河内街道を八尾まで
河内街道を最後まで歩くべく、若江岩田駅に向かった。2月になって間もない、何度も更新している「今季最大の寒波」到来の頃だった。
水は冷たいし、地面は凍っているし、雪もちょっとだけどちらついていた。少し前までは寒くても、歩いていたらなんとかなった。でもこんなに寒いと、どうにもならなかった。気温が低いのは言っても大阪だからたいしたことはないとしても、びゅーびゅー吹く強風はかんべんしてほしかった。
気温が低い+強風+曇り空、それは最強の寒さ。あ、+雨は除く。
おかあさんも手指がかじかんでしまって、わたしのバッグを閉めるのにもなんぎしていた。そんな寒い日には、おうちでゆっくり、暖房の効いた部屋でいたらいいのにね。
けれどこの日、梅が満開になっているのを見た。日当たりのいいところなのかな。寒くても、春がくるのを花も知っているんだなあ。
若江岩田駅からは岩田本通商店街を南下していった。ここは一度歩いたことがあった。昭和な感じの商店街で、閉店している店もちらほら見えた。左手に大きな天理教西成大教会があった。
飯島三郎右衛門の墓があり、道が2つに分かれていた。飯島さんは高井田の郷士で、弓の名手。大坂夏の陣では木村重成軍の弓手として参加し、若江で戦死したのだって。相手方の武将、山口さんに討たれたそうだ。
若江の戦いでその山口さん(木村重成に討ち取られる。享年26)も、木村重成(この人も20代前半)もまた亡くなっているそうだ。壮絶な戦いだったんだな。だからここ、若江に、山口さんと木村さんの墓もあるのだって。
一般的には八尾・若江の戦いと呼ばれている戦いは、道明寺の戦いに向かう徳川勢に奇襲をかけたものだったそうだ。八尾では長宗我部盛親が先鋒の藤堂高虎軍と、若江では木村重成が井伊直孝軍と戦った。そして木村重成、山口さん、飯島さん、他多数死亡。
夕方に枚岡にたどり着いた家康は、そこで首実検をしたんだって。そのとき、木村重成が頭髪に香をたきこめていて、家康も感嘆したんだとか。血なまぐさかったりしないように香をたいていたのだって。
同じ日に道明寺の戦いも起きて、後藤又兵衛が亡くなっている。この日を覚えとこうと思う。5月6日だって。
豊臣軍には大阪城への退却命令が出て、そして翌日、天王寺などで総合戦となって、真田幸村たちも戦死。そしてその翌日には大阪城が落ち、豊臣秀頼、淀君の母子は自害した。
飯島さん亡き後は、母親も妻も長男も自害したそうだ。・・・そんなものだったのかな。木村重成の妻も、妊娠中だった子どもを産み、重成さんの一周忌を済ませた後、20歳で後を追って自害したそうだし・・・。頭髪に香をたきこめて戦いに出るとか、犬のわたしにはよく分からなかった。
飯島さんの次男は乳母に助けられ、その次男が後に若江に住み、墓を建てたそうだ。
今は商店街だけれど、元は川沿いで、このあたりには岩田と若江を結ぶ「雁多樋橋」があったんだって。若江川で岩田と若江が分かれていたんだな。
雁多尾畑(柏原市)なら分かるけれど、東大阪で雁多って何だろう・・・。
飯島さんの墓を過ぎると、左右に分かれる道の右の道へ。左は若江川の堤だったと思われる道なんだって。その堤で戦いは行われたそうだ。ここも田んぼだらけで、馬を走らせられるのは堤だけってところだったのかな。
商店街は続き、若江商店会と名が変わっていた。古い豪農の感じの家も時々現れたけれど、昭和の頃に町になっていったのだろう商店街だった。かつての農村の姿は残っていなかった。
府道24号大阪東大阪線の手前で、右手に古い感じが見てとれて、行ってみた。古いおうちがいくつかあって、24号線沿いには「美女堂氏遺愛碑」なる石碑があった。
源満仲の四男、美女丸が開いた「美女山薬師寺が近く(少し北西)にあって、その子孫が建てた碑なんだとか。・・・でも、寒すぎて、あまり説明も頭に入ってこなかった。
源満仲(多田義仲)って、清和源氏の祖の嫡男だって。清和天皇のひ孫だな。
天皇の子は時には何十人といた(100人以上とかもあった)から、みんなを皇族にするとたいへんなことになった。そこで姓を与えて臣下とした(臣籍降下)。多くは源か平の姓をもらった。清和源氏というのは、清和天皇の子で臣籍降下した人と、その子孫たち。
時は平安時代、源満仲は藤原家のもと各地で働き、摂津国司などを歴任。その後、住吉大社に参拝して神託を聞き、川西の多田に入植して開拓、武士団を結成したんだって。多田源氏の祖となった。
この長男(頼光)は摂津源氏の祖で、次男(頼親)は大和源氏の祖、三男(義信)は壺井を本拠地とする河内源氏の祖になり、子孫には源義家や、頼朝、義経兄弟もいる。
