河内街道を寝屋川から
河内街道の続きを歩くべく寝屋川市駅(京阪電車)へと向かった。
前回は、行ってみたいところなどあって、後半は河内街道とは違う道を歩いたりしたので、寝屋川(川)あたりから歩きなおすことにした。なので、寝屋川市駅から北東に外環の警察署前交差点に向かった。
駅を出て、アドバンスロード商店街を通って東に向かっていると、途中、左手すぐに鳥居が見えたので、行ってみた。
八坂神社だった。楠が立派だった。醍醐天皇の時の創建と伝わり、楠は樹齢千年とも言われ、千年楠と呼ばれているそうだ。狭い境内の中にカラフルなすべり台とブランコがあって、なんだか商店街にあるにふさわしいような、生活密着型の小さな神社だった。
寝屋川市役所の前を過ぎ、外環(秦北口交差点)で左折。寝屋川そばの警察署前交差点まで北上。
ここを寝屋川が西に流れていた。河内街道はここまで外環を南下してきた後、外環から東に分岐する道を南下するみたい。
すぐに道が2つに分かれ、左手は旧国道170号線。まっすぐ南下していける道みたい。そちらを進むのもありのようだったけれど、旧道に近い道を歩くには、右手の道に進み、道がなくなっていたりもするのでジグザグ歩くということになるようだった。
地名は秦町で、マンホールはバラの模様だった。寝屋川市の花がバラなんだって。
掲示板に「お墓そうじ当番」のお知らせなんかが貼られていた。この日、他のところでも見たから、このあたりでは普通のことなのだろうな。
そして前回歩いた市民会館前交差点にたどり着いた。前回は、もっと東の方の道を、熱田神社や太秦寺なんかを通りながら歩いて、ここまでやって来たんだった。そのときは丘の上って感じに思ったけれど、道が違えば全く違って、この日歩いたあたりはほぼ平坦地で、農村だったところって感じがした。
高宮新町で、左側に五藤池が現れた。なんだかのんびりとした、空の広いところだった。池を過ぎたら、池に沿って左折。池沿いには桜が並んで植えられていて、その向こうは下り坂になっていた。
ここは丘陵部の南西のはじっことかではないかな。そしてここから南西の田畑に水を流していたんじゃあないかな。前方(東)は更なる丘陵部で、こんもりと緑が見えていたのは、熱田神社のあたりかな?
なんでも、元々は5町(丁)あったので5町池、それがなまってゴトウイケ(ゴトガイケ)となったんだって。5町=50反=500畝=30歩(坪)×500らしくて、15000坪ってわけね。
河内街道も通る交通の要所ではあったけれど、のどかな里山だったそうだ。その頃とはまるで変わっているだろうけれど、都会っ子のわたしには十分に里山に思えた。
池を過ぎたら、水路と一緒に右折していった。坂を下って、平地に降りる。田畑が今もけっこう残っていて、けれど昭和の頃に建ったと思われる家もいっぱい並んでいた。いっぱいの家があるのに、静かだった。
後で知ったことには、このあたりから西にかけて高宮八丁遺跡が見つかっているところらしかった。弥生時代初期から中期にかけての集落遺跡で、いろいろなものが出土しているのだって。「四條畷の雁屋遺跡と並ぶ北河内最古の弥生集落」なんだって。見つかっている勾玉などは、縄文色が濃いものだったそうだ。
他に木製の農耕具、石の斧(柄は木製)、舟の櫂なども出土。櫂は1.7メートルくらいあって、両端に水かきがあるそうだ。この南に河内湾があったと思われるのだって。
古代、生駒山地の近くまでひろがっていたという河内湾の湾岸部に人々が住み暮らしていたんだな。雁屋ってところもそうなのかな。
木製のものは集落で作られたものらしく、石器には二上山や丹波山、耳成山、金山(香川県)の石が使用されていて、玉も集落で作っていたようだけれど、使用しているヒスイはおそらく新潟産のものではないか、ってことだった。
すごいなあ。弥生時代だってやっぱり人間は人間だった。その時代の中で、出来うることはやってしまう。
二上山で採れるサヌカイトで石器を大量生産していたのが喜志、中野だったそうだし、すでに人々はどこで採れる何が何するのにいい、なんて情報を共有し、採掘集団、生産集団、流通集団なんかも存在していたんじゃないかな。
