河内街道を住道から
2日で歩けるかと思っていたら、1日目は枚方公園駅~寝屋川市駅、2日目が寝屋川市駅~住道駅で、これで3日目の河内街道。今日で終点(JR八尾駅付近)まで行けるかな、と住道駅へ向かった。
1月末のこと。
前回、駅の真ん前に墓と公園があり、独特だった住道駅。けれどこの日降り立つと、それとは全く違う世界だった。大きな川が流れていて、その上に巨大なドームがあり、その上に駅がある、みたいな感じ。駅を2階から出たものだから、そのドームの上にいた。墓地はドームの下に隠れて見えなくて、「ちょっと古びれてはきているけれど素敵な水都」に降り立った感じがした。
素敵な動物の石像がたち、説明板には「三箇キリシタンと当地の石文化につながりをもつアンダルシアの・・・云々」と書かれていた。アンダルシアって、スペインだって。
川の方に行ってみると、ドームの下で川が合流していた。駅の東側は川が2つ(恩智川と寝屋川)に分かれているものだから、恩智川の南側(住道)、寝屋川の北側(赤川)、2つの川の間(三住町)と、それぞれに降りていくところがあって、面白かった。
赤川側の降り口は「駅前横丁 駅前一番商店街」なるかなり昭和のままの感じの入口につながっていて、そこにもいきなり墓地があった。墓地が壊されないまま都会になった町なんだな。
山がきれいに近くに見えていた。住道と書いて「すみのどう」。
三住町のほうに降りていくと祠があり、住吉神社らしかった。地名は浜町で、浜だったところなんだろうな。
寝屋川と恩智川の合流するここは船運の交通の要所で、住吉神社があって角堂浜と呼ばれていたんだって。そこから「住道」となったらしい。教会があったからという説もあるみたい。
今では護岸されて、川の方向には塀があり、全く浜という感じではないけれど、昭和の時代に大災害などがあってのことらしかった。
塀の切れ間に住道新橋があって、頑丈そうな門がつけられていた。恩智川が増水したら閉門するんだって。
ここからいつものように迷ってしまった。
住道新橋の東隣の橋が竹橋で、河内街道だった。竹橋で恩智川を渡ると、住道駅前住宅とかの敷地内を通って南下していくみたい。けれどここは私有地で、通り抜けNG、犬猫の散歩NG。ちょっと見た感じでは、かなり素敵な住宅地で、古い時代に(建て替えられてきれいになっているけれど)、行政によって人を呼ぶためにか、水害対策による立ち退きでか、ここに住宅がいっぱい建てられたんじゃないかな、とか思った。
通り抜けを回避して、よく分からないままに公道を歩いて行った。住道駅前住宅の南側の道路沿いにガストがあって、道路の向こう側にお寺(善念寺)が見えた。そのお寺の東側の道が河内街道の続きらしくて、ここから再スタート。
旧道らしく緩くカーブした道で、交差する道もみんな緩くカーブしている感じだった。あぜ道とか、用水路とかだったのかな? 今ではたくさんの家々が建ち並んでいた。それから倉庫や工場が目立つようになり、東大阪市に入ったようだった。
ラディッシュボーイとかあった。加納公園があり、その向こうにはサクラクレパス。加納という地名は各地にあって、税を納付するにあたり、定められたもの以上に「加えて納付」していたところなんだって。それだけ出来が良かったんだな。
加納公園を過ぎると右折して、道をジグザグ南西の方向に進んでいった。
広い道に出たのだけれど、ここが車道のUターン場所になっていた。車道が途中で終わり、Uターンするしかない。どういうわけで?と、不思議だった。散歩していて、だいぶ道のなりたちとかも推測できるようになってきたけれど、車道のことはまだよく分からない。
このあたりは、山は近いし、水路もいっぱい残っているようだし、最近まで素敵な農耕地だったのじゃあないかと思われた。のどかで、腰を伸ばすと山々が見え、ちょうちょが飛ぶ、そんな村。古いおうちも時々現れた。けれど、今では水路がもう用途も失って、ほとんど暗渠(道路などで蓋をされた川、水路)となっていっている。
その後もじぐざぐ加納2丁目を歩いて、宇波(元々は宇婆)神社(犬NG)にたどり着いた。このあたりは若江郡だったところみたいだ。
