表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
40/45

古堤街道を京橋から

河内街道を歩き終わって、次には古堤街道を歩いてみることにした。

まだ寒い2月のある日、最強寒波はまだ居座っていたし、遠くに行く気分じゃなかった。古堤街道は中垣内街道とか野崎街道とかとも呼ばれている道で、京橋スタートなんだって。

京橋スタートなら寒すぎて早く帰りたくなっても、駅が見つかりやすいと思われた。

そして歩いてみると、風はなかったし、お日様が照っていて、思いのほか暑いくらいだった。気温は同じでも、強風が吹いていた曇り空の日とは全く違っているんだな。


野崎街道というのは、野崎観音に参るのが大流行りしていた時代(江戸~明治)、野崎詣りをする人々の陸路だったのでそう呼ばれたそうだ。かつては、六軒浜あたり(天満橋)から深野池に屋形船が行き来していて、船で行くことが多かったみたい。

けれどそのうち大和川付替えなどで舟便のルートが変わり、寝屋川、または鯰江川から寝屋川をさかのぼり、住道あたりで下船。そこから歩いていっていたのだって。

野崎街道は船は使わずに、船の行く川の堤を歩く道。野崎街道では、船に乗った人と堤を歩く人とが罵り合うのが風物詩みたいなものだったんだって。口喧嘩に勝つと縁起がいいっていう、おみくじみたいなものだったらしい。

そして寝屋川(や鯰江川)の堤が古堤街道らしくて、古堤街道と野崎街道は途中まで同じ。古堤街道は野崎あたりまで行くと、更に龍間、もしくは中垣内を通って大和へと進むんだって。それで龍間越、中垣内街道とも呼ぶらしい。

・・・あれ? 古堤街道って旧大和川沿いを行くのではなかったのかな。


古堤街道は大阪城公園を出る京橋(橋)あたりからのスタートのようだったけれど、せっかくなので、前に杉山街道で行き損ねた森之宮神社にまずは寄ることにした。森ノ宮駅からすぐのところにある。

神社に近づくと、「聖徳太子が建立した唯一の神社」なんて書かれていた。そういえばそうだ。他の「聖徳太子創建」はお寺ばっかり。

狛犬が忘れがたく個性的だった。顔が大きくて、横に伸ばしたみたいに体も大きくて、ユーモラスだった。

いろんな説明書きや、新聞の切り抜きなどがたくさん貼られている神社だった。

森之宮神社には「元四天王寺」もあって、その神域は生駒山麓まで達していたんだそうだ。神社では四天王寺も最初はここにあったと伝えられているというやつね。

住吉大社の神域がかつては天野川(廿山方面の)や、その川の流れ出る山々まで及んでいたっていうことを考えたら、森之宮神社もまた生駒山から流れてくる川を理由に広い神域をもっていたのかな。

物部守屋が倒されて、その領地は半分が蘇我氏の、残り半分は四天王寺のものになったのだって。それならば生駒山麓のほうまで元々領地をもっていたのは物部氏なのかもと思って地図を見てみたら、森之宮の東って石切あたりなんだな。石切神社があって、物部氏の祖のニギハヤヒが祀られているあたり。

森之宮のすぐ北、大阪城のある場所は元々、数多くの川が四方を流れていたらしく、大和川の本流と淀川の本流もここで合流していたそうだ。

聖徳太子って物部氏の土地だったところに寺を建てていった感じがあるけれど、こんな要所を元々押さえていたのも物部氏だったのかも。そしてそこに流れる淀川、大和川、そんな川の流域が、森之宮神社が置かれる前は物部氏のものだったのかも。

ない話ではないだろうなあと思った。

元大和川が流れていた八尾は物部氏の本拠地だった印象だし、淀川沿いの伊加賀は物部氏の祖のイカガシコオがいたところだし、近くの交野ではニギハヤヒ(物部氏の祖神)が彦星ってことになっていたくらいだった。


かつては「天野山からの天の川も流れてきていて、そこには鵲橋がかけられていた」と神社の説明にあった。天野山って、もしかして前に行った金剛寺のあった天野山かな? そして天の川(天野川)って、今では西除川と呼ばれて狭山池経由で大和川まで流れている、あの川?

