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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
25/45

錦織と廿山

前回、滝谷不動駅付近まで歩いた東高野街道。

東高野街道は、河内長野駅付近で西高野街道と合流したあとは高野街道と名前を変える。そして河内長野から先は西高野歩きで千早口まで歩いていた。

忍ヶ丘からスタートした東高野街道は、忍ヶ丘以東は別として、あとは滝谷不動駅~河内長野駅(近鉄長野線)を残すばかり。駅にして2駅分。

年内に歩いておこうと思って、12月のかなり寒い日、金剛駅(南海高野線)に向かった。

近鉄の滝谷不動駅と南海の金剛駅ではかなり離れているけれど、2駅分は短すぎるから、オプションコースで金剛駅~滝谷不動駅を歩こうと思った。予定してみたコースは、金剛駅~寺池~寺池台2号公園~錦織公園~滝谷不動駅。


何度目かの金剛駅だった。東口から出て、バス乗り場の南の信号(金剛駅前南交差点)から南東方向へ向かった。

道が小さな川の両岸にあって、途中で分かれていくけれど、どちらから行っても、すぐに小さな児童公園にたどり着く。坂を上ったところにあって、すぐ横は寺池だった。高台にあるし、灌漑用溜池ってやつかな。なんでも池は人工的なもの、湖は自然にできたものを呼ぶんだって。

紅葉の見頃は終わっていたけれど、それでもまだ色づいた池畔はきれいだった。ただ問題は、よく見えないこと。児童公園からも、木々が邪魔をしていまいち見えない。最初、池があるって気がつかなかったくらいだ。

寺池の周辺は遊歩道になっていて、歩いてみた。

実はわたし、前に行った寺ヶ池公園と間違っていた。ずいぶん人もいて、地元民に愛されている感があった寺ヶ池公園。あのひろ~い公園の、まだ歩いていない側だと思い込んでいた。

寺ヶ池は千代田駅近辺だったから、まるで違うのだけれど、名前が似ていて勘違いしていた。ずいぶん前回とは雰囲気が違うなあ、歩く場所によって、こうも違うものなのか、池もなんだか小さいぞ・・・とは、思った。

遊歩道は道がいろいろ分かれていて、それぞれが休憩所みたいな地点で行き止まりになっていた。池を見てちょっと休憩っていうのを夢見てつくられた感じなのだけれど、木がぼうぼうに育ってほぼ何も見えない。

天野街道を歩いた時、ニュータウン造成にあたって遊歩道なども整備するものだ、そのほうが購買意欲を高める助けをするから。でも売り切ってしまえば、その後もずっと遊歩道の機能を保つとは限らない、というオトナの事情を知った。

ここは、正にその「機能しなくなったニュータウンの遊歩道」かな。ただの一人とも出会わなかった。

地名は寺池台だった。あたりには金剛錦織台、伏山台などあるし、ニュータウンとして大規模造成された町なのだろうな。

勘違いしたまま寺池の横の道を進み、さらに高台へと登っていった。大きめのおうちが多くて、地元で言うと帝塚山あたりに似ていた。高級住宅地として造成されたのだろうな。

池の北側から寺池台2号公園の方向に進んでいるつもりだった。けれど寺池の周囲の遊歩道を歩いているうち、寺池の東側に進んでいって、そこから寺池台3号公園に向かっていたみたい。

左手に小さな山、右手には池だったのかなと思われる大きな窪地が現れた。

この窪地が説明によると「ビオトープ」であるらしかった。一帯は里山で自然豊かなところであったので、開発にあたり、里山の自然を残すため、ここをビオトープとした云々と説明書きがされていた。