そして四男が美女丸ってわけだな。あまり知られてはいないようなので、正妻の子とかではなかったのだろうな。
そして24号線の向かい側には「若江城跡」の碑があった。若江城は南北朝時代、河内国守護になった畠山さんがたてたものらしい。それ以前も郡衙が置かれていて、河内国の中心地だったのだって。
織田さんに攻められ、その後は織田さんの本願寺攻撃の拠点になっていたそうだ。その後、廃城となり、攻撃拠点も八尾に移ったんだって。
元の道に戻って、続きを南下していった。
右手に蓮城寺が現れた。ここは俊徳街道歩きで通ったところ。木村重成の位牌などもあるんだって。そしてその隣は、犬NGなのもよく覚えている、若江鏡神社。
ここらは独特で、時間がとまっている、というか、時間を止めている。古いのだけれど、それがすごく自然だ。
神功皇后が三韓征服の帰りにここに鏡を埋めたと言われている。詳細は一切不詳だけれど、9世紀の書によると祭神は大雷火明神なんだって。
詳細は不詳だというし、石切神社(刀)、若江鏡神社(鏡)、玉祖神社(玉)と、3種の神器と同じものを祀った古い神社の配置がトライアングルになっているというし、ミステリアスだなあ。
第2寝屋川を橋で渡り、川沿いを東に向かうと公園があって、そこに木村重成の墓があった。第2寝屋川開削工事で少し移動させられたらしく、その前は、川向いにある山口さんの墓と向かい合っていたんだって。
元の道に戻って、また南下していった。
ここも記憶にある、西郡天神社が現れた。十三街道散歩で来たところ。工場からの妙な匂いがするのも記憶通りだった。
錦織氏の西郡寺があったところに建った神社。富田林あたりの錦織を歩いてみて、錦織部の人たちの形跡が地名にしか残っていなくて驚いたのだけれど、ここもそうだった。西郡寺跡というだけで、ほかに何もない。
錦織の人たちがその後どうしたかって伝承などもほぼ残っていないのか、少し調べてみても何も出てこなかった。
そのまま南下していくと、道は狭くなり、左手に加津良(かつら)神社が現れた。ここも、前にも来たような気がした。道路を挟んで公園があって、道標や祠もあるけれど、フェンスで覆われて、開閉口も閉じられてしまっていた。ここも元は境内だったみたい。境内を分断して車道が作られてしまっている(しかもこれがまた狭い道路で、歩道がほとんどない)。
式内社だけれど詳細は不明で、かつて牛頭天王を祀っていたので、今の祭神はスサノオ。カズラ(カツラ)連(詳細は不明)の氏神で、地名が宣振となったのは、ここでの祭りの時に、萱を束ねた松明を振ったからと説明されていた。
南北朝時代には萱振城があったそうだ。元は北朝の足利氏がたてたと言われているらしい。
徳蔵寺、恵光寺などお寺も多くて、見所いっぱいな感じなんだけれど、いかんせん道が狭くて、説明を読むのにも落ち着かなかった。
恵光寺は萱振御堂であったんだって。蓮如の子が建立し、その後、環濠集落である寺内町を形成。一向宗(浄土真宗)の拠点となったんだって。
八尾には大信寺を中心とした八尾寺内町、顕証寺を中心とした久宝寺寺内町の他に、この萱振寺内町があったらしい。三好三人衆と示し合わせて萱振城にたてこもり、信長に焼かれたそうだ。
河内国の中心だったという若江に近いというか、古代にはもっと南のほうまで若江郡だったみたいだし、南北朝時代にも戦国時代にも無事ではいられなかったんだな。そして夏の陣にも。
萱振では、他にも古墳や、庄内式土器も見つかっているらしい。
庄内式土器って初耳だった。縄文式土器、弥生式土器の後も、土器はつくられていて、弥生時代の終わりから古墳時代の始まりにかけてつくられていたものが庄内式土器なんだって。吉備から全国(西日本一帯)に広がっていったと思われ、それまでとは違い、地方色がなくて、全国で同じようなものが生産されているんだって。
庄内式土器は土師器にあたり、土師器は後に出現した須恵器と共に作り続けられていたけれど、そのうち須恵器の技術を取り入れて、区別がなくなっていったみたい。
宣振南口バス停があるところで右折した。信号(宣振3丁目交差点)を過ぎて、川も過ぎて、最初の四つ辻で左折して、また南下していった。
途中の用和小学校に「綱引き選手権」で優秀な成績をおさめたことが書かれていた。ここも道がなんだか不自然で、右側にあった水路が暗渠となって、道が広くなったんだと思われた。
郵便局(八尾北本町郵便局)で右手の道へ。近鉄八尾駅が近いようだった。
近鉄八尾北商店街を進んでいった。近鉄電車の下を通って、次に現れた本町筋商店街へ。すぐ左手に参道があって、行ってみると八尾神社だった。少し寂れてきているみたい。
