鉢ヶ峰ウォーキング(泉北)
しばらく市内の街歩きばかりだったので、緑の中を散歩したくなった。それで前から気になっていた「泉北ぐるりんウォーキング」のコースを歩いてみることにした。泉北の自然歩きができるという「鉢ヶ峰コース」に行ってみよう。
今季一番の冷え込みと言われていた日で、冬に比べたら全然なのだけれど、歩いていると肉球が冷たかった。
泉北高速の栂・美木多駅でおりたった。
初めて「トガミキタ」と聞いたとき、「冨上北」とかかな?と思った。けれど「栂・美木多」。栂地方と美木多地方がどちらとも駅名に使って欲しがって、「栂・美木多」となったんだって。「・」が使われている珍しい駅名として、その筋の人(?)には有名らしい。
泉北についてほぼなにも知らなかったので、まずは下調べをしてみた。
日本で初めての大規模ニュータウンって、千里だったらしい。その経験を活かして他にもニュータウンが生み出され、大阪府が計画、造成したのが泉北ニュータウン。
千里での経験から、古くからある集落(川の流域)はそのまま残し、間の丘陵部をニュータウンとしたのだって。そして「○○台」と名をつけた。
栂や美木多は「台」のつかない地名だから、古くからあった集落ね。和田川の流域部。
和田川は和田谷、石津川は上神谷を流れていて、ニュータウンはその谷によって分けられた3つの地域につくられた。それが泉が丘地区、栂丘陵の栂地区、光明池地区。
狭山市から西に向かって、泉が丘地区⇒上神谷地区(古くからの集落)⇒栂地区⇒和田谷地区(古くからの集落)⇒光明池地区って感じで和泉市へ。
それぞれのニュータウンに駅があって、それが泉ヶ丘駅、栂・美木多駅、光明池駅。
美木多は「和田」からきているそうだ。
栂はなにからきているのか分からなかった。けれど、上神なんて地名をもつあたりと近しかったみたい。
かつては大鳥郡だったところ。もっと昔には、茅渟県陶邑であっただろうところ。古代、中世と、須恵器の一大生産地だった。
前に歩いた陶器山もこのあたりだった。岩室あたりから和泉国(堺)と河内国(狭山)の境であった陶器山をてくてく歩いて、天野山金剛寺(河内長野市)まで行ったことがある。途中には狭山ニュータウンと泉北ニュータウンをつなぐという陶器山トンネルがあった。
その天野街道と呼ばれる道は、平安時代にはもうできあがっていたんだって。それだけ開けた、往来のあるところだったってことなのかな。
金剛寺は行基が開いたと言われているから、奈良時代からあったわけだし、ニュータウンって名にだまされていたけれど、かなり歴史の古い地帯にようだった。
なにしろ古墳時代から陶器をつくっていたんだから。古い集落があって、そこにニュータウンが同居しにやってきただけなんだな。
向かう栂・美木多駅は、北が桃山台で、南が原山台。栂地区には、いろんな「○○台」が、栂緑道なる道でつながっているようだった。
栂・美木多駅にたどり着き、改札から南に出ていくと、上り階段がいっぱいあった。みんな同じ道につながっているのかな?
適当に階段を上ると自転車置き場があって、そのまま進んでいくと、栂緑道だった。
思いがけなく紅葉がもう始まっていて、きれいだった。電車の中からも見えていたのだけれど。
色があざやかだった。駅近だというのに虫の音がして、ススキやどんぐりもいっぱいだった。
しばらくはこの栂緑道をずっと進んでいった。道はわかりやすいし、歩道と自動車道が分けられていて、歩きやすかった。
緑道を歩いていくと、「○○台」に造られた公園から別の「○○台」の公園へと南にたどって行けるらしかった。
まずは原山台の原山公園。緑道沿いには団地や戸建てが並んでいた。
公園のあたりでは、大きな無人らしき団地が目立っていた。立ち退きがあったのかな? 周囲には新しい家もあって、今、新旧入れ替わりの時なのかな。
素敵に暮らせば素敵に、そうでなければすぐにぼうぼうと荒れ、野放図になりそうなところだった。
たまむし橋を渡ったら、次は庭代台の庭代公園。橋といっても、下は公道になっている跨道橋。
ひぐらし橋(これも跨道橋)を渡ったら次は、御池台の御池公園。
庭代公園が素敵だった。山道みたいなところにも登っていけるようになっていた。広いただの原っぱもあって、子どもたちが自由に駆け回れそうだった。たぬきの子たちも遊んでいそうなところ。
ただ、今は寂しげな感じだった。子どもが少なくなっているとかなのかな?