言われてみれば下の方に、小さな水たまりがあった。けれど立ち入り禁止になってロープか何かがはられていた。

「ちかん注意」のポスターも貼られているし、かわいそうな「残された自然」だった。


左手の小山を通り過ぎると、そこに登っていく道があり、その道々にも家が建ち並んでいて、その上にあったのが寺池台3号公園。小さな小さな公園だった。

家々はぎっしりと建ち並んでいるのに、ほとんど人には出会わなかった。

予定とは違う道を歩いているのにも気づかないまま錦織公園の道標に従って行けば、すぐ錦織公園の寺池台入口だった。


錦織公園はとても広いようで、それが幸いして違う道を行ってもたどり着けたんだな。

河内長野の長野公園や枚岡の枚岡公園はほとんど山だったけれど、ここも山だな、とすぐに思った。

なかなかに遊び甲斐のありそうなところで、お母さんは昔に一度来たことがあるそうだ。わたしが生まれる前の話。でも公園のほんの一部を歩いただけで、どれだけ広いのかは未知。おかあさんが行った休日の春の日、公園は家族連れで賑わっていたそうだけれど、平日の寒い冬のこの日には、人の姿はほぼ皆無だった。

広い園内を歩く中、出会ったのは、公園の車両2,3台のほかは、「河内の里」あたりで男性2人、どこかの下り道で上ってくる男性2人、ベンチで男性1人、それで全てだった。かなり長い間、園内を歩いたのに。

丘陵地帯に広い道がつくられていて、ところどころに広場なんかがあるみたい。

広い園内の途中で東に向かい、外環状線に出て大谷大学経由で滝谷不動駅方面に向かう予定だった。なのにこの日は勘違いの日だったのかな。寺池台入口から道なりにずっと南下していって、南口から出る頭になっていた。

途中、展望台の案内があって、矢印の方向にのぼっていってみた。すぐに階段で登る展望台が現れた。高所恐怖症のおかあさんは、ちょっと腰がひけていた。

わたしは下りのとき、階段が急すぎて、ちょっと困った。四本足には着地点のステップが狭すぎた。でもどうにか自力で降りていった。

そんな階段のてっぺんからの景色はすごかった。朝には雨が降り、歩きの途中でもちょっとした小雨に見舞われたその日、雲の間から日が差し、光が線状に見えていた。照らされた色づいた緑は、ぽこぽこと凹凸まで見えていた。雲と、光と、木々と山だけの光景。


その後もてくてく歩き、南口から出て大谷大学を探した。でもどこにもなくて、須賀ってあたりらしい高台でわたしたちは途方にくれた。そこはちょっと特別な感じのするところだった。今やただの住宅地。けれど元は、高台にあって四方が見渡せる、なにか特別なところだったのじゃないか・・・。

そしてやっと間違いに気づいた。途中で東に行かないといけなかったんだ。公園に戻り、引き返していった。公園の案内を見ると、展望台あたりまで引き返して東に向かわないと公園を出られないみたいだった。

でも、そこに至るまでにも道がいっぱい東に向かっていたから、抜け道があるんじゃないかと進んでみては引き返し、進んでみては引き返し、かなり園内を歩き回ることになった。

おかげで園内のあちこちに行けたけど。

堂の山古墳にも行き着いた。園内にひっそりとあるその古墳は、穴(墓穴)が2つ並んでいるのが珍しい、方墳であったんだって。夫妻のものだったのかな?

古墳時代後期のもので、その形式から言って渡来人のものと思われるのだって。

錦織公園をぐるぐる歩いて、どうしてこれだけの規模の山を、これだけ整備して公園として残しているのか、不思議に思えた。なんらかの理由でこの山を残したいのかな?と思えた。

ここは廿山つづやまなる山であるらしかった。本当は、もっともっと広かったのだって。

富田林駅の西あたりに毛人谷ってところがあり、その西側にも廿山がある。そのあたりも、錦織公園あたりもぜんぶが廿山だったそうだ。けれど開発されてどんどん廿山に「○○台」が侵入してきて、今では切り離されて存在するようになったのだって。

