鬼門と寝屋川
友呂岐神社から成田山に向かっていった。
香里ヌヴェール学院があり、ガードマンさんが立っていて、地元で言う帝塚山学院みたいなところかな。道なりに進むと小さな公園があって、成田山(大阪別院)の境内もすぐ横で、入口はそのまま進んでいったところにあった。
成田山は真言宗のお寺だそうだ。空海が自ら開眼したという不動明王を本像とする本山は千葉県成田市にあって、平安時代に始まるらしい。交通安全の神様として有名なんだって。あと、鬼門よけとして。
広い境内にはけっこう人もいて、にぎわっていた。
京阪電鉄がつくった香里遊園地だったけれど、いまいち振るわなかったそうだ。なんでもこのあたりは大阪の鬼門で、嫌われたところだったらしい。鬼門って、その名のとおり鬼の門で、ここから鬼は出入りをすると思われていたんだって。鬼の跋扈するところ、ってイメージだったのかな。
そこで京阪電鉄は成田山にここに来てもらい、鬼門よけもすんでるよ~とアピールしたんだとか。昭和初期のこと。その上で香里遊園地をひらかたパークに移転して、跡地に高級住宅地を造成。少しずつ人が集まってくるようになったんだって。
小さな公園まで戻って、右(東)に四方黒池、左(西)に本巖寺が案内されていた。
四方黒池も遠くはなさそうで、河内街道から離れるけれど行ってみることにした。
途中で成田名物をうたったまんじゅうが売られていていただいたのだけれど、う~ん、二度目はないな。
四方黒池は、小さな「治水公園」の中にあった。
ここは山からの清水が流れくるところにあって、蛍の乱舞するような里山だったらしい。そして四方黒池は、かつては三井の農地を潤した、少し高台にある池だった。そんな農村に昭和9年に成田山がやって来てから、人が移ってくるようになり、やがて田んぼも消えていくと、池は大雨が降るたびに水があふれる厄介者になってしまった。
人口増加で三井は美井と成田に分かれ、その境は四方黒池を通っていたのかな。美井地区では池を埋めてしまったのだって。成田地区では、治水公園とすることで池を残したみたい。
枚岡あたりでも、高台にある、農地を潤した池だったらしき窪地に水はなく、フェンスで覆われていた。大雨が降ると大変そうだなあと思った。そのうち窪みに盛土をして、家を建てるんじゃないかなという感じがした。そうやって多くの池が消えていったのだろうな。
池を去り、本巖寺方面に向かった。
本巖寺は、元は本法寺なる真言宗のお寺だったそうだ。菅原道真が左遷されて大宰府に向かった時には、途中、ここで宿泊したんだそうだ。
娘が追ってきて、すでに遅くて「さだ」して泣いたっていう蹉跎神社がある光善寺からかなり近くて、なんとか会えなかったのか?と思った。
後醍醐天皇が宿泊したこともあるのだって。
そして鎌倉時代のこと、とあるお坊さんが京都に本応寺(日蓮宗)を建てたんだそうだ。けれど、壊されてしまった。蓮如の本願寺も壊されたそうだし、仏門も荒れていたんだなあ。法華経の解釈を巡っての対立から寺は壊され、追っ手(刺客?)まで送られたみたい。
逃れたお坊さんは、ここ、三井にやってきたのだって。そして本法寺の住職がこの人に心酔し、寺も譲って、寺は本巖寺となったんだって。お坊さんの追っ手も、お坊さんの人徳に触れてか、お坊さんに従うようになり、他にも多くの人々がお坊さんを慕ってやって来て、三井は日蓮宗の村となったらしい。
後にお坊さんは京都に戻り、本応寺を再興。寺の名前を本能寺と変えたそうだ。
あの本能寺。
寺を過ぎると、左折した。
寺の南の道に入っていくと階段と、その上には鳥居があった。封鎖されていて、何なのかは分からなかった。
小さめだけれど、池あり、岩あり、ベンチあり、川ありのなかなか素敵な成田公園にたどり着いた。その川沿いを西に進んでいった。この川は成田山の西側から流れてきて寝屋川に注ぐ川みたい。
田井バス停あたりまで行ったところで、自由なトイプードルに会った。歩道に自由にノーリードでいるの。一緒に歩いている人間も、監視している人間もいなくて、完全に自由で、わたしを至近距離から見にやってきた。人間の小学生の上品なボーイくらいのジェントルぶりで、洋服も上品に着こなしていた。
小学生の男の子が歩道を自由に歩いていても不思議じゃないように、この大きめの体のトイプーくんが自由に歩いていても、全然おかしくなかった。近くにペットサロンがあったから、まさか抜け出したのじゃあないだろうし、歩道も圏内の看板犬なのかな??
