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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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黒姫山古墳

舟渡池の東側には大きな道がいっぱいあって少し迷ったけれど、舟渡北交差点から黒山警察署の方向への道を北上すれば、それが覚えのある中高野街道だった。

その道から東に丹比神社は見えていて、参道はさらに東(と北)にあるらしかった。ぐるりと東から回ったら鳥居があった。

今では道路や工場ばかりだけれど、かつては素敵な森にあったのだろうな。境内はなかなかに広く、2本の大きな楠の間に注連縄がはられて、それが鳥居みたいになっていた(縁結びの楠らしい)。樹齢千年を越えるという楠もあった。

なにか謂れのありそうな大きな井戸もあり、なにかと思えば反正天皇が産湯を使ったと言い伝えられているらしかった。18代反正天皇(多遅比瑞歯別)は丹比に都を置いたという人だ。前に行った松原市の柴籬神社が伝承地だった。父は仁徳天皇、母は葛城ソツヒコの娘で、同母兄に履中天皇と住吉仲皇子、同母弟に允恭天皇がいる。

産湯を使ったということは、葛城ソツヒコの娘がここで皇子を産んだということで、葛城氏にも縁のあるところだったのかな?(淡路島で生まれたとも言われる。)

それで葛城ソツヒコの娘を皇后にした仁徳天皇が、都と丹比とを結ぶ道を置いたのかな。多遅比たじひ瑞歯別は、丹比たじひ氏に養育されたのではないかと言われているそうだ。


丹比神社の祭神は、多遅比瑞歯別と丹比氏の祖神、火明命ホアカリ

火明命って、アメノホアカリ。津守氏の祖神でもある人だ。

ニニギの兄だとか父だとか子だとか言われているようで、神社の説明では「ニニギとその妻コノハナサクヤ姫の子」とあった。一般的にはニニギとコノハナサクヤ姫の子は海彦、山彦(あとホスセリも?)で、ホアカリはニニギの兄とされている。

トラックの音が聞こえていたけれど、鳥も鳴いていた。参道は新しく立派に作り替えられていて、今でも大事にされているようだった。


神社の北側から出ると西に向かい、元の道を越えて、高速(阪和自動車道)の方向にと歩いていった。

高速は斜めに走っていて、北には前に行った美原ふる里公園(美原歴史博物館)。

高速に近づくにつれ古い集落の感じになっていった。そして高速の下を過ぎたら、黒姫山古墳だった。

高台にきれいに整備されて、気持ちのいい公園になっていた。ただ、高速のすぐそばで、あまり人もいなかった。説明なども丁寧に設置されていた。

黒姫山古墳は盗掘されていたんだって。どこの古墳もほとんどそうだけれど。未盗掘の石棺が偶然に見つかり、そこには死体ではなく、副葬品だけが入れられていたと思われるのだって。そしてその副葬品が、他に類をみない数の鉄器の数々(よろい等)だった。古墳は5世紀半ばにつくられた、丹比氏のものだと思われているそうだ。

発掘された鉄器の数々は、現在、永久保存できるように処理中で、そのうち公開できるでしょうと書かれていた。既に一部は(かな?)完了していて、みはら歴史博物館に所蔵、展示されているらしい。


5世紀半ばというと、仁徳天皇の息子たちから孫への時代へ移り変わるくらいの頃なのかな?

仁徳天皇の父、応神天皇の時代に韓鍛からかぬち(大陸の鍛冶の技術、もしかしたら製鉄の技術ももった人たち)がやって来ているから、もうだいぶ技術も浸透している頃かな。

最初は渡来人に始まり、どんどん広まっていって、戦国時代になると各地に引き抜かれていったという河内鋳物師だけれど、その最初の場所が美原だそうだから、もしかしたら韓鍛たちはそこに住んでいた丹比氏の元にいた、とかだったのかな? 天皇家では、子女も、渡来人たちも、自分たちで養うんじゃなくて、近しいものに預けるって感じだったんだろうか。

それとも丹比氏たちは鉄の材料を手に入れやすい人たちだったのかな。

それで美原では良質な鉄で武具なども作っていて、それが黒姫山古墳に埋蔵されたんだろうか。

日本でも弥生時代から製鉄が行われていたと最近では言われるようになってきているようだけれど、渡来人によって、それまでよりも硬くて上質なものが作られるようになったんだって。

その力を利用して、後に雄略天皇(允恭天皇の息子)が武力による政治を行い、有力者を次々に消していった・・・のかな?