そして廿山には、堂の山古墳の他、廿山古墳、廿山北古墳、廿山南古墳もあるらしかった。


廿山南古墳では、地中海あたりのガラス製品が出土しているそうだ。古墳時代後期(6世紀前半)の円墳で、埋葬物としていろんなものが出土しているらしい。須恵器、土師器、玉、鉄器に「朱」だって。

7連の「重層ガラス玉」には中に銀箔が施されていて、その技術力の高さから言って西アジアから中央アジアあたりで生産されたものと思われるそうだ。それが「地中海あたりのガラス製品」ね。産地がササン朝ペルシアの近くではあるけれどササン朝ペルシアではないことが、含有する酸化カリウムとかで分かるのだって。

「朱」は、水銀の材料になるものだ。当時、長寿の秘薬として珍重された鉱物で、鳥居の赤は、これを塗ったもの。


廿山の「廿つづ」は、最初なんと読むのか分からなかった。別字としては「卄」で、十の字を重ねたもの。十と十で20のことで、ニュウ(水銀生産地を丹生ニウ・ニュウという)とかハタ(ハタチのハタね)とも読むらしい。他、ツ、ツツ、トドなど。

朱を水銀にする精製技術をもっていたのは古代、秦氏だったそうだ。丹生、卄、秦・・・なにか関係があるような気がして、ミステリアス・・・。

謎の古代氏族、ハタ氏は「イスラエルの失われた10支族」ではないかという説が世界的にあるそうで、イスラエルから七連の玉飾りをしてやって来た人がそこに眠っているのではないかとか想像した。時代が全然違うので、ただの想像だけれど。

古墳時代後期の古墳からは重曹ガラス玉(間に金箔や銀箔などを挟み込んだガラス玉)は多数見つかっていて、そんなに珍しいものじゃなく、シルクロード経由でやってきたと思われているそうだ。

もっと早い古墳中期のものとしては、前に行った高井田古墳(5世紀末)、奈良の新沢千塚古墳(5世紀半ば)、京都長岡の宇津久志うつくし古墳(5世紀半ば)から見つかっているらしい。


廿山古墳は、前方後円墳。鏡、刀剣、銅鏃、鉄鏃が出土していて、古墳時代前期のものと考えられているそうだ。

廿山北古墳も、古墳時代前期のもの(4世紀後半)と思われる2段の方墳だって。

前方後円墳は大和朝廷独自の形だというから、大和朝廷に近い豪族が古墳時代前期、このあたりで力をもっていて、そこに渡来人(堂の山古墳に眠っていた人たち)も多く住むようになったのだろうかな。

廿山のふもとの毛人谷えびだには、渡来人の多く住んでいたところと思われるんだって。それで毛人谷というらしい。古くは「毛人」と書いてエミシと読んだらしく、それで今も「毛人谷」と書いて「えびだに」。蝦夷エミシが何を指すのかについてもいろんな説があるようだけれど、異民族のことを言ったのかな。

イメージで言うと、毛人って、毛深い人って感じだ。たとえば大柄で、金色の髭をしていたっていう坂上田村麻呂みたいに、かな。桓武天皇の頃、征夷大将軍をつとめた坂上田村麻呂は、応神天皇の時代(5世紀頃)に帰化した阿知使主アチノオミ(後漢の王の子孫といわれる)の子孫の東漢氏の出なんだって。

いろんな国々と交わりがあった中国には金髪の人だっていたのかな。それで政治的にとかでイロイロあって大勢で日本にも移住して来て、たとえば応神天皇の時代、秦氏と一緒にやって来た日本人に比べると毛深い、もしくは毛色の違う人々が廿山あたりにも住み、そこは「毛人谷」と呼ばれるようになった、とかってこともありえたかな。


錦織は、百済からやってきた織物の職人たちが住んだところと言われている。錦織郡百済郷って地名だったこともある。

石川錦織首許呂斯って人が仁徳天皇(応神天皇の息子)の時代にいたらしいから、その頃には石川流域に錦織する人たちがいたってことかな?