どんぐりが道におびただしい量落ちていた。おばあさんがビニール袋に集めていた。それを見守る娘らしき中年女性。子どもに戻ってしまった母親にどんぐりを拾わせてあげているのかな。
どんぐりの落ちる音、ぼろろん。
御池公園を出たところで、栂緑道は右に続いていたけれど、左折した。
住宅地を東に向かっていく。しかしなんて静かなんだろう。家はびっしりと建っているのに、静寂がある。
後日、他のところも歩いてみて思ったのだけれど、これは「ニュータウンの端っこ」の静けさなのかもしれなかった。町中でも、大きな川に近づいていくと、なにか静かになる。それと同じような静けさなのかもしれなかった。
ちょっとした階段を下り、車道を横切って、道の続きを進んでいった。ニュータウンを出て、ここは栂地区と泉ヶ丘地区の間の和田谷地区かな。
ここをどんどん東に行けば、これから歩く鉢ヶ峰、それから前に歩いた天野街道、それから高野街道(千代田あたり)のようだった。西に行けば熊野街道(和泉中央あたり)、紀州街道(岸和田あたり)。
「ハーベストの丘へ」と書かれた道に進んでいった。
たんぼが広がっていて、刈り取りはもう終わっていた。田園風景が素敵だというあたりだというのに、来る時期を間違えたかも?
切川橋なる橋を渡って、そのまま進んでいくと、完全に田舎の光景だった。柿と古い屋敷。竹林なんかもあった。
バス停が見えたら、ここで右折。「コスモス館」(農産物の販売などをしているらしい)の方向への上り坂を進んでいった。
コスモス館は休みだった。あたりには籾殻がいっぱい落ちていた。
そのまま直進すると、ハーベストの丘の駐車場と、ハーベストの丘だった。
けれどこの日、ハーベストの丘は休園していた。少し前の台風21号の影響で、途中の道が封鎖されてしまったみたいで。それでコスモス館も休みだったようだった。
ここでハーベストの丘方面(上り道)には進まず、途中にある「泉北ぐるりんウォーキング」の看板と説明がある東屋の左手の道へ進んでいく。
この先、「泉北ウォーキング」の看板は、忘れた頃に随所随所現れて、道案内をしてくれた。
ここにあった説明板は、鉢ヶ峰について教えてくれた。「鉢飛ばしの技法」をもつといわれる伝説的な「法道仙人」が、その鉢(黄金の?)を埋めたとされるのが「鉢ケ峰」なんだって。
法道仙人なんて初めて聞いたけど、インドの僧で、中国、朝鮮半島を通って日本にやって来たとされているそうだ。6,7世紀頃だって。大化の改新の頃ね。
日本国内も各地を旅したのか、各地に伝説を残す人だそうだ。日本には牛頭天王と共にやって来たと言われていて、その牛頭天王が今いるのが京都の八坂神社らしい。
「仙人」と呼ばれるだけあっていろんな技をもっていて、とびきりの技が鉢飛ばしであったらしい。山の中で経を唱えつつ、空っぽの鉢(托鉢の鉢)を村々に飛んでいかせるのだって。村人たちは「あ、仙人の鉢だ」って、こぞってお米やらを入れたらしい。
ファンタジーだな。仙人は日本にやってくるときも、空を飛んでやってきたなんて言われているそうだ。
池があって、「まむしに注意」と看板があった。ここを左折する。
野焼きの跡、大粒の木になったイチジク。脇道にかぼちゃがなっていたりした。農村だ。
急な登りをのぼっていった。
途中、道の一部が通行止めになっていた。路肩が下の竹林に向かって崩れていってしまっているようだった。道の隣のキャベツ畑も崩れたみたいで、キャベツも転げ落ちてしまったんだろうな。下では竹がいっぱい倒れていた。通行止めのガードの左側を、歩行者は通れるようになっていた。
台風21号の爪痕というやつなんだろうな。
それから鉢塚バス停を過ぎた。
しばらく行くと、堺公園墓地だった。ず~っと墓地がつづいた。いろんな寺が区画ごとに管理しているとかなのかな? いろんなお寺の名前で区画の道案内がされていた。
昭和24年にできて、今では30haに及ぶ規模であるらしい。桜の名所としても有名なんだって。
左手に常真院、それから法道寺が現れた。
法道寺は、天智天皇9年に法道仙人が開いた寺らしい。初めは閑谷院長福寺と称していたけれど、徳川家の後継ぎにつけられる幼名が長福丸だったので、同じは失礼だと改名して法道寺としたそうだ。