けれど弥生時代中期、この集落は急に終わりを迎えたそうだ。
弥生時代後半に入ると、戦国の世になったか、瀬戸内海や河内の人々は高地に住むようになっている。世の中が不穏になってきたぞ、そんな情報も共有していたんだろうな。
高宮八丁の人々も、河内湾に近い、海からの敵の襲来に弱いところを捨てて、もっと高いところに移っていったんだろうか。たとえば、熱田神社近くに見つかっている高地性集落あたりに。
道なりに南下していけばいいようだったけれど、東に古い集落が現れて、途中で細い道からそぞろ歩きしてみた。相当に古くて、昔話に出てきそうなくらいの集落だった。
道は上り坂になっていて、そのかなりの勾配の斜面に道が続き、古い家々が建っていた。こういうところって度々ある。カリンドオバタで、恩智で、上神谷で、あらゆるところで、こんな勾配にある集落を見た。急な勾配のところに、狭い迷路みたいな路地道と、積まれた石垣、古い家とで集落ができあがっている。それだけ勾配の下は水害に遭いやすかったりで、家を建てられるところではなかった、ということだろうか? それで低地には田んぼが広がり、勾配には家々が建ち並んでいたのかな。
170号線で高速(第二京阪道路)をくぐっていくようで、東方面に道を上っていった。
170号線は勾配の途中の狭い道だったけれど、時々車やバイクも通った。法城寺なるお寺があり、裏山が気になって少し道を上っていってみたのだけれど、かつては裏山だったかもしれないけれど、今では新しい家々が建ち並ぶ道が続いているだけだった。一番の高台まで、最近になって重機でならして、新興住宅地になったんだろうな。
秋玄寺(十三仏板碑が有名みたい。この裏山は大山と呼ばれていたそうだ)が階段の上にあり、高宮公民館や高宮神社も現れた。
公民館あたりからは鉢かつぎ姫がかなりの頻度で現れた。高宮神社は式内社で、奈良時代には既にあったと思われ、讃良郡唯一の大社だったそうだ。式内社は平安時代に編纂された神社目録だけれど、大社と小社に分類されているのだって。
祭神は天剛風命だって。天剛風命は高宮神社の社家の祖。詳細は一切不明みたいで、社家についても、天剛風命についても何も分かっていないみたい(いろんな説はある)。
古代、郡には郡家(郡衙)なる郡の役所があったそうだ。役所の他、寺や正倉(倉庫)も併設されていたのだって。
近くの高宮遺跡では倉庫の跡も見つかっていて、ここには讃良郡の郡家が置かれていたみたい。郡家の長官である郡司は、その地方の豪族が代々世襲するケースが多かったんだって。その豪族っていうのが、高宮神社を祀った人たちだったのかな?
鉢かつぎ姫が「権現堂池」や「大杜御祖神社」を案内していて、そちらにも行ってみた。
東への上り坂に方角だった。まず池があって、フェンスで囲われていて、隣には広場もあるから明るくなっているけれど、木々と池だけだったのを想像すると、ちょっと怖いくらいの、雰囲気のあるところだったんじゃないかと思われた。権現堂なるお堂が近くにあって、権現堂池となったのかな?
そこからはまっすぐな道を歩いていくと、大杜御祖神社だった。他に人っこ一人いない、高台の一本道で、雰囲気があった。
かつて大社であったらしい高宮神社よりも、今ではここの大杜御祖神社のほうが広かった。
大杜御祖神社もまた式内社(小)で、高宮神社の祭神、天剛風命の父が祀られているんだって。その名は天萬魂命。これも初耳。
神社は高宮廃寺跡でもあるそうだ。7世紀後半(白凰時代)に造られた薬師寺式寺院があったんだって。それが、郡家に併設された寺だったのかな。出てきた瓦を調べると、7世紀、8世紀、それから13~14世紀のもので、飛鳥時代から奈良時代にかけて造られ、その後、中世に再建されたと思われるのだそうだ。
大杜御祖神社もその頃(か、それ以前)につくられたと思われ、その後、西塔があったと思われるここに引っ越してきたんだって。
ここでは、縄文土器や、柵に囲まれた巨大建物の跡なども見つかっているそうだ。ここに縄文人たちが住み暮らしていて、すぐ近くの低地に弥生人たちが暮らし始めたのかな。そして合流して、共に生きたんだろうか?