祭神は埴安姫命。字瓦口の氏神で、式内社だったそうだけれど、詳細は不明。ここは元は波打ち際で、「白肩の津」というところだったそうだ(候補地)。
神武天皇(初代)が上陸したのが「草香邑青雲白肩之津」で、「草香村の青雲の白潟(白い波が寄せる潟)の入江」って感じみたいだ。九州からやって来た神武天皇は最初白肩津から上陸。ナガスネヒコに倒され、盾津に退却した。その上陸地が、草香江のほとりだったこのあたりとされているみたい。
苔むした狛犬が保存されていた。秋祭りには獅子と天狗の獅子舞が各家を回るのだって。
宇波神社からは、道なりに南下するだけだった。
途中おかげ燈籠があり、説明板もたてられていた。ここは宇波神社への参道で、河内街道より早い時期からあった云々。
伊勢に参るおかげ参りは、特に20年に一度の「式年遷宮」の年(の翌年)に参るのがいいとされているらしい。それでその年にはおかげ参りが大流行。
特に60年に一度大流行し、それが明和8年(1771年)、宝永2年(1705年)、文政13年(1830年)に当たるらしく、おかげ燈籠もこれらの年のものが多いんだって。明和8年で200万人以上がおかげ参りをしたんだそうだ。
それから吉野神社(今は宇波神社に合祀)跡地の碑や、日正寺を過ぎ、広めの道に突き当たった。ここに大きな道標がたっていて、「左 西京 八幡 すみの堂」「左 大阪 八尾 平野」等々彫られていた。
ここを右折して、また道なりに南下していった。この道は、元々川が流れていたのを暗渠とし、全部を道として使っているから広くなっていると思われた。ガードレールが車幅の半分位のところにあるし。車が通るには強度が弱いから、まだ大部分が歩道のまんまなのかな。こうやって川はなくなり、道となっていくんだなあっていう過程を見た感じがした。地名は川田だった。
左手に北宮小学校が現れた。小学校は、山は見えるし、校舎も可愛くて、長閑な感じ。
そして右手には小さな神社があった。どこかに合祀されたんだけれど、ちょっとだけ土地を残して祠をたてたって感じのところだった。盾津宇治縣神社だって。ミニチュアみたいな神社だった。本殿がガラスの向こうに見えるのだけれど、それもミニチュアを飾るガラスケースみたいに思えた。
説明は何もなかったけど、「宇治」って京都の地名じゃない?と思って調べてみたら、各地にある地名らしい。
古くは菟道などとも書き、ウジなる有力豪族がいたのではないかと思われるんだって。仁徳天皇に即位させるために自殺したとも言われる異母弟、菟道稚郎子も関わりのある豪族じゃなかったかと思われるそうだ。
山背の宇治なんて遠く思えるけれど、宇治川は途中で淀川と名前を変えて、大阪湾に注いでいる。
かつてはこのあたりにあった草香江に注いでいたのかもしれない。うじかたは「菟道潟」だったのかもしれないし、菟道縣だったのかもしれない。それともこの前に行った宇波神社が元々は宇婆神社だったそうだから、宇治は元々は「宇爺」だったのだったりして。
神社は多いし、この街道に沿って集落が存在していたのだろうな。周囲は全部田畑で、比較的地盤のしっかりしていたところに家が建てられ、神社がたてられ、自然、街道もここを通り、ってことがあったのかな。
すぐに府道168号石切大阪線に出て、長者橋交差点を渡った。近くに長者橋があったみたい。
この西には鴻池新田が広がっていて、長者っていうのは鴻池さんのことなんだって。大阪天満からの乗合船がここまで定期便できていたそうだ。水都大阪って、こんなに広い範囲にひろがっていたんだな。
長者橋交差点のすぐ東には栗原神社があり、すぐ西には古箕輪八幡神社があった。
古箕輪八幡神社は、古そうな道にも面していて、農村にあったさまを想像できるような神社だった。箕輪村だったところだそうだ。新開地の南東の漁村だったんだって。加納と同じく箕輪も各地にある地名で、中世、豪族の屋敷を中心としてできた農村をいうらしい。
栗原神社は式内社。くりはらは元は「久里波良」。ここは旧新開地の南東の岸だったところで、そこに祀られた栗原連の氏神だそうだ。祭神は栗原連の祖、中臣雷大臣命だって。アメノコヤネの子孫で、神功皇后の時代の「大夫」の一人(他には物部、大伴、大三輪さん)。