ずっと甘い匂いがしているなあと思ったら、古墳のすぐそばにフルタの工場があった。

古墳の周りが遊歩道のようになっていて、少し歩いてみた。古墳は2段になっていて、その2段の平坦な部分には須恵器が並べられていたそうだ。

レプリカが並べられているのが遊歩道から見えた。レプリカが古墳の説明板のそばにも置かれていて、その大きさに驚いた。

こんなのがどこかで(泉北あたりなんだろうな)焼かれて、ここまで運ばれてきていたのか(西除川、かつての天野川でかな)。


それから西に向かうと広国神社南交差点だった。広国神社なんて初耳だけれど、行ってみることにした。

広国神社南ってことは、北に向かえばいいんだな、と。

途中、鍋宮大明神碑があった。なにかは分からなかったけれど、わざわざ案内が大きく出ていた。

狭いけれど、車通りは多い田舎の国道(309号線)沿いにあって、なかなか来る人もなさそうなところだった。

それから右手に広国神社が現れた。階段を上ったところにあり、こぢんまりとした神社だった。広国押武金日命、つまりは27代安閑天皇を祀っているらしかった。安閑天皇と言ったら、もう次の世代には推古天皇がいるから、最近って感じだ。

ただ安閑天皇に縁があるわけではなく、元々は蔵王権現(修験道の本尊)を祀っていたと思われ、明治時代に祭神を明記せよ(権現とかはダメだよ)となったときに、多くの蔵王権現を祀っていた神社と同じように安閑天皇(蔵王権現と同一視されていたらしい)を祭神としたようだった。

「河内鋳物師発祥 鍋宮大明神合祀」とあった。広国神社であるということよりも、鍋宮大明神を合祀していることを前面に出している感じだった。それだけ鍋宮大明神が有名なのかな?

鍋宮大明神(別名・烏丸大明神)は河内鋳物師たちの神様で、石凝姥命を祀っているのだって。

河内鋳物師の本拠地がどこかよく分かっていなかった時代、鋳物師たちの神を祭る神社があったことなどから、美原区あたりか?とかも言われていたらしく、やがて黒姫山古墳に鉄器の数々、周辺に鍛冶工房跡の数々が見つかって、確定的になった、みたいな話を聞いたことがあった。その「鋳物師たちの神を祭る神社」が鍋宮大明神だったのかな?

境内には、黒姫山古墳の天井石の1枚もあった。かつてこのあたりで水路の橋に使われていたんだって。

わたしには鍋宮大明神合祀ってことよりも、こっちのほうがすごく思えた。


あたりは地名が大保おおぼだった。

長屋王の頃(奈良時代)、多治比三宅麻呂なる人がいたんだって。父は多治比古王(継体天皇の子の宣化天皇の三世孫)、母は大伴家の娘。同母兄に多治比嶋がいる。

丹比氏と多治比氏はまた違う氏族なのだろうな。

長男でないからか、兄ほどの出世はなかったけれど、官吏をしていたそうで、和同開珎の鋳造も任されていたそうだ。和同開珎を主に造っていたのが河内鋳銭司(所在不明)。三宅麻呂さんは朝廷に大保という官位を賜った。そしてこのあたりに住んでいたのかな?

晩年には謀反を起こしたとかで島流しになってしまったそうだ。


後は帰るだけだと、最寄駅を探して歩いた。

途中、石原、大饗なんかを歩き、八上小学校に行き着いた。歩いたことのある道で、石原の地蔵も八坂神社も覚えていた。下高野街道で歩いたんだな。

初芝駅を目指して歩いた。途中、近道しようとして失敗。面白いところに入り込んでいた。玉垣があって、小さな祠があった。「日置講」とか書かれていた。称念寺や大念寺などもあった。古い一帯のようだった。

そしてやっと初芝駅に到着。帰りの電車で爆睡した。

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