わたしは天野川はヨサミ池に流れ込んでいたのかもと思っていたのだけど、池から出たその先でかな、平野川と合流して、また分かれ、このあたりを通って(鵲橋は今のJR森ノ宮駅あたりというから少し東)、大阪城付近で淀川と合流していたのだって。もう既にあの天野川とは別物のような気もするけれど・・・。

そして神社の東には寝駒ねこま川も流れ、寝駒堤があったそうだ。聖徳太子の馬を育てていたところと言われ、後に猫間川という表記になったんだって。

あと、蓮如も石山本願寺をたてるにあたり、森之宮神社に参拝し、宗門の発展を願ったとも説明されていた。

亀井水の碑もあった。東にあった森の湧水で、絶えることがなかったんだそうだ。


それから大阪城公園の中を通って、京橋口に向かった。

大阪城公園の中、前にも行ったことのある梅園経由で行くと、近くて簡単なはずだった。

梅園は大阪城本丸の近く、外堀と内堀の間にある。それを間違って外堀の外に向かって行ってしまった。そしてなんだか様変わりしていて、迷っているうち大阪城ホールよりも外側に出てしまっていた。

それはそれで面白かった。いつも通るあたりとは違って、人は少ない。そしてどうやら最近の工事で、大改修が加えられたらしく、カフェとかの建ち並ぶゾーンになっていた。港もできているらしく、案内板も出ていた。水都大阪らしい公園にしようとしているのかな。

天王寺公園も「てんしば」なんてふうに生まれ変わっていたけれど、ここも、みんなが足を運び、足を止めたくなる、お店の並ぶ観光スポットにしようとしているみたいだった。

まだ客はほとんど入っていなくて、店員さんもほうが多いくらいだった。工事中のところもあったから、工事が全部終わったら、雑誌やニュースにも取り上げてもらって、人もやってくるようになるのかな。

梅園の代わりに、現れた桃園を通っていった。左には「おもいでの森」と大阪城。右側には、昭和な都会の風景だった。

少し後方は平成の感じなのに、川を下っていくと昭和な感じになるのは、見えている建物が違うからだろうな。なんというか、ツインタワーなんかの見える「平成のほう」は、洗濯物なんて絶対似合わない感じだ。けれど、ここから見える「昭和のほう」は、洗濯物がとっても似合いそう。


前にもやってきた大阪工廠の跡のところ、レンガの建物が2つ向かい合っている間から出て、右折。京橋(土佐堀通り)の方向へ向かった。ここは京街道でも歩いたところ。

京橋(橋)のさらに上にある大坂橋を今回は渡ってみた。そして土佐堀通りに降りると、東へ。

歴史の散歩道の舗装がされているのは、京街道だからだろうな。途中で右手の川沿いの道へと移っていった(片町交差点の手前のバス停のあるところを右折するといいみたい)。

ここからが、京街道から分岐した古堤街道。あとは川の北側の道をひたすら東へと向かっていった。

川は寝屋川だった。なんでもこのあたりでは元大和川が寝屋川なのだって。大和川が付け替えられる前、深野池には清滝川や寝屋川も注いでいたらしい。

東に深野池が、深野池につながって西に新開池があり、北から流れて深野池に注ぐ川あり、新開池に注ぐ川あり、南から流れて深野池に注ぐ川(大和川の支流の吉田川など)あり、新開池に注ぐ川(大和川の支流の菱江川など)あり。深野池には3つの島があってそれが三箇。水は深野池から新開池に流れ、元大和川の本流の長瀬川(久宝寺川)と一緒になって更に西に流れていた、という感じかな。

大和川は付け替えられ、川だったところも池も新田開発されたけれど、池の上流部分は寝屋川として残されたのだって。


前に歩いた今福に古堤街道が通っていて、たんぼだらけだったので、馬に乗って走れるのは堤の上だけだったという話だったから、今福の戦いのときにも大阪方は、この道を馬に乗って今福まで向かったのかな、とか思いつつ歩いていった。