それが高宮八丁あたりだったのかもしれない。そこで水稲栽培を行っていたのかも。高地性集落に引っ越していくまで。
その後、緊張の時代は終わって、古墳時代になった。この近辺の古墳には、太秦古墳群(残っているのは5世紀後半の太秦高塚古墳だけ)、打上古墳群(ほぼ残っていない)があったんだって。
そしてその後の飛鳥時代には、太秦廃寺や高宮廃寺がつくられた。
この高宮廃寺跡は、明るくて、古く古くからの記憶を残している感じもして、不思議な感じのところだった。けれどその裏は、新興住宅地。
170号線に戻って、南下していった。
このあたりは、讃良郡だったところ。東高野街道で歩いた四条畷で知ったことには、持統天皇(うののさらら)になんらかの関係があると思われている。持統天皇の頃には「さらら」と呼ばれていたけれど、そのうち「ささら」となったんだって。
当時、馬飼いの渡来系豪族にウノさんがいて、その豪族にサララで養育されたとかで、うののさらら。讃良には古墳時代、渡来系の河内馬飼の集落があったというから、ウノさんはその末裔かな。
このあたりには条里制の遺構も残っているそうだった。
土地を、一条、二条、三条・・・と北から南へ(西から東へは一里、二里・・・)分けていて、四條畷の「四條」も、四条であったところからきているらしい。条や里は、さらに細かく36等分されて、それが「坪」(約109m四方)。そして管理しやすいように、道路や水路は坪単位に設けられ、故に碁盤の目状になっていたんだって。
水田などにはその「碁盤の目」が今も残っていて、それが「遺構」ってやつみたい。
高宮の古い集落のすぐそばを高速が走っていた。
上を高速が走っていて、その下を通るっていう昭和の高速道路の感じじゃあなかった。随分高くを走っていて、見た目もスマートで、その様は近代都市の絵に出てきそうな感じ。
そして小路北交差点で高速下を過ぎると、そこでは大規模な工事が行われていた。たぶん、一帯全部が田んぼだったところなんだろう。それが、ぜ~んぶ、掘り起こされ、地を固められ、なにか大きく変わろうとしていた。一部には既に大きなビルが建っていて(これも近代的)、「入所企業募集」の大きな文字がおどっていた。ずっとど田舎だったのに、いきなり近代化を遂げようとしている、そんな姿だった。
企業が入ったら、人も増えて、お店も増えて、一帯が変わっていくのかな。
少し前まではあったらしき田んぼの中の旧道は消えてなくなっていて、170号線を南下し、讃良川を渡った。ここから四條畷市。
川を渡ったらすぐに右折して、川べりの道を少し進むと、左に下るあぜ道みたいな細い道が現れて、そこを下っていった。この道も、そのうちには消えるんだろうか。
たんぼの間を歩き、交野支援学校の東側を南下していった。それから住宅地に入り、すぐつきあたりで左を見れば光円寺。光円寺の前の道を南下していけば、今度は妙法寺。
このあたりの空家に猫が暮らしているみたいで、近くでは恋を語る猫たちもいた。なんだか猫が似合う町だった。ここは砂ってところなんだって。
砂や、これから向かう三箇、若江あたりはキリシタンの村として有名だったそうだ。なんの予備知識もなくやってきたけれど、ご存知の通りって感じに、妙法寺の前には「砂のキリシタン」についての説明が書かれていた。
砂、岡山に3500人の信徒がいて、教会や十字架がたてられ、盛況だってことが当時の「耶蘇会通信文」に書かれているのだって。このあたりがその中心地だったのではないかとされているそうだ。妙法寺も、創建前にはキリシタン寺院があったんだとか。キリスト教が禁止され、打ち壊されるなどして妙法寺になったのかな。
隠れキリシタンの処刑場もこのあたりにあったそうだ。
日本に伝道にやってきたルイス・フロイス(ポルトガル)は織田信長や豊臣秀吉とも会見し、そんなあれこれを文書に残していて有名らしい。
そのルイス・フロイスが堺にいるとき、同僚に宛てた手紙には、領主(城主)結城ジョアン(岡山城)、三箇マンショ(三箇城)、田原レイマン(田原城)らの名があるらしい。織田信長に会見するとき、一緒に行ったんだって。
その頃、河内飯盛城に三好長慶がいて、河内の多くの城主がその下についていたんだそうだ。その三好さんがキリスト教に好意的で、飯盛城での修道士の説教を許していたんだって。それを三好傘下の城主が聞いたり、聞いた城主に誘われたりで、信者が増えていったみたい。
