東高野街道を河内長野まで
ここから東高野街道の続きを歩き始めた。
古くて迫力さえ感じる東高野街道を進んでいくと、線路を越え、170号線に合流した。この南東あたりにも古墳があって、西野々古墳群というらしかった。
なぜに西野々?と思った。西野々と言ったら長尾街道で歩いた松原あたり。野中寺(蘇我馬子開基と伝わるお寺)があって、一帯に「野」のつく地名がやたらと多かったところ。
ヨサミ屯倉があったという三宅にも近く、東に行けばエガ、雄略天皇陵、シキ県主神社があった。
中百舌鳥周辺に鳥に関する地名がやたらと多いのと同じに、「野」がやたらと多いのも、偶然ではないような気がする。「野」を地名につける共通の感覚を持った人が住んでいたんじゃないのかな。泉北ニュータウンには野々井遺跡もあったな。
しばらくはずっと170号線を歩いて行った。
歩道のないところも多くて、田舎にありがちな危険な街道だ。開けていないから道が旧街道しかなくて、車道をつくるときもその旧道をそのまま使っちゃったんだな。
狭いのにトラックなんかもけっこう通った。田舎過ぎたのか、山の谷間なのに工場がけっこう並んでいた(ほどほどの田舎だったら、道沿いには家が並んでいる)。
そんな170号線沿いに錦織一里塚があった。隣は工場で、その向こうはラブホテルっていうところ。
トラックの通る道の横に小高くなった空き地があって、草はぼうぼう、ゴミも散乱。そこに石造物なんかと一緒に木と「一里塚跡」の碑があった。なんだか「なれの果て」って感じだった。
もう少し行くと、汐ノ宮駅(近鉄長野線)が現れた。小さくて可愛い駅だった。
このあたりには、塩水の温泉がわいていたそうだ。その近くにお社があって、「潮の宮」とも呼ばれていた。それで地名も「汐ノ宮」になったんだって。一帯が汐の宮温泉として賑わっていた時代もあったらしい。
それからもずっと170号線を歩いていった。
線路の向こうがかなりの高台になっていて、そこに古い集落があるようだった。
こんな道を通るより、上を通ったほうが面白そうだな、と思いながら歩いていた。そうしたら、どこまで勘違いの日なんだ。実にその上の道が東高野街道だったみたい。
錦織一里塚を過ぎると、右手に上がっていける道があって、そちらに進み、道なりに行くのが東高野街道だったのに、間違って170号線をひたすら歩いていた。
正しい道を行けば、千代田神社を通り、向野町で極楽寺へ、それから西高野街道との合流点へとたどり着けたみたい。
わたしが「町のただものじゃなさ」を感じた初めての場所だったような気のする原町のすぐ東あたりを歩いていた。
ずっと左手の山に見えていた金と赤の目立つ塔をいつの間にか追い越していたのだけれど、あれは「願昭寺の五重塔」ってやつだったのかな。
大喜多さんのおうちが目立ち、「嬉」なる地名があった。
極楽寺の巨大な仏像が左手の高台で目立っていたので、上って行ってみた。おかげでこの後は正しい東高野街道を歩いていけたみたい。三笑橋なる架線橋で線路を越えて、商店街らしき古い町並みのところを通って、河内長野駅へたどり着いた。
違う道を歩いていたせいで、なんだかいまいち、東高野街道の南端に到着した(ここからは高野街道)感が乏しかった。またそのうち歩き直してみようと思った。