多宝塔がすごい存在感だった。南北朝時代のものだそうだ。食堂は鎌倉時代のものだったそうなのだけれど・・・見逃がしてしまった。
裏手には池や東屋があった。寺の真向かいには国神社の鳥居があった。
国神社というより、国神社跡。この後で立ち寄る予定の桜井神社に合祀されてしまったそうだ。竹で手作りされたらしき手すりのある長い階段を登っていったところに小さな祠があって、それだけだった。
階段の途中は小さな公園になっていて、トーテムポールが立っていたりした。遊具の白い馬が参道の階段の左右に向かい合っていて、それが狛犬的な存在に見えた。
小さなすべり台には階段がなくて、どうやら参道の階段で上って滑ればいいみたいだった。
素敵な、忘れがたいところだった。神さまが子どもと遊ぶために身をかがめている、そんな雰囲気のところ。
元々のいわれはすごい。
11代垂仁天皇8年にアマテラスが鳳凰に姿を変えてこの地に降り立ったのだって。そして12代景行天皇(ヤマトタケルの父)24年、武内宿禰(重臣)に社殿を造らせた。それから約30年後、鳳凰は飛び立って今の大鳥大社の地に移ったんだとか。
大鳥大社は前に熊野街道歩きで行ったけれど、ヤマトタケルが亡くなったあと、白鳥の姿になって降り立ったところとか言われていた。でもどうもこれは後世に作られた話みたい。
和泉国に天児屋命(藤原氏を出した中臣氏の祖神)を祖とする大中臣氏がいて、その分家になるのかな、大鳥連が祖神を祀ったのが大鳥大社の始まりなんだとか。
景行天皇も老齢になり、ヤマトタケルも亡くなった後、大中臣氏の分家が大鳥大社あたりに移っていったのかな?
アマテラスが岩戸隠れしたとき、祝詞をあげ、鏡を差し出したという天児屋命にはじまる中臣氏は古くから神事・祭事に携わっていて、中央部で政治に関わるようになった藤原氏以外はずっとそんな存在だったみたい。
大中臣氏はずっと伊勢神宮の祭主を世襲してきたそうだ(初代は中臣鎌足の父)。
枚岡神社を祀る平岡連も中臣系だそうだし、他にも菅生、狭山、殿来(富木)などもそうだった。
アマテラスが降り立ったというこの地は「神の郷」と呼ばれ、そこから上神谷となったんだって。
国神社に伝わる「上神谷のこおどり」なる神事舞踏が有名で、今では合祀された桜井神社の行事になっているんだけれど、今でもここ鉢ヶ峰の人々によって行われているのだって。
元々は雨乞いの儀式の踊りだったそうだ。
近くには大師井戸もあるらしかった。法道寺には空海もやってきたというからな。
「夢と希望の丘 堺市立鉢ヶ峰青少年キャンプ場」もあった。けれど閉鎖されている雰囲気だった。堺市立墓地公園はまだ続いていて、キャンプ地らしからぬ風景になってしまっていたし。
法道寺橋を渡ると、道は左にカーブしていった。
そのまま進むと上神谷小学校で、結局はそちら方面に行くのだけれど、その前にぐるりと迂回していく。
左にカーブする上り道を行ったら、合流する公道を今度は右に、てくてく上っていった。山々に囲まれた中、見晴らしの良い場所だった。高い建物が何もなくて、空が広い。道はカーブして、富蔵地区に入っていった。
ここには「奥の院」「感応寺」「薬師寺」があるらしい。
奥の院はどこから行けるかよく分からなくて、スルーしていった。
このあたりは素敵な家が多かった。贅沢にとられた敷地に、好みの家を建てている感じ。アトリエと書かれた家もあって、それがしっくり合っていた。
やがて道は下りになって、バス停と、「泉北ぐるりんウォーキング」のマップがあった。
このまま直進していく前に、感応寺に寄った。右側、道を下ったところに見えているお寺。
上神谷の妙見さんと呼ばれているらしい。大阪三大妙見の1つなんだって。他は能勢と星田。
妙見(妙見山)というのは妙見菩薩を祀るお寺のことで、妙見菩薩というのは北極星を神格化したものだそうだ。
645年(大化の改新の年だな)、例の鉢飛ばしの法道仙人が開いたとされていて、建物は1658年のものらしい。
