずJR沿いの道(右手)を進んでいった。左手に行くと玉津だったみたい。
そのまま行くと「旧町名継承碑」が現れた。大阪市では古い歴史を語る地名を残そうと、旧町名とその由来の説明が碑になって公園などによく置かれている。
ここは唐居町だったところで、古代の外交施設の難波館があったという伝承から名付けられたのだって。小字には「唐居殿」とか「唐屋敷」があるそうだ。
むかし、上町台地は半島で、南側で本島につながっていて、半島の北側を通って船が行き来していたのだろうな。そして内海は生駒山地の方にまで広がっていた。やがて海は土砂で埋まっていき、池と川になったけれど、難波館のころにはまだ上町台地の北(淀川)から入ると入り江になっていて、玉津まで船で行けたのだろうな。船でやってきた異国の人を迎えたのが難波館かな。
そして入江だった低湿地も更に埋め立てられ、猫間川などが残ったのかな。
今の地名は東小橋だった。大小橋命が産湯を使ったという産湯稲荷神社のある小橋町にも近い。大小橋命は応神天皇の頃の、中臣鎌足らの先祖ね。
産湯稲荷神社はもともと比売許曽神社が鎮座していたところと言われ、比売許曽神社の祭神はシタテルヒメ。兄は、そこにある井戸を掘ったといわれるアヂスキ(シキ)タカヒコネ。父はオオクニヌシだから、出雲系なのかな。
息子は放出に港をつくったといわれるアチハヤオ。放出なんて遠くに思っていたけれど、行ってみれば大阪城あたりからも川(旧大和川)で一本、乗り換えなしの、すぐ近くだった。
「シタテルヒメはアカルヒメのことで新羅の女神だ」なんてふうにも言われていて、ほかにも「西成」「東成」は朝鮮半島由来の言葉で、大阪はほぼ朝鮮半島由来のものでできている、なんて書かれていることもあって、初めの頃、わたしはそれを信じていた。へえ~そうなんだ~と。
でも、この頃は、大阪のものは多くが朝鮮半島由来のものだとしたい考えがあるみたいで、それに随分引っ張られてしまって事実がゆがまされていることも多いのじゃないかと思うようになった。
シタテルヒメとアカルヒメもやっぱり別人じゃないかな。
渡来人が多く大阪にやって来て、住み着いたのも事実だ。けれどずっと昔から上町台地はあって、森ノ宮には縄文時代から人がいた。そして人間は、文明的な人がよそからやってくるまでぼやっとしているようなたまではない。
シタテルヒメは出雲系のアヂスキタカヒコネの妹だ。アカルヒメではない。と、思う。
では、そのアヂスキタカヒコネが掘ったとされる井戸で産湯を使ったとされる大小橋命は何者だったんだろう?
父は神功皇后の近臣、雷大臣、もしくは伊賀津大臣。雷大臣は前に河内街道歩きで行った栗原神社の祭神だった。雷大臣が仕事で行った百済でもうけた子の子孫が栗原連ということだった。
雷大臣の父が臣狭山命、前に行った狭山神社の祭神。その父や祖父たちは知らない人たちで、何代か遡るとイカツ臣、もっと遡ると天種子、枚岡神社を祀った人ね。
イカツから雷になっただけで、本来はイカツ。「ツ」はよくある「~の」って意味で、イカの臣、イカは「イカガシコオ」のイカで、イカガシコオ(物部氏の祖)にとても関係の深い何者かでは・・・と、勝手に思った。
次に現れた東小橋公園(土俵があった)の西側から東側に移動して南下していった。
学校通商店会という名の小さな商店街があって、千日前通りを過ぎて、「つるはし本通 東小橋南商店街」と書かれているアーケードの下へ入っていった。
ここは何度もやってきた。大きな大きな鶴橋の商店街だ。韓国語が飛び交っている。
そのまま道なりに進むと桃谷の弥栄神社だった。わたしの好きな、とても大阪とは思えない一帯。前に歩いた古堤街道に似た感じがした。つまりは、弥栄神社の前の道も同じに堤だったんじゃないかな?