次の目的地に行くには道を行き過ぎていたみたいで、橋のかかっているところまで引き返して、南下していった。
道が複雑で分かりにくいところだったけれど、ときどき現れる鉢かつぎ姫にも助けてもらいながら「国松の弘法井戸」へ。弘法と言いつつ実は弘法大師(空海)には関係ないみたいだったけれど、なんだかすごい古さの存在感だった。大事に保存されている感じだった。
このあたりには他にも2つの井戸があったらしかった。でも残っているのはここだけ。3つの井戸があったから、地名が三井だったのかな?
ここには立派な松があって地名が国松になったそうだ。
随分のどかで、しっとりした古さのところだった。ここだけ見たら、江戸時代とそう変わっていないように思えるくらいだった。行誓寺なるお寺から東への坂道を上っていった。このあたりも素敵な古さを残した一帯だった。
お寺には千種庄右衛門なる人の碑があった。ここは土が渇れやすくて、農民たちも困り果てていたんだそうだ。その窮状に庄屋だった千種さんは伏越樋をつくり、用水から水を引いたんだって。けれど下流の村と争いになり、自害したんだとか。
碑を右折して、南下していった。道は春日神社の裏手へと続いていて、春日神社は小さい神社だったけれど、シイの古い木々があって、それが有名なようだった。こんなに古いシイの木々は珍しいのだって。犬の散歩もNG(おしっこで木が枯れるから)。
堂池治水公園があり、ここの池には水はなかった。春日神社あたりは堤のような感じがしたし、元は水路や池のあるところだったのかな。
それから南下していくと、寝屋川に出る前に「伝・秦河勝の墓」があるはずだった。
けれどここも道がややこしくて、見つからなくて、相当ぐるぐるした。坂を上ったり、下りたり、階段を上ったり、降りたり。高低差の激しい、おもしろいところだったな。そしてやっとたどり着いたそこには鉢かつぎ姫がいて、家々に囲まれた狭い空き地に五輪塔や説明板が立っていた。
一帯で一番高くなっているあたりだった。高台を目指せば早くたどり着けたのかな。昭和の頃に建った感じの家々が、高台のところまでぎっしり建ち並んでいる中に、ひっそりとあった。存在を知らずに暮らしている人々、興味もない人々も多いのじゃないかと思われた。けれど地名は川勝町。
鉢かつぎ姫の説明によると、一帯は茨田郡八郷の1つ、秦(太秦)で、秦氏が住んでいたところだそうだ。
茨田郡八郷って、茨田、池田、高瀬、伊香、幡多などあって、そのうちの幡多が秦(太秦)ってことみたい。
古くは仁徳天皇によって茨田堤がつくられた時、土木に秀でた秦氏の手を借りたんだって。その頃から秦氏が住み暮らしていたのかな。天皇のものであった土地を、堤をつくる代償に与える、そういう時代だったのかな。
秦河勝はそんな秦氏の子孫で、聖徳太子の片腕となって活躍した人らしかった。
秦氏は東漢氏と同じくらいの有力者でありながら、あまり政治の表舞台には名を出さず、名の知れる人はこの秦河勝くらいなんだって。
河勝さんも政治の表舞台には立たない、馬を使っての大商人だったのではないかといわれているみたい。
そして太子の死後は、蘇我入鹿に迫害されたんだそうだ。兵庫県の赤穂に逃れ、そこで亡くなったんだって。
墓は赤穂の生島にあり、大避神社に祀られているとされているそうだ。(京都の川勝寺付近も「河勝終焉の地」とされ、子孫が多く住んでいたという話もあるんだって。)
