住吉大社と玉手
それから年末年始、何度か住吉大社界隈に行った。
やっぱり犬の身なので、神社系って普通に散歩するわけにはいかないと思っていて、滅多に近寄らない。
いろんなところを散歩していると、犬に対する世間の目が分かるし。「かわいいね」と言ってくれる人もいるけれど、迷惑がっている人や怖がっている人もいる。
ところが年始、初詣のご主人と一緒に普通に神社を歩いている犬も何度か目にして、少々びっくりした。だいぶ普通のことになってきているのかな。わたしは古い犬なのかな。
ある日、住吉大社から生根神社、六道の辻あたりへ、高低差を楽しみながら歩いていた。
大阪平野とは言いながらもこのあたりの坂の多さは、天王寺の七坂、あべのの七坂に続いて住吉の七坂としてもいいくらい。1つは久保田の坂だな。あと六道の辻の東側や、東粉浜小学校の北側や、住吉中学校と小学校の間に向かうところや、生根神社(住吉)の南側とかを推したいな。
そして住吉大社北側のNTTの建物の裏手あたり、神社にあったのだろう石造物が、無造作にごろごろと放置されているのに気がついた。かなりのサイズのものもあるけれど、あれは何だろう・・・まさか石棺ではないだろうけれど・・・。それで、大海神社の参道の階段の下から、石造物置き場(?)に近寄って行ってみた。
灯籠の一部なんかがごろごろ重なって転がっていて、新しく見えたものでも「明治○年 執次○○」とか彫られていた。
そして気になった大きな石には・・・「玉出社」? それとも「玉出杜」? それとも・・・? 最初の2文字は確かに「玉出」だった。
横は1メートル余り、縦は2メートルありそうな立派な自然石に、大きく彫られていた。どこにあったものなんだろう。そしてこんなに立派なのに、どうして倒されて放置されているのかな。そしてどうして住吉大社に玉出の文字が?
「玉出」「玉手」は気になるものの1つだった。古代、王宮の守り人みたいなものだったらしい「玉手」。葛城氏の子孫にも玉手氏がいたとかなんとか。
もうひとつ「たまて」を見つけた。3代天皇の安寧天皇がしきつひこたまてみ。漢字で書くと磯城(師木)津彦玉手看(見)だって。
葛城氏の本拠地あたり(御所)にも玉手があり、河内国分駅近くのかなり古い時代の古墳群のあるあたりも玉手。
一心寺の裏手も玉手で、西成区には玉出。
西成区の玉出は安売りの「玉出スーパー」のイメージが濃くて、住吉大社となんだかそぐわなかった。
けれど調べてみると、西成区の玉出は、元々は生根神社(玉出)の周辺の呼び名で、その生根神社(玉出)は、玉出に移って開拓した人が、元いた住吉にあった生根神社(住吉)から勧請した神社で、かつてその生根神社(住吉)や大海神社のある地(住吉大社の北側)は玉出島(玉手島)と呼ばれていて(住吉大社周辺ってラグーンになっていたそうだから、そこに玉出島が浮いていたのかな。ちなみに帝塚山は玉出丘と呼ばれていたんだって)、そして住吉大社の古い記録によると、住吉大社は住吉三神が「渟中椋の長岡の玉出峡に住みたい」と言ったので、そこに祀ったってことで、つまりは住吉大社のある一帯が元々は「玉出」であったらしい。
大きな石に彫られていた文字も「玉出峡」だったのかも?
「玉手」が「玉出」になったのか、玉が出る(勾玉などの玉の産地)から玉出になったのかは分からないんだけれど。
近くに残る帝塚山古墳は、浦島太郎の墓だって言い伝えもあるそうだけれど、「玉手箱」からの発想だったのかな? と思った。もっと後になって、「打出の小槌」の打出が地名だと知ったのだけれど、もしかしたら「玉手箱」の玉手も地名だったのかも?