後に「中臣雷大臣が神功皇后の時代、百済に仕事で行ったときに現地の女性を妊娠させた、その子孫がわたしたちです」と自ら名乗った人たちが栗原連になったそうだ。
中臣雷大臣は、雷大臣とも呼ぶけれど、別名、伊香津臣。伊香津って、もしかしたら伊香色雄(肩野物部の祖)関係の津のことだったのかもしれないな、と思った。もしそうならば、中臣さんと物部さんは関係が深そう。
いろんなことが分からなくなっていて、式内社栗原神社がどこにあったかも、実はよく分かっていないらしい。けれど、ここだってことにして、ここにあった神社(栗玉神社)の名を栗原神社と変えたんだって。
河内街道は長者橋交差点から南下していくのだけれど、また歩道のほぼない狭い車道だった。そこを歩くよりはと思って、左手に西昇遊歩道があったので、そこを南下してみた。藤五郎橋があったから、この遊歩道も川だったところなのかな。
「五箇井路」なんてものがあった。遊歩道や古い建物と相まって、面白いところだった。
この付近では、「五箇井路」と「六郷井路」が普通に案内されていた。わたしには水路関係のなにかだってこと以外、なにも分からなかったのだけれど。「イロって何だろ?」と思ったくらい。
井路って、人工の水路のことだそうだ。大和川付替の前、大和川やその支流、池もあって、このあたりは水害にあいやすいこと甚だしく、その対策として、井路をいっぱい通して、そこに水が逃げるようにしていたんだって。
川と変わりなく、どじょうなんかがとれ、蛍も飛び、っていうところだったらしい。大和川付替後も、農業用排水路として活用。船便にも使用されていたんだって。「堀川」と同じようなものかな?
六郷井路は古箕輪から徳庵(西側2キロ強で徳庵)までの排水路で、1661年(徳川家綱の頃)につくられたんだって。
五箇井路もその近くにつくられたもので、5つの村の共有。井路には水利権とかも関わっていたそうだ。徳庵には徳庵井路(今は寝屋川にとりこまれているそう)があって、そこにつながっていたのだって。
遊歩道が左右に分かれ、左に進むと西光寺だった。少し進んでいくとお寺の前に「吉原石造地蔵」が案内されていた。室町時代初期のものと思われる地蔵らしい。
前に見た古い中小阪地蔵がちょっとすごかったので、期待しながらのぞいて見てみた。背が高くて団子っ鼻の、ちょっと調子外れのお地蔵さんがいた。
このまま進むと諏訪神社や角田神社が案内されていて、そちらを古くの河内街道として案内しているのを道中に見ていた。近鉄の高架付近で現・河内街道と1つになる。そちらに進むかちょっと迷ったけれど、結局、元の狭い車道に戻って南下(西寄り)していった。府道21号八尾枚方線と交差したら、右手の道(今まで歩いてきた道の一本北側の道)に入っていく。古そうなんだけれど、新しく家々が建ち並んでもいた。
右手に八幡神社が現れた。なんだか周辺の建物に怪しさを感じるところだった。神社には「シンナー遊びをしている子をみかけたら連絡してください」という注意書きなんかもあった。
道なりに進んでいくと、なんなんだ!というくらいの古さの建物もあった。そのまま進むと元の道に合流して、しばらく行くと、また右手に鳥居。元八幡六郷神社だって。
かつて六つの村の神社が、ここの八幡神社に合祀されていたのだって。それで六郷神社。今では他の村からきた5つの神社は帰っていったそうだ。この前に歩いた2つの八幡神社(直前の八幡神社と古箕輪八幡神社)もその1つなんだって。
弥栄小学校が現れて、小学校前の信号で左折してみた。なんだか古い道のような感じがして。
「西善寺旧跡の碑」や「日吉神社」や「中野西同行会所跡の碑」が現れた。日吉神社も六郷神社に合祀されていた神社で、新しく見えたから、最近になって帰ってきたのかな? 祭神は大山咋命だって。
すごく大きい旧家とかもあった。この一帯はなんなんだ?と思った。古くて大きな家々。前の北野田と同じに木綿問屋だったとか? なんだかただものではない感じがあった。
道は突き当たり、元の道へ戻って、南下していった。