けれど、堤っぽい道を歩いていくと、弥栄神社には向かわずに右折し、金光教教会の西、桃谷2丁目2番と3番の間の道を南下することになってしまった。
あれれ?と思いつつ歩いていった。「イヌノフンオステルナ」(原文ママ)なんて書かれてあった。
そのうち、左手に古そうな石の階段が現れた。弥栄神社への階段かと思って近づいていったら行き止まり。一般の方の敷地なのか、中には入れないようになっていて、けれどその範囲が滅法広そうだった。ここが古墳の跡だったとしても驚かないなあ。
不思議な立地だった。一帯は池だったところで、ここはそこに浮かぶ小さな島だった、みたいな。
なんだかこのあたりの地形に頭が混乱してきて、ひとまずここから退散することにした。
神社の裏手から表に移って南下していった。鶴橋小学校を過ぎても道なりに進んでいくと、歴史の散歩道の舗装が始まり、しかも他の歴史の散歩道とも交差していた。いつも迷って、どこを歩いているかも分からなくなるので、まだいまいち地理が掴めていない勝山北あたりだった。
交差している歴史の道には、すぐのところに「つるの橋跡」があった。
鶴橋の地名の起源となったこの橋は平野川(当時このあたりでは百済川と呼ばれていた)にかかる橋で、日本で最初に記録された橋だそうだ。仁徳天皇の時、猪飼(猪甘)津に橋をかけ、小橋と名付けたと記紀に記載されている橋であるらしい。だから「小橋」って地名も残っているんだな。鶴が飛来することから、いつしか「鶴の橋」と呼ばれるようになったんだって。
平野川がこのすぐ北で入り江に注いでいて、河口部にあった湾港が猪飼津だったそうだ。湾づたいに行くと玉津だった感じかな。
それはいいとしてちょっと待った、イカイ津?
猪飼部はイノシシを飼う職に就いていた職能部民で、かれらが住んでいたから一帯は猪飼野と呼ばれたってことだった。そこにあるから猪飼津。
前に行った信貴山の猪上神社には天足彦が祀られていた。5代天皇と尾張氏の娘(尾張氏の祖の妹)との皇子で、猪飼首(猪飼部の首)の祖。イカツとイカイツは、何か関係はないのかな?
勝山北商店会を歩いていった。ここは桑津街道歩きなどで通ったことがある。堤だったっぽい道で、道の左手はちょっとした下り坂になっていた。
そのまま進むと、小さな神社跡と、ナントカ橋と書かれた石碑。地図を見ると、この左側は池だったのかも?って感じがした。きっとこのあたりは池だらけだったのだろうな。
ただでさえ低湿地。そこで農業もしていたのだろうから、池や水路がいっぱいあっただろう。そしてそこにはそれぞれに堤があって、猫間川をたどるのを難しくしているのかもしれないな、と思った。
右手に御勝山古墳が現れた。ここは大小橋命の墓かもと言われているそうだ。このあたりでは勝山遺跡も見つかっていて、森ノ宮遺跡よりも古い、大阪市では最古級の縄文時代早期の遺跡なんだそうだ(近江と同じ土器が見つかっている)。
それから、ここも覚えのある舎利尊勝寺。桑津街道歩きなどでやって来たことがある。創始には生野長者なる人と聖徳太子が関わっていて、前は、よくある作り話?くらいに思っていたのだけれど、森之宮神社も近いし、聖徳太子が関わっていてもおかしくはない。改めて外から見ると、木や碑が立派なお寺だった。
舎利尊勝寺には、百済王善光を祀っていたこともあると聞いたことがある。百済王善光って、百済最後の王の息子。推古天皇より少し後の時代に来日。白村江の戦いなどがあって帰れなくなり、天智天皇の時代には百済が滅亡して、難波に定住。後に枚方の方に移住して、桓武天皇と近しい関係だった、百済王氏の祖だ。ここに百済王尼寺があったという説もある。
善光さんがやってきた時、聖徳太子は既に亡くなっていた。けれど聖徳太子の時代から難波には渡来系の人がいっぱいいて、森之宮神社も本当の名は「鵲森宮」だけれど、その名の由来になった鵲を推古天皇に献上したのも渡来系のキシイワカネだった。難波で外交に活躍していたっていう渡来人集団、難波吉士のひとりね。