百済は、新羅、高句麗、倭(日本)、中国の人々も多く住む国際都市だったそうだ。

その頃の中国がどうだったかは、わたしは中国の歴史まで調べることになるとは思いもしなかったトイプー(3歳女子)で、まだなにも知らないのだけれど、秦や漢はとっくに滅びて、隋や唐はまだまだ先って時代で、いろんな氏族が入り乱れて戦いなんかがよく起こっていた頃なのかな?

その頃にやってきた阿知使主の子孫たちが東漢やまとのあや氏になり、王仁の子孫たちが西漢かわちのあや氏になっている。大和(東)に住む漢人、河内(西)に住む漢人というわけで、東と書いて「やまと」、西と書いて「かわち」。「あや」は分かるとして、「漢」も「あや」と読むのは、織物に長けていたからだって。

同じように応神天皇時にやって来た弓月君の子孫たちが秦氏になっているけれど、「秦」と書いて「はた」と読むのも、機織はたおりに長けていたからとかなのかな?? 秦氏は秦の始皇帝の子孫を自称したか何かで「秦」と書き、「漢」を「あや」と呼んだように、「秦」を「はた」と呼んだのかも。

錦織に住んでいた百済からの渡来人というのは、阿知使主に随行してきた人々とか、弓月君に随行してきた人々とかだったのかな。錦織に住処を与えられ、大きな集落になっていったのかな。


石川錦織首許呂斯コロシさんのことは、古い書物に記されているそうだ。

仁徳天皇に始まる鷹狩りの鷹を最初に育てたっていう酒君。その酒君が百済から人質として送られてきた時、逃げたのを一時匿っていたのが石川錦織首許呂斯だった。後に酒君は住吉大社の東の鷹合で、ヨサミのアビコが仁徳天皇に贈った鷹を育てるようになった。

住吉大社神代記なる古い書物によると、住吉大社の広い神領にある山々を預かっていたのが石川錦織首許呂斯。錦織、天野、石川葛城などの山々を預かっていたそうだ。

住吉大社の神域が富田林の方まで広がっているなんて、範囲が広すぎてぴんとこなかった。最初の最初には、住吉大社の神域はそうは広くなかったようだった。けれどだんだん広くなり、石川錦織首許呂斯なる人に預けた錦織あたりの山々や、その山々から流れる石川流域一帯も住吉大社の神領になっていったみたい。


石川って、大和川に合流しているけれど、もしかしたら応神さんの時代くらいには、北上する大和川から更に分かれて、住吉大社方面に流れていっていたのかもな、と思った。

それで途中、ヨサミ池に流れ込んでいたのかも。そんなふうに掘削していたのかも。

西除川はかつては天野川と呼ばれていた(天野山から流れている)そうで、それもヨサミ池に流れ込んでいたのかも。

住吉区庭井の大ヨサミ神社から松原の屯倉神社あたりまでがヨサミ池だったそうだ。屯倉(朝廷直轄地)だったからヨサミは天皇のもので、そのヨサミ池に流れ込む川、その元の山々もまた天皇のもの、そして住吉大社のもの。そんな感覚だったのかな。

住吉大社って何者?って思うけど・・・。住吉大社神代記によると、応神天皇は住吉大神の子とも思える記載があるそうだ。そうでなくても応神天皇の母が創建していることだし、天皇家にとても近かったのだろうな。

ちなみに祭神の住吉大神(住吉三神)は、底筒男、中筒男、表筒男。つつ廿つつを関連付けるのは考えすぎかな?