屋根が壊れてきているみたいで仮補修され、神社改修にあたってのお願いが貼られていた。豊臣秀頼みたいな人はもういないものなあ。
八尾城跡の碑がたっていた。説明によると、常光寺の僧が寺を中心に八尾城を構え、ここ八尾神社も城の中にあったと思われ、戦火にあったってことだった。ただ、八尾城のあった場所は確定されていなくて、ここは候補地の1つなんだって。「式内社栗栖神社」とある碑もあった。
河内国若江郡にあった式内社の栗栖神社はここだっただろうってことで、一時期は栗栖神社を名乗っていたそうだ。その後、八尾神社に改名。栗栖神社は物部系の栗栖連の氏神と思われるそうだ。祭神はウマシマジ。ニギハヤヒの息子ね。
八尾は物部氏が勢力をもっていたところと言われ、八尾にある渋川神社や大聖勝軍寺は守屋の縁の地に建てたとか言われている。むかし、平野川と長瀬川(久宝寺川)とに挟まれた橘島という島があって、物部氏はそこを本拠地としていたのだって。
境内には西郷会館もあった。ここは若江郡西郷村だったところなんだって。
そして次には、右手に常光寺が現れた。ここの僧が寺を中心に八尾城を構えたという、常光寺ね。名前も知らなかったけれど、今でも大きなお寺だった。
聖武天皇の勅願で、行基が開いたと言われ、白河法皇も参詣。その後、荒廃していたけれど再興し、足利義満から「常光寺」と自筆した額を贈られたこともあるのだって。
そして大阪夏の陣の後には、藤堂高虎が住職の居間の縁側に首を並べて首実験を行い、その血を吸った板が後に廊下の天井に用いられ、血天井と呼ばれているのだって。
ここ八尾では藤堂高虎の軍を長宗我部盛親の軍が襲撃。長宗我部軍は猛攻し、勝利しかかっていたんだって。けれど徳川軍に援軍がやって来て退散。この時に亡くなった長宗我部軍の人たちが常光寺で首実検されたのね。
その後、長宗我部盛親は大阪城の守りにつくけれど、負けが目に見えていて、逃走。京都で見つかって捕らえられ、六条河原で首を斬られたのだって。
常光寺は、河内音頭の発祥地ともされているらしい。常光寺の地蔵盆などで踊っていた踊念仏から進化して、昭和の時代に初めて「河内音頭」という名でレコーディング。商店街には河内音頭記念館もあって、河内音頭が流れてきていた。
他にも商店街には、「腹養丸」と書かれた古い薬屋さんだった(それとも現役?)らしき建物がいい味を出していた。
血天井の常光寺に河内音頭記念館に八尾神社に腹養丸。なんだかすごい商店街だな。
道が左右に分かれるところで左側の道に進んでいく。けれどその前に、右手に鳥居が見えたので行ってみた。八尾天満宮だった。「八尾寺内町の八尾天満宮」と案内されていた。片桐且元創建と伝わるんだって。
あとは元の道に戻って、南下して行った。
途中、飯田氏屋敷跡(忠彦)があった。一帯はずいぶん昭和な感じで、労務者用に建てられたのだろう、すごいアパートが多々残っていて、面白いところだった。
JR八尾駅に着いて、河内街道はこのあたりで終わりかな。けれど時間はまだ早くて、JR久宝寺駅まで歩いてみることにした。
JRで急行も停車する久宝寺の駅前はずいぶん都会で、一体どんなところなのか見てみようと思ったのだ。
八尾街道で歩いた久宝寺は、とっても古い元環濠集落だった。駅前の様子は余りにも違っていて、どうなっているんだろう、と。
JRの線路の南側を隣の久宝寺駅に向かって歩いていった。このあたりもまだまだ昭和の労務者感が強い。線路の向こう見える神社なんて、えらく荒れた感じだった。もうとっくに改修すべき時を迎えている感じ。
あとで調べると渋川天神社だったみたい。渋川廃寺跡(白凰時代)だそうだ。見つかっている瓦は豊浦寺や衣縫廃寺、錦織の新堂廃寺と同じ形式のもの。みんな初期のもので、蘇我氏の匂いがするような。
物部守屋を倒した後、守屋のものだった土地は半分が蘇我氏のものになったのだって。それで蘇我氏か、その仲間がやって来て、ここに寺を建てたのかな。
神社付近から向こうは工事中で、これから変わっていくところだった。神社もそのうちに改修されるのかな。
地名は龍華とか跡部とか、物部氏を思わせるものばかりだった。そして久宝寺駅に近づくと、新しいマンションや、造られて間もない感じの広々した感じのいい公園、入居募集中のクリニックビルなんかばかりになり、駅とつながる大きな通路にたどり着いた。こうやって「きれいな町」が造成されたんだな。
渋川天神社あたりの工事も終わってきれいになったら、また新しいマンションやきれいなおうちが建てられて、すっかり様変わりしていくんだろうな。
時間はまだまだ早かったけれど寒すぎたし、帰ることにした。