近鉄けいはんな線の高架下をくぐった。「横枕」交差点という不思議な地名のところで、地下鉄中央線から続く近鉄けいはんな線の荒本駅の近くだったみたい。「けいはんな」って何かと思ったら、京阪奈。京都、大阪、奈良のことで、生駒を通り、京阪奈丘陵に達する路線だって。
下を通るのは国道308号線。地下鉄中央線が近鉄けいはんな線に変わるように、中央線の下を走る中央大通りも国道308号線に変わるようだった。
国道308号線って暗越奈良街道かと思っていた。けれどそういえば暗越奈良街道で歩いたのは、もう少し南の千日前線から続く道だった。新石切駅あたりで308号線が南の暗越奈良街道にワープしていくみたい。
近鉄を過ぎると、いきなり工場地帯だった。螺子、歯車、金属、工業、製作所なんて文字が踊っていた。山も近くに見えて、素敵なところだっただろうのになあ。あまりにも田舎で、工場がいっぱいやってきたのかな。名前が気になって行くつもりでいたのに「横枕春日神社」(一時、ここも六郷神社に合祀)を通り過ぎ、菱江に入っていた。
大和川付替えの前には、石川と合流した大和川が北上。二股で玉串川と長瀬川(久宝寺川)に分かれ、玉串川は更に菱江川と吉田川に分かれて、吉田川は深野池に、長瀬川と菱江川は新開池に流れ込んでいたのだって。このあたりはその菱江川が流れていたあたり。
15号線(菱屋東交差点)を過ぎると、岩田北本通り商店街だった。あまりお店は残っていないけれど。暗越奈良街道の碑があって、左手に八剱神社が現れた。ここはよく覚えていた。暗越奈良街道を歩いていて、ここで河内街道の存在を初めて知ったのだ。
八剣神社の祭神は八剱大神、つまりはアヂスキタカヒコネだって。前に来た時には全くなにも分からなかったけれど、今はアヂスキタカヒコネさんはお馴染みの人だ。
菱屋新田ができて、放出の八剱大神をアチハヤオ神社から迎えたんだって。狛犬の代わりにキツネがいるのは、元は島に祀られた稲荷神だったから。そこに八剱大神を迎えたのかな。
このあたりからずっと、いろんな時代の建物がミックスして存在していて、面白いところだった。大きなツシ2階の旧家、古い町工場、昭和初期のものに見えるオンボロアパート、その後のミニ開発によるらしい日本邸宅風ミニ3階建ての並び、そして平成の新しいおうち。
すごく大きな旧家などが並び、その向こうには生駒の山々が見えていて、その間に大きなマンションらしき建物が建築中だったりした。お店がだんだん多くなり、商店街らしくなってきた。そこに「石田家の猿棟」があった。
江戸時代(享保)の申年に住吉大社にお参りして、井路のことで近くの村ともめていたのが解決したことなどの記念に、焼き物の猿を屋根に飾ったものらしい。
通り過ぎてから屋根の上を見ると、その藁葺きの屋根の上に小さな2匹の猿がいた。ここだけじゃなく、周りにもすごい古さと思われる建物が残っていた。前にこのあたりで藁ぶきの家を見たことがあったけれど、石田家だったのかな。
もう少し行くと近鉄(奈良線)若江岩田駅で、駅チカの賑わいと古さが共存していた。ちょっと立ち寄ってみたお店もリーズナブルで、住みやすそうなところだった。スーパーにも、おばあさんたちが元気に自転車などでやってきていた。
交差する道々の向こうにも、ずっとこんな道が続いている感じだった。
いろんな時代を残したままの、パワフルな庶民の町だった。地元の住吉大社界隈も似た感じのような気もした。ただ、ここまでの富豪風の旧家は残っていなくて、もっと庶民的だけれど。
まだ先を進んでいけそうな時間だった。
けれど河内街道の終点近くのJR八尾駅まで歩くのは、とても無理そうだった。ちょっとだけ残してもしょうがないから、河内街道歩きはここまでとした。
若江岩田駅そばにある石田神社に行ってみた。ここも式内社だって。「石田」と書いて「いわた」と読んでいたのかな? それでここが岩田になったのかな? と思ったら、どうやら石田神社が式内社にあり、ここの地名が岩田であったので、この地にあった神社を石田神社ではないかい?ってことで「石田神社」と改名したらしい。
元々の祭神は不明。一説によると石田君の始祖、五十日足彦命を祀っているとか。五十日って、イカガシコオ関係の人じゃないの?とか思った。でもなにもかも分からなくなってしまっていて、推量の域を出ないんだな。




