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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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大和田街道

古堤街道の続きも気になるところだったけれど、あまり遅くなるわけにはいかないある日、大和田街道を歩いてみることにした。古堤街道の続きは生駒山越えをすることになるから、帰りはいったいいつになることやら。大和田街道は難波橋から大阪西部を北上していく街道で、梅田街道とも呼ばれていたそうだ。尼崎の大物で西国街道に合流して、そこでゴール。生駒山越えよりはずいぶん手軽そうだった。

土佐堀川にかかる難波橋には北浜駅が近いようだった。けれど大阪の中心地では駅があちこちにあって、徒歩圏内の駅がいくつもある。淀屋橋駅で降りることにした。そこからスタート地点の難波大橋へ。


地下鉄淀屋橋駅(御堂筋線)を出ると、淀屋橋(橋)がすぐだった。改めてじっくり見たけれど、素敵な橋だった。ビルが何本もそびえたち、都会の光景だ。最初の頃から大阪市内だったところなので、都会ぶりも堂にいっている感じがする。

土佐堀通りを難波橋のある東に向かっていった。通りの左側にはビルが並んでいるけれど、その裏手は土佐堀川で、たびたび橋が現れた。まずは「栴檀の木橋」。初めて聞く名前だった。

光世証券の建物が目を引いた。2001年の新しい建物だけれど、クラシックであることを目指した建築なんだって。

そして川の向こうの中之島に見えてきた中央公会堂は、やっぱり素敵だった。


土佐堀通りを歩いているとあまり意識されないけれど、川はすぐそばを流れていて、ビルの一階がレストランになっているパターンが多かった。窓から川が見えるようになっていたり、テラス席が設けられていたり。釣茶屋なんかもあった。

そして右手に大阪取引所が現れた。新しい建物で、その手前に銅像が見えていた。きっと五代友厚さんだ。ここが堺筋(北浜1交差点)で、ここにかかる橋が難波橋だった。ライオンが立っている立派な橋だった。

ここから、途中にある中之島も過ぎて、その向こうの堂島川も過ぎて、対岸に渡れるはずだった。橋の右側の歩道からだとそうだったんだけれど、橋の左側の歩道から行ってしまった。こちらからだと、歩道は中之島の中の中央公会堂付近まで迂回して、また橋に戻るって具合に大回りしていた。

中央公会堂そばまで行くと、大きな「木邨長門守重成表忠碑」があった。こんなに大きいけど、ナントカ重成って誰?と思ったら、木村重成。今では大阪城に移転している豊國神社がここにあって、境内に立てられていたものなんだって。


難波橋に戻ると、下に古いレンガのなにかが見えていた。古い時代のものかな?と思われたけれど、詳細は不明。そしてこんなところに自転車を押す浮浪者風のおじいさんが一人いた。

川の上に高速が走っていて、高速の柱が川から何本も伸びている。こういうのを見ると、人間ってすごいことをするなあと感心する。

中之島を越えると、堂島川。堂島川を過ぎると左折して、川沿いに西に向かい、大和田街道のスタートね。

川べりの遊歩道を歩いていくと、天満警察署前交差点で公道に出た。

神社もないのに鳥居があって、驚いた。なんでもここは天神祭で鉾流神事が行われる場所であるらしい。堂島川に架かる橋の名も鉾流橋。

右手にはなんだかいかめしく警備された大きな建物があって、高等裁判所だった。

左手には西天満若松浜公園。最近つくられた川辺の公園のようで、素敵にベンチなどが並べられ、川向こうには公会堂がきれいに見えていた。暖かい時期には最高だろうな。

水晶橋を過ぎ、大江橋(御堂筋)を過ぎた。スモーキングスペースが設けられていた。やっぱり都会は違うなあ。

それから中之島ガーデンブリッジと、右手にはホテル。海外旅行者らしき人たちがホテルから出てきたけれど、高速で台無しだった。壮観を大きく損ねていて、旅人にはどう見えるのだろうなあ。古びれてきている高速の交差していない大阪を見て欲しかったように思った。


次は渡辺橋(四ツ橋筋)。「堂島米市場跡記念碑」がたてられていた。「先物取引発祥の地」とされているんだって。先物取引なんてわたしにはよく分からない話だけれど、今のシステムに近いことを世界に先駆けて行っていたそうだ。地名は堂島浜だった。

四ツ橋筋(渡辺橋北詰交差点)を渡ると、モンシェールがあった。堂島ロールで有名になったケーキ屋さんじゃないの?