火除地蔵があり、このあたりは新喜多しぎた新田だったところ。

しかしここは春に歩くべきだったか?と思った。川沿いには桜がいっぱい植えられていて、春にはきれいだったろうな。満開になっている梅の木を一本だけ見た。

環状線の高架下を過ぎると、左手に地蔵が見えた。新しく見える千羽鶴がいくつか置かれていて、大事にされている地蔵だった。そしてその先がJR京橋駅の入り口だったのだけれど、知っている京橋駅とは違って、随分、小さな駅みたいに見えた。改札は地上にあるし、その先に駐輪場も普通に地上にあって、なんだか片田舎の駅舎のようだった。テーラーとか、銭湯の古い煙突とかがあって、車の通りも少なめで。

ここはJR京橋駅の南口だった。京阪電車とつながっている北とはずいぶん違っていた。そして京橋南口には「京橋駅爆撃慰霊碑」と地蔵尊があるのだ。きっとあの折り鶴でいっぱいのお地蔵さんがそうだと思って、引き返してみたら、やっぱりそうだった。

8月14日、終戦の前日。大阪工廠(この時の名前は大阪陸軍造兵廠だけど)を爆破しにB29が150機ほど飛来(第8回大阪大空襲)。京橋駅には列車が2本入ってきているところで、混雑していた。片町線のホームに、乗客など数百人が避難していたのだって。

そこに、ガードを突き抜けて、一発の1トン爆弾が落ちてきた。

被害の大きさから京橋(駅)大空襲とも呼ばれているそうだ。この日、大阪工廠も壊滅。戦争でどんどん拡張されて、6万人以上、中学生だって働いていたという大阪工廠だった。

工廠は封鎖され、不発弾の危険を冒して鴫野などから在日の人々が鉄くずを拾いに行き、アパッチ族と呼ばれることになるのだった。


お地蔵さんにさよならをして、先を進むことにした。

しばらく行くと、寝屋川の向こう、橋を渡ったところに小さな公園みたいな一角が見えた。渡ってみると慈寳院があり、その門前の南側は一段低くなっていて、公園が続いていた。「樹木や遊具がおしっこで劣化するので犬の散歩お断り」だし、先は歩かなかったけれど、なんだか気になるところだった。

一体なんの跡地だろう? 水路だったところとかかな。地名は鴫野西だった。

それから寝屋川の北側に戻って、街道の続きを歩いた。道沿いには古い家々が続き、次には家内工場的な家が現れ、それから片町線のガード下を過ぎると、ちょっとした工場地帯になった。

右も左も下り坂で、堤だったというのがよく分かった。


今里筋を越した。寝屋川には新喜多大橋がかかっていて、その横の小さな新喜多橋は、杉山街道で歩いた。

寝屋川の右側は鴫野東で、左側は蒲生あたり。ここに来るまでの間も、新喜多橋とか北橋とか、そういう名の橋が多かった。

右側の歩道に地蔵が現れて、すぐ、左手に栄照寺の道標が現れた。なんだか古くて面白そうな感じだったので、そちらの方向に入っていってみた。すごい旧家がかたまって建っていた。皇大神宮の氏子さんのおうちとか。

ここが市内だということが信じられなかった。地名は今福南だった。

栄照寺を過ぎてからも、そのまま道なりに進んで行ってみた。地蔵や旧家の並んだ道を行くと、左手には鳥居が見えた。行ってみると、皇大神宮。伊勢信仰の神社であるらしい。

その右には今福行者尊。大きな石に小さなとびらが取り付けられていて、それが閉じていて、なんだか妙で、可愛くもあった。なんだろう、山の中にありげなものが大阪市内にある、この不思議さ。


そのまま道なりに進み、かなり大きくて立派な旧家も過ぎて、右折して、元の道に戻っていった。今福小学校の東側に出て、ここが古堤街道。今福墓地があり、古堤橋を渡った。

川沿いを歩いているはずなのになぜ橋を渡ったんだろうと思ったら、寝屋川から北に川が分岐していて、その川を渡ったみたい。どうやらこの川は、寝屋川からひかれた運河、城北川(城北運河)であるらしかった。

