古堤街道の古いバージョン
もう一度歩くことにした古堤街道。今福あたりから徳庵までは「新しい古堤街道」(寝屋川の堤)を歩いていたので、「古い古堤街道」(旧寝屋川の堤)を今度は歩いてみようと思った。
そしてせっかくだから、今福あたりまでは鯰江川の堤を歩くパターンで行ってみよう。
降り立ったのは、今回も森ノ宮駅。そして今回も街道のスタート地点までは大阪城公園を通って行った。
まだ寒波が居座っていた2月。
今回はちゃんと梅園経由ですんなり進んで行けた。梅園があるのは、高さのある階段の向こう。とても高いところにあるお城のそばだった。何度目かの大阪城公園で、やっと全体像が掴めてきた。
梅園には急坂を下っていった。上町台地の北の端あたりなのだろうなあ。
坂を下る途中、右手下に見える梅園はまだ赤い梅(寒紅梅かな?)がちらほら咲いているくらいで、それよりも反対の左側が気になった。
左側には内濠があり、その向こうは石垣で、上の方に天守閣がある。その石垣に3人の紺の作業着の人たちが、ロープで体を固定して、吊り下がっていた。そして石垣の間に育っている枯れた草の草むしりを始めた。
石垣に人が這っているのって、忍者みたいだった。忍者の装いでメンテナンスを行ったら、面白い見所になるんじゃないかなあ。人がそこにいると、石垣で積まれた、その高さが、すごく実感として伝わってきた。
京橋口に向かう間には、舟の乗り場もあった。大阪城御座船だって。小さな金ピカの、ちょっと安っぽい船の姿も見えた。内濠を20分かけて運行。大人は1500円。
京橋口から外濠の外へ出ていった。京橋口の石は大きいし、自分が小さくなったような感じがした。
そして右折したら大阪工廠跡、京橋(橋)。大阪夏の陣ではここから豊臣軍の兵士たちが逃げ惑い、徳川軍に狙い撃ちにされたそうだ。
土佐堀通りまで出て、土佐堀通りを片町東交差点まで進んで左折した。前に歩いた古堤街道(寝屋川バージョン)では土佐堀通りの南を歩いたけれど、鯰江川バージョンでは北のほう。鯰江川は、寝屋川の少し北側を並行して流れる川だったのだって。昭和49年に埋めたてられたそうだ。
土佐堀通りの片町東交差点を左折して少し北上すると、「のだばし跡」の碑があった。鯰江川にかかっていた橋。
このあたりは野田で、かつて大阪三郷の北組であったそうだ。早くから大阪市だったところね。
野田橋跡の前で右折して、「ウエストストリート京橋」なんてあたりを歩いていった。右も左も下り坂になっていた。弁当屋や、ランチをやっているお店がいっぱいで、興味深い通りだった。
そして「立小便NG うんこも」とか書かれてあった。犬猫へのメッセージじゃなかったと思う。
この先、道はいろいろ交差するけれど、堤だったのだろう道、高くなっている道を進んでいけばいいだけだった。堤って、こんなにちゃんと分かりやすく残っているものなんだな。
京街道でも歩いたところのようで、長い歩道橋の下のお地蔵さんに覚えがあった。
京街道は歩道橋から北東に向かっていったけれど、古堤街道はこのまま京阪モール(の背中)沿いを道なりに進めばいいみたい。
環状線の人気のないガード下をくぐると、すぐ左手に墓があった。大阪七墓の1つ、蒲生墓かな。住道みたいにここも低湿地で、墓も多いところだったのだろうなあと思わされるものがあった。
途中、左側の低くなったところに、鳥居や地蔵なんかのある公園が現れた。少し変わった道の感じ、高低差のあるところで、ここから別の川(榎並川?)が流れこんでいたんじゃないかって雰囲気だった。
ここも道が何本かに分かれているけれど、下る道には行かず、高くなっている道をそのまま進めばいい。
高栄寺と慈愛院が一緒になっているところに出た。高栄寺がペット供養の慈愛院もやっているみたいで、ちょっと独特だった。街道からは背中が見えるだけだったけれど、どうも大きな猫の石像じゃないかと思われるものが立っていたり、近くの宗教法人へのメッセージが書かれていたり。
その後、線路を越したのだけれど、これは城東貨物線ってやつだろうか。踏切を渡っていたら、かなりの近さに列車が接近してきた。普通だったらとっくに遮断機が降りているのに、その気配もないなあ、と、近づいてくる列車を見ていたら、列車は左折。ここはJR片町線(学研都市線)の支線で、片町線は途中で向きを変えていくみたい。
信号まで進んだら、左手になんだかふる~いおうちが見えていた。屋根は、藁葺き?
