錦織と廿山2
錦織神社に向かう前に新堂廃寺跡にも行ってみた。河内では早い時期(飛鳥時代前半)につくられたらしいお寺の1つ。
迷いながら行ったのだけれど、外環を北西方面に進んでいって、昭和町2丁目交差点を過ぎ、左に分岐する道、その道を進んでいったところにあった。
ただの原っぱになった空き地に、案内板がたてられていた。
少し北にはお亀石古墳(7世紀前半)があって、一部に瓦が使われていたそうだ。新堂廃寺の瓦(百済風)と古墳に使われていた瓦とは、その間にあるオガンジ池瓦窯跡で焼かれたものだと思われるのだって。
古墳時代からの変遷過渡期って感じがあるなあ。お亀石古墳は新堂廃寺を建てた一族の頭の墓だと思われるってことだった。つまり錦織氏(か桜井氏)なのかな。
その頃、百済ではオガンジなる寺が造られていて、このあたりにオガンジ池と名の残る池があるのは、新堂廃寺もかつてそう呼ばれていたからかもしれないって話だった。
仁徳天皇の頃、住吉大社の神領とされた錦織は石川錦織首許呂斯なる人に預けられていた。その人の子孫が錦織氏になったのかな?
そして錦織氏はどこに消えたんだろう?と思った。河内鋳物師が戦国の世(応仁の乱の頃)になると、戦火を逃れ、また各地で必要ともされて分散していったみたいに、各地に分散していったのかな??
また迷いつつ、今度は錦織神社を目指した。
昭和町2丁目交差点まで戻って、35号線を南下。線路を越えて常盤町交差点で170号線に交差するので、今度は線路沿いの170号線を河内長野方面へ。
そう書くと簡単だけど、初めての土地で土地勘はないし、道はいっぱいで、しかも同じような印象の道ばかりだしで、どっちに行けばいいか分からなくなって、かなり遠回りなどした。
富田林西口駅(近鉄長野線)を過ぎ、富田林市役所や法務局、警察署なんかも過ぎて、左手の「KAWA」なるにぎわっているお店でパンをゲット。ここもリーズナブルでおいしいパン屋さんだった。
そしてさっきから左手に古そうな集落がと思っていたらここが甲田で、東高野街道で歩いた黄檗宗養藥寺のすぐ近くだった。170号線を通っていると、すぐそばにこんな古い集落があるとは思わなかった。
前に東高野街道で歩いた時には、相当の田舎かと思っていたけれど、170号線あたりはこんなに賑わっていたんだな。
ついでだから東高野街道歩きで行き着けなかった水郡邸に行くしかないな、というわけで、再び甲田の古い集落を歩いてみた。
水郡さんは大庄屋で、錦織神社の神主だったらしい。錦織神社は当時水郡神社(水郡天王社)といい、名前も水郡に改名。天誅組に名を連ね、15歳の息子とともに挙兵に参加。
天誅組には土佐勢や大和勢(伴林光平ら)、河内勢(水郡さんら)がいて、五條の代官所を襲ったのはそのうちの一部だったらしい。水郡さんらは代官所を襲った人たちの討伐隊を襲った・・・のかな。息子は若くて助けられたけれど、水郡さんは斬首刑に。
水郡邸は「KAWA」からも遠くない場所にあった。ファミマのところに入ってすぐ右折するだけだった。
子孫の方が住んでいるってことで非公開だけれど、土塀とかに相当の年季が入っていた。うろうろ歩いていると、同じくらい年季の入った土塀が他にもあったりして、面白いところだった。
東高野街道には、火事で全焼した家があった。火災のニュースはテレビでみていた。
そして近くで、前に見逃していた「チリンサン」も見つけた。山梨には「丸石神」って道祖神的なものがあるそうだけれど、似たものなのかな?
ファミマに戻って、反対に西に向かえば錦織神社だった。錦織神社は犬の散歩NGで、いつものようにおかあさんのバッグで行った。でも・・・あまり収穫はなかったかな。
広い境内だった。静かだけれど人はぽつぽつ来ていて、大事にされている感じだった。古いことの説明はほぼなかった。古き錦織の人々の匂いはなく、この古い甲田と錦織の関係もなにも分からず。神社についてはほぼ何も分かっていないのかな。
南に向かう参道から出て、川西駅(近鉄長野線)はすぐだった。けれどわたしたちは南西に歩き続けた。廿山の古墳も見てみたかったのだ。
川西小学校から第2中学校の方に進んでいった。川西小学校には登録文化財の建物があったはずなんだけれど、見逃してしまった。時間はおしてきていたし、疲れてもいたんだろうなあ。あまりきょろきょろせずにただ歩いた。
第2中学前交差点を渡って、広い道(外環)を越えてからもそのまま進み、途中で方向を変えて、津々山台2号公園に行くつもりだった。そこが廿山北古墳らしくて。けれど中止(疲れてた)。そのまま南へと進んでいった。
このあたりにはあまり家もなくて、池や墓が多かった。津々山台はニュータウンで、それに伴って造成されたのだろう公園にちょっと足を運んだ。疲れてても、目の前に現れると、なんだろうと思って行っちゃうんだな。
2号公園ではない公園だった。新しいニュータウンの公園らしい美観を保っていて、気持ちのいいところだった。あとで知ったんだけど、ここからあと200mも行けば2号公園だったみたい。
それからまた外環に出たのだけれど、このあたりのトンネルの上部が廿山古墳だってことだった。
トンネルとか公園とかの一部になっていて、古墳の扱いがかなり雑に思えた。けれど多くのところは道路施設に伴い壊しちゃっていたからな。トンネルにして古墳を残したまま市道にしたここは意識が高い。
廿山古墳は廿山北古墳と同じく4世紀後半の前方後円墳。弥生時代中期には喜志、中野あたりに集落があった(二上山でとれるサヌカイトで石器を作っていた)から、それに続く勢力ではなかったかということだった。
けれどその後、どうやら石川の西側のこのあたりはしばらくそんなに栄えなかったとみられ、東側が栄えていたそうだ。
そして6世紀頃になって廿山南古墳が造られた。重層ガラス玉とか、朱とかが出土したという古墳ね。もう消滅してしまっているそうだけれど。
それから7世紀になって、急に栄えてきたんだって。新堂廃寺がつくられた頃。
そうなると仁徳天皇の頃の石川錦織首許呂斯は全く関係なく思えるなあ。7世紀、蘇我氏の頃、石川流域には渡来人がいっぱい住んでいたそうだから、錦織にも新しく百済から渡来してきた人々が住んでいたのかもしれない。そして百済と同じヲガンジを建立したのかな。
大きな錦織公園がいつの間にか見えていて、入り口の案内に従って歩いて行った。
前回迷って歩き回ったおかげで(あと、南駐車場への道標のおかげで)すいすい南口へとたどり着いて(けれど距離はけっこうあった)、公園を出た。途中で休憩してパンをもらった。
公園を出ると右折して、滝谷駅までてくてく歩いて、おうちに帰った。もちろん爆睡。