城主が信徒になると、領民の間にも信仰が広がっていった。異国の伝道師たちは、堺から京に向かう途中の東高野街道でも説教をしていたと思われるんだって。砂の東が岡山で、その東が忍ヶ丘駅。前に東高野街道を歩き始めたところだった。
結城一族は、有力武将の中で最初に洗礼を受け、近畿最大の岡山教会堂も建立。かぶとには「JESUS」と金色で入れていたんだって。
手紙にあるジョアンは若き岡山城城主で、後に小牧長久手の戦いで29歳で亡くなったそうだ。
三箇サンチョは河内飯盛山で説教を聞き、経験な信者となった人。そして領内の寺社を破壊して、キリスト教を保護。住道駅あたりに教会もあったそうだ。
息子の三箇マンショもキリシタンとして三箇城で過ごしていた。そして本能寺の変勃発。マンショは三成側についたそう。三成は秀吉に敗れ、マンショも攻められ、筒井順慶のもとに逃げたのだって。領内の教会は焼き払われ、領民は四散したそうだ。
田原にも教会が作られ、領主の田原レイマンもまた経験なキリスト教信者だったそうだ。千光寺(田原さんの菩提寺)にはキリシタン墓碑を建てたんだとか。けれど、よくは分からない伝説のような話だったんだって。
けれど平成14年、千光寺跡で、十字架の入った田原レイマンのキリシタン墓碑が実際に見つかったんだそうだ。キリシタン弾圧のためにか、土塀の下に埋められていたんだって。日本最古のキリシタン墓碑だそうだ。壊すのではなく、埋めたんだな。
田原って、四條畷神社をもっと奈良側にいったところだそう。伝えられていることって、やっぱり案外本当なんだなあと思った。
砂、岡山と三箇を合わせると、6000人近くの信徒がいたそうだ。三好さんの勢力圏でいうと、最盛期で4万人以上いたのではないかという話もあるみたい。
妙法寺の東側を南下していった。右手に岡部小学校。
このあたりからはもう旧道の跡もないようで、すぐ東側の170号線で南下していくことになる。
中野、江瀬美町なんかを過ぎていった。
中野では、清滝川かなにかの川を渡った。川の手前で、右手に緑や石造物が見えて行ってみると、清滝街道の説明板があった。河内街道と清滝街道との辻らしい。
前に東高野街道を歩いていて「清滝街道との辻」があったけれど、あれはここを少し東に行ったところで、同じ中野。
西中野交差点を過ぎると道は狭くなり、ほとんどないような歩道の横を車が多く通っていく、という四條畷な感じになった。170号線は東に向かい、府道160号四条畷停車場線に変わっていた。
四條畷高校の手前で現れたのが江蝉川で、その奥が低地になり、なんだか素敵な低湿地のような雰囲気に見えた。でも、スルーしてしまった。
後で知ったことにはこのあたりが雁屋遺跡のようだった。高宮八丁遺跡と同じくらい古い弥生時代の集落跡っていうところ。弥生時代を通してずっとあった集落の跡。
ここの人たちは狩りもしていたらしく、猪や鹿の骨が見つかっているそうだ。そして占いに使った跡がある骨も見つかっているのだって。土器は各地で生産されたのだろうもの。出雲、丹後、播磨、近江のものが見つかっているそうだ。
エセミ、エセビって地名の由来を調べてみたんだけれど、ちょっと分からなかった。古い名前なのだろうって感じがするけれど。
地名が楠公になり、楠木正行公墓所の手前の信号で、右手には緑、左手には栄通り商店街が現れた。
この緑がもしかしたら三好陣屋跡だったのかな? あの緑はなんだろう?と気になりつつ、少し坂道になっている素敵な商店街に向かっていった。
その前に楠木正行公墓所があった。
楠が立派で、町中に切り取られた土の上に、勢いよく繁っていた。ここで亡くなり、墓が建てられたとされている。石碑の文字は大久保利通の揮毫によるものらしかった。
栄通り商店街は、ちょっと小規模な石切商店街みたいだった。ゆるい上り坂になっていて、その坂にお店が並んでいる。ここは参道商店街で、奥には神社がある感じだな、と進んでいったら踏切で、そこまでとしたんだけれど、その先には四條畷神社があったみたい。
四條畷神社は祭神が楠木正行。明治時代、楠木正成らの人気が高まり、神格化すると、息子の正行の墓とされるものがあった四條畷でも機運が高まり、墓所が作られ、神社も造られたんだって。