だから、ここは子孫が河勝を偲んで五輪塔を建てた場所とかかな。元々のものは、文禄堤を造るのに持ち去られてしまったんだって。それでさらに子孫が建て直したんだそうだ。
元々は「秦山」と呼ばれていたところらしい。けれど昭和の頃にあっという間に町中になってしまった、という感じだった。
打上川を越えると、今度は加茂神社を目指した。
走谷の加茂神社が素敵なところだったから、この加茂神社にも期待していたのだけれど、ここには祠があるだけだった。古来、神社とはこういうものであった、という存在感を醸していた。なんだか暗い存在感のところだった。地名は秦町。隣の秦自治会公民館もえらく寂れていた。
走谷の加茂神社と同じくアヂスキタカヒコネが祭神のようだった。走谷と同じように、カモの人々が移り住んできたんだろうか?
次には、熱田神社へと向かった。もう河内街道とほとんど関係なくなってきていたけれど、近くにあるようだから、せっかくだから行ってみた。
田舎にできた新興住宅地って感じのところだった。丘のゆるい坂道に神社があって、そのさらに上に森のような小山があったらしかった。けれど開発されてしまっていた。
なんだか加茂神社と同じにこの神社も暗い感じがして、近づいてはいけないような匂いがしていたように思う。
なんだろう、大事にされて残されているというよりも、祟りがあるから残されている、みたいな、この感じ。鬼の跋扈する穴をこの神社で栓をしている、みたいな。気のせいだったのか何だったのか、そんな感じのする神社だった。
このあたり一帯は、秦廃寺跡と思われるところだそうだ。
弥生時代半ばには高地性集落が、その後の古墳時代(5,6C)には古墳群があったそうだ。そして飛鳥時代にはどなたかの氏寺が。
京都に秦氏の氏寺だという広隆寺があって、「広隆寺末寺別院記」なるものが伝わり、そこには「和泉秦寺」、「河内秦寺」などの名もあるそうだ。
和泉秦寺があったのは貝塚の半田ではないかと言われていて、河内秦寺があったのではとされているのがこのあたり。「秦」や「太秦」って名が残っているのを見ても。
そんなところに建っているのがなぜ熱田神社かというと、江戸時代の頃に尾張の人が住んでいて、その人の影響でなんだとか。尾張に日本武尊を祭神とする熱田神社があるそうだ。草薙の剣を祀っていたというところ。
それから本来の河内街道に戻るべく西に向かい、太秦寺(ここは、普通の大きな民家といってもいいようなところだった)を通って、市民会館前交差点へ。
西に向かっていると、ここが丘なのがよく分かった。下っていく、その更に低地に町が広がっている。寝屋川って、丘だったところにできた古くからの町だったんだなあ、と思った。
「市民会館前」交差点でクロスする道が河内街道。まだまだ南下していって、住道あたりまで行くつもりだった。
それが、なぜかもう時間がおしていた。そんなに距離は歩いていないはずなのに、道が迷路みたいで、いろいろ迷ってしまったからかな。枚方なんてもうそう遠いとも思わなくなっているけれど、よく考えれば往復に2時間くらいかかるから、正味歩ける時間が短いというのもあった。
そのまま西に向かえば寝屋川市駅だったので、寝屋川市駅から帰ることにした。
そして後日、続きを歩きに行った。