道道、古い家や、すご~いボロ家とかもあったけれど、これは大物だなあ、と、そちらの方向に進んで行ってみた。おうちの隣は正福寺で、そのまま進むと、左手に蒲生行者堂。そして正面には若宮八幡。
若宮八幡には青い幟が何本か立てられていて、「佐竹義宣の陣屋跡」と書かれていた。夏の陣の、鴫野・京橋口の戦いで佐竹義宣なる徳川側の武将の陣屋になっていたそうだ。
西向きの神社で、海のほうを向いているタイプだと思われた。蒲生の守り神で、かつては広大な神領をもち、応仁の乱の頃には畠山さんもお参りしたことがあるんだって。
武将もお寺にお参りするし、みんな同じだなあ、と、この頃思う。どんなに立派でも、有名でも、150年生きた人はいない。徳川家康だろうとほかの人たちと同じように生きて、死んでいったんだな。
今を生きているのはわたしたち。今は、今地球にいる人たちの順番がきている。「むかし」って言うけれど、その時代にはその時代の人々が「今」を生きていて、走り、戦い、恐れ、望み、手を合わせ、日々を暮らしていたんだなあ。
行者講のお堂は、今福でも見た。
大峯山で修行した人を行者というのだって。蒲生の行者講(講はグループみたいなものかな)のお堂は江戸時代に始まり、300年続くそうだ。行者に体をまたいでもらうと強くなると言われていたそうで、横たわって行者にまたいでもらっていたんだって。300年、さもありなんという、歴史の凝縮した感じのするお堂だった。
右折して元の道に戻り、先に進んだ。
今里筋と、前に歩いた杉山街道を過ぎた。ケーキ屋さんがあった。おいしそうだったな。
それから左手に城東商店街。前に歩いた杉山街道で「今福・蒲生激戦地の跡」と書かれていたところだった。
ちょっと寄り道して、商店街を歩いてみた。前回見逃した蒲生四丁目駅も今回は把握。さびれている感は否めないかなあって商店街だった。鯰江保育所があった。
そして堤道の続きを歩いていくと、道が交差して、分かりにくいところに出た。けれどここも、下っては行かず、高い道を進むだけ。
郵便局の前を進んでいった。ここも変わった感じの地形、道の感じだったから、ここから川(井路?)が流れていたんだろうなあ、と思った。そうしたら、どうやらここで五ヶ荘井路川と榎並荘井路川なる井路が合流して、鯰江川となっていたのだって。
もうしばらく行くと三郷橋跡で、「冬の陣古戦場 今福蒲生の戦い跡」という碑や、「丸木舟出土跡」という説明版がたっていた。
出土した丸木舟は古墳時代から奈良時代の間のもので、長さは13メートルもあったんだって。一本の木をくりぬいて作ったものだったそうだ。釘も使われていたらしく、その写真もあった。
どこに釘を使ったんだろう? 横木を釘で打ち付けて、横揺れしてひっくり返らないようにしていたのかな。木をくりぬいただけの船なんて、すぐ転覆してしまいそうだし。13メートルもあったら、人もけっこう乗れるし、荷物もかなり運べただろうなあ。
丸木舟は大阪城で公開保存されていたそうだ。けれど空襲で燃えてしまったんだって。8月14日の大空襲で、大阪工廠と共に大阪城も燃えたというから、その時かな。だから古墳時代から奈良時代の間っていう大雑把さなのかな。今なら分析して、もっと絞り込めたかもしれないのにな。
左手に神社が見えて行ってみると、皇大神宮だった。前の古堤街道歩きでも来たところ。前回は細い道からやって来たけれど、今回は広い道からで、それだけでも違う神社のように思えた。
そして雪が降り始めた。少し前から、なんだか急に冷え込んできたなあって感じはしていたんだ。
元の道に戻って、続きを歩いていった。
このあたりも左手に古い家々がけっこう残っていた。今福小学校の西側に出て、信号まで進むと「旧野崎道の跡」の碑があった。すぐ目の前の極楽橋で寝屋川を渡った。