鳥居に瓦屋根がついていたり、狛犬も並んでいたりした。神仏が融合していた感じがよく残っていた。明治時代に神仏分離させられたけれど、ここは元の融合した形のままでゆったりと存在している感じだった。
元の道に戻って、下り道を進んでいった。
右側には谷の向こうに、街が見えていた。
左手に薬師寺と自治会館。あたりは古い集落(上神谷の富蔵)らしくて、古いお屋敷に家紋が入っているのが素敵に目立っていた。
あとは上神谷小学校に至る道に、適当なところで戻った。田んぼの中の一本道みたいな道だから、むちゃくちゃわかりやすくて、迷わずに戻れた。
トラクターが走っていて、てんてんと土の汚れが落ちていた。
ここが堺市だとは。わたしの知っていた堺は、堺駅や堺東駅あたりの住宅密集地。堺市って広くて、町の様子もバラエティーに富んでいるんだなあと思いつつ歩いた。
高台になっていて、左右には地にへばりつくような都会が見えていた。
上神谷小学校にたどり着くと、地名は片蔵のようだった。
泉北ウォーキングの説明板があって、このあたりは長峰と呼ばれるところだったそうだ。その名のとおり、長い峰だったんだって。その後、農業地帯となり、江戸時代の頃にはお米の名産地であったらしい。堺の米と酒が全国に流通していたのだって。
道なりに進み、跨道橋(あかぎ橋)を渡って、更に進んだ。
「上神郷総鎮守 櫻井神社」と、横木のない鳥居みたいな碑(?)が現れた。前方、道を下っていった先に神社が見えていた。
神社に向かう前に、左に進んでいくと、古い屋敷がいっぱいだった。こういうところって、面白そうで、ついつい寄り道してしまう。路地がいりくんで、段差があって、建物は古くて、小規模なカリンドオバタみたいだった。
そして櫻井神社へと進んでいった。国神社が合祀されているところ。上神谷の八幡さんとも呼ばれているらしい。
このあたりに住んでいた桜井さんが祖先である武内宿禰を祀ったのが始まりとも、須恵器の技術を伝えた百済系渡来人の桜井さんが祖先(阿知使主)を祀ったのが始まりとも言われているそうだ。つまりは詳細は不詳で、和泉に住んでいた桜井さんについての情報をもとに推測するしかないってことかな。
何度か歩いた難波大道をずっと南下したあたりに櫻井神社はあるらしい。つまり難波宮の真南あたりに位置するってことね。
拝殿の間が割れて通路となっていて、これは割拝殿と呼ばれる形態なんだって。鎌倉時代のものらしかったけれど、あまり重々しさはなかった。
ところがなんと、これが歴史ある堺市で唯一の国宝であるらしい。見る目ないなあ。拝殿とかは見上げて天井の方も見ないと価値が分からないみたい。
神社を出ると、左へ進んでいった。市街地方面へ。
高橋なる橋を渡った。周りにはまだたんぼがいっぱいだった。
渡った川は妙見川。ここからは南南東方面にある上神谷の妙見山の近くを通って流れてくるから妙見川。この西側で石津川に注ぐ。
高橋を渡ったら、古い家の建ち並ぶ左の上り坂に進まないといけなかったんだけれど、広い道をそのまま進んでいってしまった。
いきなり都会になり、高架を走る車道の下を通って、工業地帯へと入っていった。地名は釜室だった。
「釜(=窯)室」、「富蔵」、「片蔵」、このあたりの地名はみんな須恵器の一大生産地だった関係のものじゃないかと言われているそうだ。
室を蔵として、大量の須恵器を保管していたところではないかって。
途中、道を間違えていることに気づいて、本来の道に戻っていった。
若松台中学校を過ぎるとつきあたりで、ここで左折して、茶山台を通り、大蓮公園(すえむら資料館なる施設があったようなのだけれど、閉館しているようだった)を経由して、泉ヶ丘駅へ。
おうちに帰っていった。
散歩するところに事欠かないなあと思いながら。ちょっと歩けばいろんなものにつきあたる。世界は知らない場所だらけで、歩いてみるとそれぞれに面白いんだな。
そしてそれらがどこかでつながっている気がする。地理的な話だけではなくて。枚岡、菅生、狭山、富木、鳳、そんなつながりで一枚の壮大な絵になりそうな。
大きな絵の、小さな1ピースが、散歩することで少しずつ少しずつどこにはめるべきものか分かってくるような。
散歩ってパズルみたいでもある。