南に向かっても運河はひかれていて、こちらは平野分水路(城東運河)なのかな? 水路が交差していて、面白い地点だった。

左手に下水処理場が現れた。川の向こうは工場地帯の感じだった。山が近く見えていた。

寝屋川には万代橋がかかっていた。ここには「小便禁止」とか書かれてあった。

今回の散歩は、「小便禁止」に、安売り自販機に、少し西成に似ている感じだったな。


内環を越えた。ここで寝屋川にかかるのは寝屋川大橋。

ここで城東区から鶴見区になるみたい。鶴見緑地はこの左(北)、1キロくらいの地点。

横堤墓地があり、三荘橋が現れた。左手に遊歩道が続いていて、川だったのだろうところ。

ここを、信号まで歩いていった(北上)。道道、古そうな家もあった。田んぼの中の農家だったのだろうな。

最初の信号を右折。西三荘遊歩道というらしい道は、そのまま鶴見緑地、それから西三荘に続いているらしい。元は西三荘用水路という川だったそうだ。

左手に見逃せない大きな樹が見えていて、近づいて行ってみた。迷路のような道を歩いていくと、どうやら旧家の庭の樹のようで、高い塀の向こうにあった。

このあたりも、今福南あたりと同じで古い集落だったのだろうな。相当面白そうだった。


元の道に戻って続きを歩いていった。左手に鳥居が現れて、横堤八幡宮だった。南北朝時代に村の産土神として祀られたのだって。

すごく古い家と、新しいマンションが向かい合って建っていたりする、不思議なところだった。昭和初期にタイムスリップしてしまう小学生の不思議な物語の舞台になってもおかしくないようなところ。

信号まで進んだら、ここを右折して、川沿いの道に戻った。今津橋が現れ、それから左手に古川が現れた。古川って、寝屋川の支流だったんだな。ここで合流するみたい。


次には徳庵橋が現れた。

せっかく徳庵までやって来たことだし、川向こうにあるらしい徳庵神社に行ってみようと橋を渡った。

橋は、なんだか複雑な構造になっていた。ここで川が交差していて、その上で橋も交差していて、方向感覚を失ってしまった。

あとで知ったんだけれど、ここで五箇井路と六郷井路が合流してきていて、それで複雑なことになっていた。新開池が埋め立てられた後、水害対策で余分な水を流すためにつくられた井路ね。井路といっても川と区別はつかなかった。

ここはどうやら大きな新開地の一部だったところのようだった。


橋には降り口もいっぱいだったけれど、商店街のほうに降りていくと徳庵神社があった。じゃっかんさびれた、小さな神社だった。詳細は不明。古くはないらしい。池の底だったところだものな。

寝屋川の北側に戻って続きを歩いた。

しばらく歩道にガードレールがなかったけれど、そう車も通らなくて、町の外れって感じの強いところだった。川の南側に大きめの通り(府道168号石切大阪線)があるようで、車もそちらを通るのだろうな。

中茶屋あたりを通った。ここは古堤街道の半ばあたりにあって、茶屋が並んでいたところなんだって。けれど今では、昭和な感じの家々や工場が並ぶ地帯だった。

高速の下を通る前、工場のもくもく蒸気があがっている、すぐ横をすり抜けて行った。牛乳石鹸の工場だったのかな?

それから上を高速(近畿自動車道)が走る大きな道路に出た。おなじみの道だった。久宝寺緑地の間からずっと北上したところ。

ここには信号がないので、少し南下して信号を渡ってから、元の道の続きを歩いた。

鴻池スカイランドへの案内が出ていて、なんだろうと気になった。鴻池水みらいセンターの施設の上にある多目的広場で、遊具もあって遊べるところみたい。もちろん犬はダメだろうな。


次の橋の手前で左に入る道があって、そちらに入っていった。地蔵や、諸福橋跡などがあって、地名は大東市諸福だった。ますます山が近くなっていた。

そして、なんだか妙なところだった。左手が窪地のようになっていて、川が流れてたのかな?と思っていると、近くに勿入渕ないりふち(ないりそのふち)跡の碑があった。

平安時代、小さくなった河内湖は勿入渕と呼ばれていたそうだ。古墳時代は草香江だったけれど、平安時代は勿入渕ね。「入るなかれ」の渕、入ってはいけない渕、みたいな意味だったのかな?