それから高速と一緒に右折。左にNTTテレパークなんていうところがあった。テレパークなんて、これも犬にはわからない話だけれど。


国道2号線に出て、ここを左折。左手にお寺があって、塀が瓦を積んだ古いものだった。塀の中に、びっしり瓦が重ねられて塗りこめられている。堺のお寺や、瑞光寺への道標のある旧家などで見たことがあるもの。寺は浄祐寺で、いろいろ説話もあるみたいだった。

寺にか、近辺にか、工事車両が入っていた。消しゴムみたいに工事車両がかつての姿を消していき、昔を語るのは住所だけってことにしていくんだな。

すぐの出入橋交差点で右折して、すぐの梅田2西交差点で左折。旧道が残っていなくて、じぐざぐに歩くしかないのだろうな。

そのまま進むと福島駅。駅の横を南から北へと歩いて行ったのは、山田街道歩きの時だった。今回は、東から西へ。面白そうなガード下の飲み屋街とかも見えた。

そのまま道の続きを行くと、聖天通商店街だった。「売れても占い商店街」がキャッチフレーズらしくて、聖天通の名称よりも目立っていた。江戸時代、このあたりに易の大家がいて、その関係で今でも特定の日には占い師たちがやってくるんだとか。

まあまあ賑わっている商店街だった。途中、「なにわの伝統野菜ミュージアム」(ただの畑に見えるけど)があり、その横に「大和田街道(梅田街道)」の碑と説明があった。


長い商店街で、時々信号も現れた。2つ目くらいの信号で「聖天さんはこちら」みたいな道標があって、すぐ右手が浦江聖天だった。鳥居の額には「歓喜天」と書かれていた。

いろんな神さまが同居していて、それがぎゅっと凝縮されていた。弁天さんとか不動明王とかが隣り合っている感じ。

狛犬がマッチョだった。こんな肉体美の狛犬は初めて。カキツバタも季節になると咲くらしく、芭蕉の句碑もあった。「浦江の杜若」は有名で、芭蕉もやって来て、歌に詠んだことがあるのだって。おもかる石もあった。


商店街に戻って続きを歩いた。街道と言ったらよく現れる天理教教会がここにもあった。商店街出口付近には、安いうどんなどの定食屋と、昔ながらの理容店。昭和な風景だった。

そして商店街を出ると、鷺洲交差点だった。

広くなった道を、そのまま進んだ。

海老江交差点を過ぎたあたりからは、左右に交差する道も、面白そうだった。奥の方に、激しく古い家なんかもあった。戦争で燃えなかったスプロール地帯ってやつかな。右手の郵便局を越すと、鳥居が見えていて、行ってみると八坂神社だった。しだれ梅が咲いていた。海老江の氏神、スサノオを祀っているらしい。

古くて面白そうで、龍美たつみ温泉のほうに向かってみた。南桂寺、倉、ツシ2階の町家、壊れかけのボロ家、長屋。迷路みたいな路地。江戸時代の長屋ばかりだっただろう様も、想像できそうなところだった。古くからの町だったのだろうなあ。

南桂寺などがあって、このあたりは本願寺の門徒が多くいたところだったらしい。大阪では、そこらじゅうの村でそうだったのだろうな。

石山合戦の舞台にもなったそうだ。石山合戦って、織田信長VS.石山本願寺(顕如)の10年に及ぶ戦い。

元々は摂津にいた三好三人衆と信長との戦いだったそうだ。三好三人衆は織田を倒すべく、野田城、福島城、浦江城を築城。傭兵部隊の雑賀衆などなども集結。

信長は京街道でかな、天王寺にやってきた。天王寺、住吉、遠里小野に陣をおき、戦いは信長優勢であったらしい。

けれど、その時、突如石山本願寺が信長に攻撃をしかけたんだって。信長は中島に陣を移し、先陣は海老江で野田城、福島城と対峙。戦い(野田福島の戦い)は長引きそうで、信長はいったん退却。そして、朝倉、浅井との戦いでかまっていられなくなったか、しばらくは休戦。

朝倉、浅井を倒し、その後、再び高屋城の戦い、天王寺合戦、木津川口の海戦などで戦い、最後は顕如が石山本願寺を信長に引き渡すことを条件に講和したそうだ。

高屋城、野田城、遠里小野。散歩したことのあるあたりの織田信長との関わりがやっとつながった。全国統一まであとちょっとだったっていう織田信長。そのためにはやっぱり大阪にも何度も足を運んだんだな。