地元の阿部野神社(北畠親子を祀る)と同じ建武中興十五社の1つ。
父、楠木正成亡き後、後を継いで南朝にたって戦うも、四條畷の戦い(VS.高師直)で戦死。戦いの前には吉野で如意輪寺の門に辞世の句を彫っているのだって。
かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる
栄通り商店街の入口まで戻って、続きを歩いた。
右手にダイエーが現れて、ここから大東市のようだった。大東市のマンホールには舟やら描かれていて、何かと思ったら「野崎まいり」の絵なんだって。河内名所図会の中にある絵なんだそうだ。
ダイエーを過ぎたら右折して、左折する3つ目の道をずっと道なりに府道162号大東四条畷線まで南下して、右折すればいいみたいだった。そうしたら深北緑地の南側に出る。
けれどわたしたちは途中現れた「⇒深北緑地」の道標に従って、深北緑地に向かってみた。公園の中を南下しようと思って。
正行寺なんて新しい寺があり、五間堀川から深北緑地のテニスコートあたりにたどり着いた。
広い公園で、端が見えなかった。なのに人はあまりいない。高台があり、その小山を越えていくと池があった。おじさんたちが釣りをしていた。ルアー釣は禁止と書かれていたから、釣り自体は禁止じゃないんだな。近くを歩くと、土がぬかるんでいた。
ここは深野池の名残りなんだそうだ。大昔、河内湾だったところで、その後、川からの土砂の堆積で河内湖になり、更に小さくなって、2つに分かれて深野池と新開池になったっていう、その深野池。池の北半分が深野池(釣り禁止)で、南半分は貯水池(ルアー釣り禁止)なんだって。
湿地帯というにふさわしく、枯れたアシ、シサラギ、他にも鳥たちがいて、冬に似合う光景だった。その向こうには木々が育ち、鳥が鳴いていた。
トゥルルルルー ピュリリリリー
坂を登っていった。すごいところだ。最近見ないくらいに空が広い。何も邪魔するものがない。都会(?)で見られる広大なもののBEST何位かに入っているんじゃないかな。
山、広い空、木々、鳥。そして冬の湿原。
坂を上った先は寝屋川で、大きな水門がそびえていた。
寝屋川に沿って南下していった。途中、川が合流してきているのは、権現川だった。権現川ハイキングコースを歩いたことがある。そこから、続いているんだろうな。
寝屋川を深北橋で渡った。緑が見えていて、三箇菅原神社だった。ここは、楠が立派だった!
そして三箇城跡の碑があった。三好さんの河内飯盛城の支城で、三箇サンチョやマンチョのいたお城。
三箇城は深野池に浮かぶ島にあり、住吉駅近くだけではなく、このあたりにも教会が建てられていたそうだ。
近くに水月院跡なるところがあり、そこの墓石らしき石の形が変わっていた。ずんぐりした野球のバッドを立てているみたいな形なの。何だろう?と思ったのだけれど、後で知った。これは無縫塔(卵塔)という種類の仏塔。
三箇菅原神社を出ると、川と反対の方向(西)に進み、つきあたりを左折して、ずっと道なりに南下していった。
地名は三箇で、たまに古い家も現れた。奥には田んぼも見えるけれど、道沿いには家々が建ち並んでいた。新しい3階建ての家も建っていた。
「尼の川」と彫られた文字をこのあたりで見たんだけど、何だったんだろう。
寝屋川に架かる橋を渡ると、坂を下ったところに「両皇大神社」があった。いったんどこかに合祀か移転かされていたのが戻ってきたのかな?という、小さな神社だった。
流れ込んでいた大和川を付け替えたことで、深野池は300haの新田となったんだって。その深野新田会所が北側にあったそうだ。
また川沿いを南下していった。ここも歩道もほぼない細い道だった。大東市役所を過ぎ、信号を越えると、一本左側の道で南下していった。右手に本伝寺。左側には、一般のおうちだったとはとても思われない、大きな屋敷があった。
地名は三住町で、河内街道の碑が現れた。河内街道の説明も書かれた橋(竹橋)を渡った。もう歩き疲れてきていて、説明は入ってこなかった。
すぐ右手がJRの住道駅だった。
まだまだ先はあるけれど、ここで帰ることにした。
駅前には公園と墓地があった。駅のまん前にある墓地なんて初めて見た。