錦織公園を間違って南の出入り口から出たとき、その高台にあった地名は須賀だった。

スガって、蘇我氏を連想させられたのだけれど、石川流域って、蘇我氏にも関わりが深いのじゃないかと言われているみたい。蘇我氏の名前にもよく「石川」がついているし。

石川流域に力を持っていたという蘇我氏は、渡来人と手を結んでいたんだって。蘇我氏自身、渡来人だったって説さえあるそうだ。蘇我氏には蝦夷(毛人)や高麗、韓子って名前の人がいるのも理由の1つのようで、蘇我氏は渡来人の娘と結婚し、生みの親が渡来人、というケースが多かったのではないかと言われているみたい。

たとえば蘇我稲目の妻は高句麗の姫だったのではないか、とか。

渡来系の人たちの力を借りて、蘇我馬子が建てたとされているのが、今の飛鳥寺なんだって。

日本で最初に建てられたとされる寺院。使われた瓦は、須恵器を焼くのと同じ形式の窯(渡来人が伝えた)で焼かれた。その飛鳥寺と同じ系統の瓦が使われた寺跡が、このあたりの新堂でも見つかっているそうだ。

その新堂廃寺は錦織氏(か桜井氏あたり)の建てたものとされているらしい。

他に同じ系統の瓦が使われているお寺としては、国府遺跡の衣縫廃寺と、大和川に沈んだ船橋廃寺だっ

て。

596年、最初に飛鳥寺(明日香村)が建てられ、豊浦寺(日本最古の尼寺だって。明日香村。瓦は高句麗形式のものらしい)が建てられ、寺院の建設ラッシュが始まったのかな。

河内では、新堂廃寺、衣縫廃寺、船橋廃寺、渋川廃寺(これも瓦は高句麗形式)、あとこれも初耳の九頭神くずがみ廃寺(これも瓦は高句麗形式)あたりが初期のものなんだって。

衣縫廃寺と船橋廃寺は超・都会だったらしき柏原あたりにあって、使われていた瓦も多岐に及ぶみたいだから、あちこちの窯で焼かれたものなのかな。

新堂廃寺のそばにはヲガンジ池という変わった名の池があって、新堂廃寺は元はヲガンジと呼ばれていたのかもしれないそうだ。

同じくらいの時期に同じような配置で百済に建てられた寺に、烏含寺ヲガンジがあるんだって。

錦織もいろいろとミステリアスだなあ。


結局、展望台近くまで戻り、「五ツ辻」なるところまで東に向かい、そこからさらに「きつつきの森」なる自然道を行かないと公園を出られなかった。途中、一ヶ所行き止まりのところがあったせいかも。

迷いながら、人っ子一人いない、山中のような園内を歩いていると、風がごうごう鳴って、落ち葉が舞い上がった。目の中にも入ってくる風に、なにやってんだろう・・・と一瞬思った。

家の中にいたら暖かいのに、ごうごう鳴る風に吹きすさばれて、目の前でおかあさんも寒そうな顔で、髪の毛も風にもてあそばれて、おにばばみたいに逆だっていた。


五ツ辻は、公園が整備される前からあった山道じゃないかと思われた。それがいつの時代にどういう経由でこんな公園になったんだろうな。

きつつきの森を抜けると、いきなり外環状線だった。その向こうに大谷大学。

その大阪大谷大学の渡り廊下の下の道を東に進んでいった。

わたしたちは気づかずに少々遠い信号まで遠回りして、外環状線を大谷大学側に渡ったのだけれど、外環状線の下にトンネルがあって、ここから向こうに渡れたみたい。

外環状線が走っているほかは、本当に片田舎の、かつては山だった感じの町だった。

あとは適当に滝谷不動駅まで歩いていった。大谷大学の駐輪場が何カ所かあったけれど、とまっているのは全部バイクだった。こんな辺鄙な坂の上に建っているんだもんなあ。

坂を下れば、家々が建ち並んでいた。錦織中1丁目、2丁目あたりを歩いたのだけれど、すごく古くて、路地も迷路みたいに入り組んでいて、面白かった。

そして前回の東高野街道のゴール地点に到着した。

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