そんなこんなを調べていて、住吉大社のことをあまり知らずにいたなあと思った。近場にありすぎて、調べる対象じゃなかったんだな。
住吉大社には、いろんな有名人がやって来ていた。いろんな天皇、平清盛、豊臣秀吉、徳川家康、松尾芭蕉、一休さん、エトセトラ。身近な住吉大社に、遠い存在の人々がやって来ていたというのが最初信じられなくてびっくりした。
住吉大社の摂社のことも、ほとんどなにも知らなかったけれど、船玉神社と大海神社という古くからの神社もあるそうだ。
船玉神社に祀られるのはアメノトリフネ。イザナギとイザナミの子の一人で、大国主に国譲りさせるために遣わされたタケミカヅチ(諏訪神社の祭神となる人と相撲をとって勝った人)に随行した人。天鳥船って書き、鳥と船との合体型みたいなイメージだな。ヒルコは船に乗せて流されたと言うけれど、その船も天鳥船であったらしい。あと、船玉神社には猿田彦も祀られているのだって。
大海神社は式内社で、西門や本殿などは国の重要文化財だそうだ。神功皇后が住吉三神をこの地に祀ることにした(=住吉大社)とき、田裳見宿禰を神主としたけれど、その田裳見宿禰の子孫の津守氏が祀った神では?と考えられている。けれど本当のところは分かっていないみたい。
祭神は豊玉彦・豊玉姫ということになっていて、豊玉彦は海神で、豊玉姫はその娘。
アマテラスの孫のニニギは天孫降臨すると二人(三人?)の子をもうけた。それが海幸と山幸。ある日、山幸(ヒコホホデミ)は、兄の海幸の釣り針を失くしてしまう。そして探しているとき、豊玉姫と出会い、海神の元で何年か過ごした。後に豊玉姫は山幸の前に現れて二人の間の子を出産。決して見ないでと言われたのに覗いてしまった山彦が見たのは、ワニ(龍?)が出産しているところだった。豊玉姫は恥ずかしさのあまり姿を消し、代わりに世話係として妹を送る。
妹は後にこの赤ちゃん(ウガヤフキアエズ)と結婚して、神武天皇を産む。
そんな豊玉彦と豊玉姫は海神族と呼ばれる阿曇氏の祖神らしくて、アメノホアカリを祖神とする津守氏(他に尾張氏や海部氏なども同族)が祀っていた神とするのにはちょっと無理があるとも言われているみたい。
阿雲氏は九州の出で、各地に分散。西成郡阿曇江ってところにも安曇氏がいたそうだ。安曇江がどこにあったかについては諸説(平安時代、安曇江荘があった北区の野崎町周辺など)あるようだけれど、西成郡というからそう遠くはない。
住吉仲皇子(神功皇后の孫である仁徳天皇の子。葛城ソツヒコの孫でもある。墓とされていたところが住吉大社の近くにある)の反乱に加担した人にも安曇連の名があるそうだし、なんらかの関係はあるのかもしれない。(ちなみに津守氏は住吉仲皇子に特には味方していない。)
古代、ラグーンだったっていう住吉大社界隈。長峡町は多分、内海だったところ。すぐそばの玉出島には、住吉大社を見下ろす感じの大海神社と、生根神社が鎮座していたのかな。
古代、王の港だったのかもしれない住吉大社を見下ろす「玉手島の大海神社」は、王宮の港を守る場所だったのかも。
生根神社(住吉)も、住吉大社よりも古い時代からあったとも言われている(神功皇后がここで住吉三神のためにお酒をつくったんだって)。祭神はスクナヒコナ。高井田(柏原)の宿奈川田神社(天湯川田奈が祖を祀ったとされる神社)にも祀られているアノ人ね。オオクニヌシの国づくりを大いに助けた人。
玉出島ではかつては「玉手島御祓神事」も行われていたそうだ。
近くには玉出丘・玉手塚などと呼ばれていたらしい帝塚山古墳がある。玉手塚山から手塚山、そこから帝塚山にと名が変わったのだって。
帝塚山古墳の被葬者かもと言われていたのが大伴金村。5世紀後半あたりから葛城氏に変わって隆盛をほこったという氏族で、一番有名な大伴金村の家は住吉にあったんだって。けれど帝塚山古墳はもっと古い、4世紀末から5世紀初めあたりの前方後円墳。浦島太郎の墓でもなければ、大伴金村の墓でもない。元々は2つ並んであり、もっと大きいのが帝塚山学院あたりにあったのだって。一番の高台で、一帯を見下ろす丘だったのかな、ってあたり。
神功皇后は4世紀後半あたりに生きていた人じゃないかって感じだから、神功皇后や住吉大社と関わりがあった人のお墓だったのかもしれない。生根神社はその古墳を背にしているから、古墳に祀られた人の関係の神社だったのかも。帝塚山あたりで力をもっていた、スクナヒコナを祀る人が神功皇后と手を結び、そこは王宮の港となり、前方後円墳もつくられた、そんな話があったのかもしれない。
なんだかそうなると、近くの粉浜に10代崇神天皇の桑間宮があったのではという説も、そう荒唐無稽でもなく思えてくるなあ。