寝屋川はここから直線で東に続いているけれど、元の寝屋川は南東に続いていた。ここを前回は寝屋川沿いに東に歩いたけれど、今回は寝屋川を越えて南へ。
そこにパン屋さんがあった。昔からあったような、昭和な感じの小さなパン屋さん。駅近でもない、人通りが多いでもない、なのに存在し続けているパン屋さんでおかあさんがパンをゲット。
雪が舞う中、ここのパンを後で頂いた。極普通。でもそれが、おいしかった。舞う雪もあいまって、なんだかあれは夢の中の話、夢の中のパン屋さんだったんじゃないかって思える。
このあたりも道が複雑だったけれど、高くなった道を進んでいくと片町線に行き着いた。
川(城東運河)を南新喜島橋(新喜多新田にある、寝屋川、楠根川、城東運河にはさまれた島だったことから新喜島だって)で渡ってからは、線路沿いの道を道なりに進んでいけばいいようだった。けれど線路沿いの道が工事中で全面通行止めで、一本北側の道で進んでいった。
途中からは工事が完了しているようで、線路沿いを歩いた。
道なりに歩いていくと右側に放出墓地、それから放出駅。ここは前に中高野街道(剣街道、放出街道)で近くを歩いたことがあった。もう少し東側の道を歩いたのだ。その時の感じでは、けっこう田舎って感じだったけれど、思いのほか放出は賑わっていた。この日歩いた中では、京橋の次に賑わっていたのじゃないかな。商店街もいくつかあり、駅前も広々とした商業地で、にぎわっていた。人もいっぱいいた。
左側の道はかなり下り坂になっていて、このあたりのかつての地形が気になった。新開池の水が更に西に流れ出るところに南から長瀬川も流れ込んでくるあたり。
左手に大きな神社が現れて、阿遅速雄神社だった。このあたりに港を築いたアチハヤオの名のついた、父のアヂスキタカヒコネを祀る神社。
改めて地図を見れば、ここは大阪城の真東あたりだった。2kmくらいしか離れていない。
右手にまた墓地が現れた。
いつの間にか(放出駅の手前からみたい)鶴見区になっていて、地名は今津南だった。前方にきれいに山が見え始めていた。
道がいりくんでいたけれど、すっかり慣れてきて堤道を進んでいったら、願教寺、湧泉地蔵、下に源正寺(融通念仏)と現れた。
このあたりは堤だったのがすごく分かりやすい地形だった。高低差があって。時々、めっぽう古い家なども現れた。古い集落だったところなのだろうな。
それから左に鳥居が見えて、坂を下って行ってみると、比枝神社だった。立派で、大事にされ続けている感じがかなりした。江戸時代、日吉大社から神を勧請したそうだけれど、神社自体はそれ以前からあり、詳細は不明なのだって。
円通寺、そして前回歩いた徳庵橋近くまで堤の跡は続いていた。
徳庵橋からは、古堤街道は前回歩いた1つしかないので、今回の街道歩きはここまでとした。
徳庵駅から帰ろうと商店街を歩いていると、左手に六角堂みたいな建物が見えて、行ってみた。本良辯教良願寺だって。あちこちに駐車場もあった。
ややさびれた商店街の終わる頃に駅があった。
帰りながら、面白かったなあと思っていた。堤道って面白い。堤の下には、面白いところが多々あった。
家を底上げするめっぽう古い石垣、今の時代でも人が住み暮らしているのかと驚愕するような古くてボロいトタンでできたような家、迷路のようになった細い道。何日もかけて探索したいくらいだった。
古い家も多くて、しっかり手入れされて使われ続けているすごく大きなおうち、ほどほどに手入れされている中くらいのおうち、ぼろぼろになっている小さなおうち、と、だいたい3つのパターンに分けられている気がした。
珍しい名前の表札も多かった。多い気がしたのは坊農さんだった。