元の広い道に出る手前、右に進む道に「大和田街道」の碑があった。ここを進んでいったけれど、すぐに広い道に合流(中海老江交差点)して、右折。淀川大橋へ向かった。

淀川大橋のすぐ前に淀川小橋があった。小橋といってもそんなには小さくない。元々はこちらを淀川は流れていて、改修されて広い大橋の下を流れるようになったのかな。

橋は高い位置にあって、集落は下に見えていた。堤防の手前には、ずっと前からあるのだろう、オンボロ家も見えていた。


淀川大橋は工事中だった。重機がいっぱい橋の上にいて、遠くに煙突の煙も見えて、工場地帯感が強かった。遠くに山が見えるけれど、かすんでいた。

淀川大橋を渡って行くと、右にも左にも橋。右は高速とJRで、左は高速と阪神電車。そして右手の上空に飛行機。

長柄橋や十三大橋なんかと同じく、長い橋だった。橋の真ん中くらいにやってくると、足を動かしてはいても、進んでいる気がしなかった。ずっと同じ場所を歩いている、ランニングマシーンの上にいるみたい。川にはカモの子が1羽だけいた。みんなどこかに飛んで行ったけど、1羽だけ飛びたてなかったとかだろうか?

カモにとって世界はどんななんだろうと思った。飛ぶ飛行機の数で、都会か田舎かを判断するのかな。それとも空のにごり、騒音、色なんかで分かるのかな。どうしてこんなところにひとりでいるんだろうって、途方に暮れるだろうな。

やっと橋を渡り終え、淀川大橋北詰交差点で右手に鳥居が見えていたので、行ってみた。歩道はほぼない、ちょっと危ない道だった。

鼻川神社だって。犬NG。壊れたきつねが神社の周囲に置かれていて、可愛かった。地名は花川で、「鼻川」からきたんだと思われた。けれどどうして「鼻」?

なんでも、神功皇后が三韓征服の後で立ち寄って、授けた地名なんだって。村人がお餅を差し上げると喜ばれ、ここの地形が鼻に似ているだかで「鼻川」と名づけたんだそうだ。ネーミングセンス・・・。


境内には西成大橋の親橋もあった。

淀川大橋の前には西成大橋がかけられていて、その親柱だったそうだ。ずっと以前には野里の渡しで川(当時は中津川。中津川を利用して開削したのが新淀川)を渡っていたんだって。

道を戻り、淀川大橋北詰交差点を西に行くのが大和田街道だった。なのに間違って、ここをそのまま北に向かってしまった。野里交差点にたどり着き、右手に見える野里本通商店街に行ってみた。シャッターが閉まっているどころか、新しくマンションなどが建ち、お店さえ消えていっているところだった。

そこに住吉神社があった。住吉神社で道が左右に分かれている、不思議な立地だった。両脇を川が流れていたとかかな。


説明に足利義満が勧請したとあった。本当かい、と驚いた。5,6世紀には神社があったらしく、そこに住吉神もよんできたって感じなのかな。

この付近では、野里川の合戦があったんだって。野里川って、中津川のこのあたりでの呼び名だったそうだ。そしてやっぱり野里本通商店街が中津川の流れていた跡なんだって。

野里川の合戦は別名、大物だいもつ崩れ。管領の細川さんを下克上する戦いだったみたい。その時、野里川は死体で埋まったそうだ。

神社には「一夜官女祭」のポスターが貼られていた。2月20日、大阪府指定民俗文化財だそうだ。

一夜官女祭ってなんぞや?と思ったら・・・かつてこの地方にあった、少女を生贄とする風習を元にした神事らしかった。

昔、神社で、決まった日に少女を一人生贄に差し出せと神託があり、毎年そうしていたんだって。白矢をたてられたうちの娘が生贄とされていたそうだ。そして7年目、通りかかった武士が「神は生贄など求めない」と、その正体を見破るため、少女に変わって神社にひそんでいた。

そして翌朝、村人たちが行ってみると武士はすでにおらず、大きなヒヒが死んでいたのだって。


古い家、カーブした道、このあたりも古そうなところだった。

野里交差点から西へ向かった。

結局は本来の大和田街道にこの先、戻れたんだけれど、途中の本来のコースは歩き損ねた。そこは姫島のメインストリートで、たいそう賑わっていたところだったのだって。淀川大橋北詰交差点から阪神電車を越えて、右折する道。また機会があったら、歩いてみよう。


