鴫野あたりで冬の陣
どこに連れて行ってくれるんだろうと思いながら、杉山街道歩きの途中に現れた歴史の散歩道の舗装をたどっていった。
途中、城東小学校があり、「大阪冬の陣」と大きく書かれた新しい碑がたっていた。「鴫野古戦場跡」とも書かれてあった。
すぐそばが八劔神社だった。八剱神社には太鼓台庫が3つもあって、木々も茂り、説明も多くて、なんだか親切な都会のおじいさんのようだった。境内には人っ子一人いなくて静かだった。頭上を音とともに飛行機が飛んでいったけれど。
そして拝殿にびっくりした。最初、神社に付随したミュージアムかなにかかと思った。ガラス張りだし。ところがこれが拝殿らしかった。ガラス張りの拝殿の向こうに本殿があった。
文字の入った大きな石が置かれていて、これは大阪城に使われる予定で運ばれてきたものらしい。徳川が秀吉の大阪城の上に新しい大阪城を築く時、各地から多くの大きな石が運ばれてきた。なんらかの理由で使われなかった「残念石」を淀川などでも見たことがある。
多くの川の流れていたこのあたりも石材の集積場となっていて、何らかの理由で大阪城に運ばれずに神社で使われていたのだって。そして説明によると、「冬の陣で八剱神社のある鴫野村には上杉景勝(徳川側)が布陣をしいた」ということだった。
上杉景勝って、上杉謙信の甥っ子で、父が幼い時亡くなったので、謙信の養子になった人らしい。最初から徳川側ではなかったんだって。秀吉の死後は家康と対立していたそうだ。けれど敗北。家康に下り、冬の陣では家康について戦ったんだそうだ。
冬の陣は、1814年11月19日木津川口の戦い、26日鴫野・今福の戦い、29日野田・福島の戦いがあって、大阪方は大阪城に籠城したのだって。
上杉景勝の男前な家老、直江兼続の最後の戦場は鴫野。そして大阪方では、今福の戦いが木村重成の初陣だったとも言われているそうだ。
後で知ったことには、当時このあたりを大和川が流れていて、川を挟んで北が今福村、南が鴫野村だったみたい。どちらも水田ばっかりで、堤で戦うことになった。
今福で戦っていた木村重成が危なくなると、豊臣秀頼が後藤又兵衛に助けに行かせ、優勢に。鴫野で戦っていた上杉軍も今福に応援に行くけれど、木村重成さん側の勝利。
木村重成は小阪の弥栄神社で知った人。若いながらに立派な武将で、豊臣秀頼とは一緒に育ったような人だった。前にも書いたけれど、冬の陣の後の夏の陣で、多くの大阪方の武将たちと同じように戦死して首を切られた。まだ20代前半だった。この時、妻は懐妊中で、男の子を産み、亡き夫の一周忌を済ませると自害した。この時、20歳。
「14代朝日山四郎右衛門隠退記念」の像があり、大正の日付が入っていた。
八剱神社は、室町時代に村人によって祀られたのが始まりらしい。そして神社の隣というか、同じ敷地内の背中合わせのようなところに大日寺があった。人の住んでいる気配の強いお寺で、安産祈願で有名らしい。
ここは弘法大師が彫った仏像を云々という古いお寺なんだって。古いものらしい小さな石造物が、ちょっと犬のゲージにも見えなくもない中に大切に保管されていた。「冬の陣より古い時代のものと考えられる」とあった。
歴史の散歩道はここまでだったけれど、その先の八坂神社にも行ってみた。
小さくて、説明などもなく、どうにか残されている感の強い神社だった。明治時代、八剱神社に合祀されてしまったみたい。ここにも太鼓台の倉庫があって、「天王田」と書かれていた。
地名も天王田。元々は天皇田だったそうだ。近くに用明天皇を祀る鵲森神社(森ノ宮神社)があって、その神領だったことから「天皇田」になったといわれているのだって。用明天皇は31代天皇。聖徳太子のお父さんだ。
物部氏VS.蘇我氏の戦いで、聖徳太子は親族である蘇我氏側について戦っている。そして勝利の暁にはと願掛けた通り、四天王寺を建立。
その前に、太子橋あたりにも、聖徳太子は四天王を祀るべき場所を探しに行っているらしい。そして結局「玉作の岸」に両親を祀り、そこに元四天王寺を創建(と、鵲森神社には伝わるらしい)。
その後、四天王寺は荒陵の地(現在地の天王寺・元々は渋川廃寺と同じく、滅ぼした物部守屋の土地だったとも言われているみたい)に移転したけれど、両親を祀る神社は残った。その「難波の杜」で鵲を飼ったので、やがて「鵲森神社」、また「森之宮」とも呼ぶようになったのだって。
飼われていた鵲は、新羅から戻った「遣羅使」が推古天皇に献上した2羽だったそうだ。
難波吉士磐金なる人(飛鳥時代の官吏で、鉄鋼業の祖)が、聖徳太子の時代、新羅へ使者として渡り、鵲を持ち帰ったのだって。
吉士さんって、難波吉士さん以外にも多くいて、官吏となった渡来人に与えられた姓らしい。6~7世紀、朝鮮半島との外交に活躍。難波でキシ軍団を形成していたんだって。
難波のキシさんって、吹田市の岸辺を散歩したときに行った紫金山公園の吉志部神社で知った人だった。そこには窯跡も残っていて、須恵器や、平安京を造成するにあたっての瓦も焼いていたそうだ。
27代安閑天皇(6C)の時には、田んぼの税について任された人達の中に難波吉士の名があった。
新羅出身の渡来人で、新羅の地理、言語、いろんな情勢にも詳しく、新羅との交流に重宝されたのかな。
遣羅使たちは仏像や舎利などを持ち帰り、仏像は秦寺(広隆寺)に、舎利などは四天王寺に納められたのだって。
そしてその後(新羅との関係が変わった後)も、難波館で外交儀礼を行っていたそうだ。大嘗祭では安倍さんの元で吉志舞を奏上していたんだとか。
「鉄鋼業の祖」がどういうことなのかは分からなかった。
推古天皇は最古の官道、「難波から飛鳥へ通じる大道」、今の竹内街道をつくらせたとされている人だ。
そして竹内街道は元は「丹比道」。丹比って、最初は渡来人によって鍛冶が、そして製鉄が行われたところとされていて、5世紀中頃に丹比氏が築いたとされる黒姫山古墳からは大量の武具などの鉄製品が出土しているんだって。
かつてから鉄に関わっていた丹比と難波を行き来して、キシイワカネは鉄鋼業を始めた、とかかな??
歴史の散歩道の舗装がなければ迷子になりそうな道を元の地点まで戻っていった。
そして森之宮駅近くも歩いたのだけれど、この近くに森之宮神社(鵲森神社)があったのに、知らずにスルーしてしまった。
森之宮って地名が、聖徳太子が父を祀った神社からきているってこと、このあたりを歩いていたサラリーマンの人たちは知っているのかなあ?