「勿入」とか札がたてられていて、それで「勿入渕」と呼ばれるようになったとか?


勿入渕はその後ますます小さくなって、深野池と新開池とに分かれ、勿入渕は新開池のほうを指すようになったそうだ。東大阪あたりでは内助渕と呼ばれた。

諸福は新開池の北の池畔あたりで、東の灰塚との間に流入口があって、隣の深野池からの水が入り込んでいたみたい。

この南には鴻池新田駅(JR片町線)や会所跡があるようだった。また来ることもあるだろうとスルーしたのだけれど、まだ行く機会がない。大阪屈指の豪商、鴻池さんの開いた新田あたり。


そのまま道なりに東へと向かっていった。

川はもう少し右(南)を流れているけれど、古堤街道はこの少し湾曲した道を行くみたい。

すぐに欣浄寺地蔵堂が現れて、古堤街道の説明が書かれていた。1655年、徳庵井路がつくられ、その堤もでき、そこに街道がうまれた、云々。

そこからはずっと道なりに進んでいった。堤の上だった所を歩くので、道が2つに分かれても、下には下らず歩き続けたらいい。分かりやすかった。左右には下りで、下ったところに道に沿って家々が建ち並んでいた。家に向かっては堤からそれぞれに道があり、それぞれに独創的で、面白かった。


旧家がまとまっているところがあり、右手に乗得寺、左手に諸福天満宮が現れた。諸福の村が生まれたあたりなんだろうな。

耕す土地が生まれ、そこに移住した人々が神社と寺をたてたのだろうなあ。古い建物にマジックスクールなんかがあって、面白いところだった。

左手に東諸福公園が見えていた。家々の建ち並ぶ街道沿いからは入れなくてスルー。

次は太子田たしでんってところだった。太子堂、太子田神社が続けて現れた。聖徳太子に関係ありげだけれど、詳細は一切不明みたい。

川に近いあたりや、河内湾だったあたりは「詳細は不明」が多い。古書も石碑も洪水で流れたりして、住人も他の場所に移っていったりで、いわれも分からなくなっているのかな。

右手に水門が現れて、次の地名は赤井だった。左手に北野神社と泉膳寺。北野神社は東隣の氷野の北野神社から勧請したらしい。

そして氷野あたりから東が深野池だったところのようだった。

しばらく行くと大峰堂と墓地が現れた。これが住道駅近く、歩道橋の下に見えていた墓地だった。歩道橋に上がっていくと、住道駅(2F)。


JR学研都市線(片町線)でおうちに帰った。古堤街道は墓地や旧家が多くて、川の多い農村だった感じがしたな、そして犬には厳しめのところだったな、と思いながら。神社はことごとく犬NGだったし、一部公園もそうだった。

学研都市線は、住道、鴻池新田、徳庵、放出、鴫野、京橋と、ほぼ古堤街道に沿っていた。放出以外は。放出より北を寝屋川は不自然にまっすぐ流れ、その北堤を行くのが古堤街道だった。不自然なのもそのはず、ここは人工的に造られた部分なんだって。

元々は、寝屋川は片町線と同じく、放出の方向に流れていたんだそうだ。その後、寝屋川の治水のために、寝屋川の今福から徳庵までを直線につなぐ徳庵井路がつくられた。

六郷井路、五箇井路もつなげられ、川だらけで、水運が盛んな時代には、徳庵は賑わっていたことだろうなあ。

欣浄寺地蔵堂あたりの説明にあったように、徳庵井路には堤(徳庵堤)もつくられて、そこが新しい古堤街道になった。そしてその後、今福から徳庵までの寝屋川は埋め立てられ、代わりに徳庵井路が寝屋川として残ることになった。寝屋川は放出を流れなくなった。

他にもいろんな川(楠根川、長瀬川など)が関係していて、もっと複雑な話のようだけれど、簡単に言ってしまうと、そういうことみたい。

ならば元々の古堤街道、放出経由の道も歩いてみなくっちゃあ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