姫島交差点で遍満寺(像の像などあって、インド風に見えた。1537年創立)の前を行くと鳥居が見えていて、姫嶋神社だった。前から気になっていた姫嶋神社。

祭神はアカルヒメで、新羅からやってきた姫だ。新羅の王(アメノヒボコ)に嫁いでいたけれど、怒って里帰りして、難波までやって来たとかいう人。新羅系の女神ではないかと言われていて、平野の赤留比売命神社にも祀られている。


アカルヒメは、前に行った大正区でも姫嶋龍神社に祀られていた。けれど詳細は不明。

このあたりから、ずっと歴史の散歩道の舗装が続いていた。近くには、織田信長が1580年に築かせた大和田城もあったのだって。

歴史の散歩道に沿っていくと、大野橋だった。けれど下に川は流れていない。代わりに水色に塗られた遊歩道があった。大野川なる川が流れていたけれど、水質汚染がひどくて、昭和の時代に埋めて緑陰道路としたのだって。

大智寺なるお寺の前で道が分かれ、ニトリやツタヤの方向へと進んでいった。大和田2丁目交差点を過ぎて、そのまま歩いた。しばらくなんてことのない道だった。

てくてく歩きながら、休診時間の動物病院の中で、そうじロボットがかいがいしくお掃除しているところを見た。あと、閉まっていたけれど、りんご専門店らしき「りんご店」の看板とか気になった。

また右手に鳥居が見えて、行ってみたら、大和田住吉神社だった。隣には安養寺もあった。

このあたりって、住吉神社だらけだな。大阪湾だものなあ。かつては海で、島になって、海岸になって、陸地になったんだろうな。そして海岸だった時代あたりに、住吉神社が勧請されたのだろうな。

町外れのせいか、けっこう広い境内だった。隣は公園で、元々はここも境内だったのかな?


境内には「判官松の碑」があった。判官って源義経(九郎大夫判官義経)のことらしい。

義経が平家を追って、大物浜から出航したのだけれど台風にあい、船は「大和田の浜」に着いたんだって。そこに陣をはり、村人が鮒をもってきてくれたので、その村人に「鮒子多ふじた」の姓を与えたそうだ。大和田墓地には「鮒子多」さんの墓もあるんだって。ネーミングセンス・・・。

そのときからあったとかいう松がここにあったのだけれど、明治10年、雷にうたれてしまったそうだ。それで今は碑だけが残っている。

「大和田の浜」というのは大輪田の泊のことだとも言われているらしく、けれどそれは間違いだ、ここ大和田のことなのだ、と神社の説明にあった。

1320年勧請。後醍醐天皇が即位してすぐの頃。判官はそれよりずっと前の人だから、判官松があった場所に神社を祀ったのかな。


元の道に戻って、続きを歩いた。地名は出来島になって、千北橋を渡った。橋の歩道の部分にも歴史の散歩道の舗装がされていた。

川は神崎川。橋の手前に「白天宮」と幟がいっぱいあったので行ってみたけれど、工事中で、入っていけなかった。防潮堤の工事中で、春過ぎまでかかるみたい。

橋を渡ると、佃島。佃煮を作った人々が元々住んでいたという島だ。住之江公園界隈みたいな雰囲気だった。ちょっと殺風景で、大きな車が通り過ぎていく町。

島には田裳神社があるらしかったけれど、かなり遠回りになるし、寄り道はせずにそのまままっすぐ島を横切った。疲れてきてたのよね・・・。


小さな島で、向こう岸に渡る橋は2つだけ。

左門殿さもんど川にかかる橋だった。尼崎城主の左門って人が川を改修して、左門殿川と呼ばれるようになった川なんだって。

辰巳橋で川を渡るために、西に向かって歩いていった。あまり人通りのない、車のための道だった。辰巳橋も、大きな車が横をごうごう走っていた。久しぶりの空気の悪さだった。橋を越えたら、兵庫県尼崎市。

途中、橋の右手、下のほうにレンガの建物が見えていて、降りていってみるとユニチカ記念館だった。旧尼崎紡績会社(現ユニチカ)本社事務所。明治33年建築の洋風建築だって。


素敵な遊歩道が現れて、そこを進んでいったら大物駅が現れた。

尼崎駅もすぐ近くだったみたい。初めての大物、初めての尼崎で、まだ未知に近いんだけれど、このあたりも全部摂津国だったところ。

疲れていて、そのまま電車に。大物~杭瀬~千舟(佃島)~姫島(西淀川区)~野田~福島~梅田と電車は走っていった。

初めての兵庫県だったけれど、探索もしなかったなあ。

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