・・・と聞いていたのだけれど、これもよく分かっていないようだった。
吉士は渡来系の氏族に多く使われた称号らしいのだけれど、後にはそうでもなくなったみたい。難波で外交に携わる人たちがみんな難波吉士と呼ばれたのかもしれない。ここでも「なんでも朝鮮半島由来」の力が働いて、難波吉士は渡来系だ言われることが多いのかな。けれど、新撰姓氏録(平安時代に編纂された氏族一覧表)によると難波吉士は大彦命の子孫だそうだ。
大彦命は8代天皇の長子で、母はウツシコメ。娘は10代崇神天皇の皇后になった。崇神天皇の母はイカガシコメ(イカガシコオの妹)。ウツシコメはイカガシコオのおばさん。
一説によると、難波吉士をまとめていたのが安倍さんだといわれているそうだ。難波と田辺の間には阿倍野が今もあって、アベ氏が住んでいたとされている。氏寺の阿部寺があったとされ、後には安倍晴明の父もここに住んでいて、晴明が産湯をつかったという井戸も残っている(京都にもあるそうだけど)。
その安倍さんも大彦命の子孫だそうだ。
難波界隈っていろいろイカガシコオに関わりが深い感じがするなあ。だいたい淀川そばの枚方は伊加賀に住み、息子は大和川(当時の)そばの放出に港を開き、子孫の物部氏は大和川流域の橘島(平野川と長瀬川とに挟まれた島)を本拠とし・・・って、大阪のメインの川を制覇しちゃってる。
舎利尊勝寺からすぐ生野神社が現れた。生野東公園など、西の一帯が高くなっていた。
神社を越えると右折して、西に向かった(生野東3丁目から1丁目へ)のだけれど、家がいっぱい解体されたようで、フェンスで囲われた空き地がいっぱいだった。
その奥に残っている家はぼろぼろで、割れたガラス、壊れた塀、つぎはぎのトタン、古いレンガ、あらゆる素材で組み立てられた感じの、廃屋に近い建物だった。広いがらんどうの庭には車がとまっていたし、住人もいるらしかったけれど。川原に近いあたりの雰囲気があるような気がした。
けれどそのうちにあばら家も消えたら、何もなかったみたいに、きれいにならされて、きれいな3階建て住宅数棟かなにかが建てられるのだろうな。
生野中学校に行き当たり、その南側の道を更に西に向かった。左手の、なんだか堤っぽいところに行ってみると、天理教此花大教会があった。
恩智や河内岩田で天理教の大教会を見たけれど、市内にもあったんだなあ。このあたりも地形が独特で、雰囲気のあるところだった。大教会の北側の道を西に進むと、広めの道につきあたって、ここは更に堤っぽかった。
この道を南下すれば源ケ橋交差点だった。こっちが本筋で、大教会の方には井路が流れていたのかも。
古堤街道は分かりやすかったけれど、それが稀なのかもしれない。川筋をたどるって、こういうことなんだな、と思った。川は一筋じゃなく、細くなったり、太くなったり、合流したり、分岐したり、池に注いだりし、川を埋めるのには堤を崩して土をとったりもしたろうし、跡をたどるのは、複雑で難しい。
源ケ橋交差点に行き着き、そのまま南下していった。堤っぽいかなってところを進むと、次の交差点、「源ケ橋」と書かれた大きな看板の下(商店街)に左折して入っていくことになった。
右手にはハルカスが見えていた。
市営高松住宅や高松小学校の間を南下。「大昌」と書かれた、今は取り壊されて駐車場になったところがあった。レンガが古くて、古い時代の工場跡かな。
少し変わった地形で、平野川あたりから運河が掘られて荷入れしていたってことはないかな?と思った。
JR関西本線にはばまれ、天王寺南2交差点で南下。
すぐに近鉄南大阪線とJR阪和線が上で交差するややこしいところ。ここも歩いたことがあった。近鉄南大阪線の河堀口駅のところで、ここが河堀口なのは、あの和気清麻呂の大工事(大和川付替工事をしようとして失敗したというやつ)で、ここから川を掘り始めたからなんだって。
この西が阿倍野。安倍寺があったあたりね。
堤っぽい道を選んで進み、少し西に寄ってから南下した。文の里中学校と天王寺高校との間を通って、高校を過ぎると右折。高校の南側の道を西に向かっていった。昼休みなのか、フェンスの向こうでは高校生たちが思い思いに過ごしていた。
アカペラの曲が聞こえてきて、見ると数人の女生徒たちが並んで歌っていた。素敵な歌声だった。隅でテニスをしている男子生徒たち、バケツのようなものを持って、笑いながら通行していく制服姿の男の子と女の子。
左手には天龍寺なる一角があった。すごく狭いところに、ぎゅっといろんなものが集められていた。
三明町公園の手前を左折。区役所があって道が途切れるので、一瞬あびこ筋を通り、また左手の道へ入っていった。
そこは工芸高校、近代産業遺産に登録されている、あの学校。下高野街道歩きで歩いた道だった。
道なりに進むと、天明湯なる銭湯と明浄学院高校の間を通っていった。この高校は、日蓮誕生700年を記念してつくられた女子高なんだって。戦時中には生徒たちは枚方の造兵廠に動員されていたらしい。
近くには、かなり大きくて立派な旧家もあった。
このあたりで本当は右折しないといけなかった。下高野街道でも、右折してしばらく南に行けば桃ケ池だった。猫間川の源流あたり。
それを忘れて道なりに進み続け、いつの間にか道は東方向へと向きを変えているのにも気づかずに、てくてく歩いていった。日差しがあれば、影で気づいていたかもしれなかったけれど、あいにくの曇り空。
JR(阪和線)を越え、桑津墓地(榎神社)、桑津小学校、そして南口橋で川(駒川)を越え、東住吉中学校、そしてまた川を「くまたにごうきょう」で越え・・・「熊谷郷橋」?・・・いやいや、「杭全2号橋」だろうな、やっぱりそうだ・・・って・・・杭全?
そこでやっと間違いに気がついた。杭全って、平野区じゃあないか。桃ケ池公園より思い切り東方向に来ちゃってる。
けれど、おかげで近さに気がついた。
桃ケ池のある南方面じゃなく、南西方面に道なりに進めば、すぐ杭全だった。平野も近い。
難波と飛鳥をつなぐ渋川道(今の竜田越奈良街道)も、すぐ近くだったんだな。聖徳太子は、猫間川の寝駒堤も、丹比道も、渋川道も通ったことだろう。
桑津小学校では桑津遺跡の碑を見た。勝山遺跡と同じく、ここでも縄文時代初期のものが見つかっているのだって。
前に歩いた姫島といい、味原あたりといい、大阪市なんて最近海から陸地になった歴史の浅い町、そんなふうに思っていたのだけれど、とんでもなかった。
同じ道を引き返しても面白くないので、泉養鶏場の古い建物(こんなところにかつて養鶏場が?)の前を南下して、一本南側の橋(撫子橋)を渡って戻っていった。天神社旅所があり、駒川は駒川桜橋で越した。あとはなんとか南港通りに出て、桃ケ池公園へ。
ピンクの梅らしき花(寒紅梅かな)が少しだけど咲いていて、きれいだった。重機がいっぱい入ってきていて、公園の中の橋の工事中だった。
桃ケ池から、南下して長池へ。猫間川の源流の1つは、桃ケ池や長池だったと考えられるらしい。
そしてもう疲れてきていて、途中、長池小学校の横でターンして、帰途についた。杭全まで行ったのが余分だったな。
長池小学校横の道も古い道の感じにカーブしていて、この道は、かつては万代池につながっていたのかもしれないな、と思った。長池と万代池をつなぐ水路があって、その水路脇の道だったのかも。
そして万代池からは六道の辻を通って住吉大社へとつながる道があったのだろうな。万代池にも聖徳太子云々の言い伝えがある。
川も道も集落も時代も、つながっているんだなあってことを、少しわかったような気がする散歩だった。
でも道は間違うわ、堤をたどれたって満足感は全く無いわで、これはちょっともう一度やり直ししてみなくちゃな。