東高野街道を喜志から
それから東高野街道の続きを歩くべく、喜志駅(近鉄長野線)に向かった。12月になっていた。
河内長野行きの車両に乗り込むと、後ろ3両が明らかに空いていて、そうだ、古市で切り離される3両だ。電車には若者がやけに多かった。9割くらい。
学校があるんだろうなと思っていたら、みんなぞろぞろと喜志駅で降りていった。大阪芸大とかかな? 若者が降りた後のがらすき感を考えると、大学を誘致するのってすごいことなんだな、と思った。
東口から出ると、前回の東高野街道歩きの終点あたり。聖徳太子と推古天皇の碑が立っていた。喜志って太子町に近いらしく、二人に縁が深いみたいだ。
東に行くと東高野街道の170号線なのだけれど、南西方向にある美具久留御魂神社が気になって、まずはそこに行くルートを考えてきた。なんだか名前からして古そうだったから。
踏切を渡り、そのまま西に進んでいった。車幅が狭いところなのに、車通りは多い。旭ヶ丘交差点で新しい方の170号線(外環状線)と交差した。次の交差点まで進んで、左折。南下していった。
広い平野の向こうに山が見えていた。最初は遠く見えていたけれど、少し歩いているうちに、近くに見えるようになった。山までの間に建物があまりないからかな。たんぼ、旧家、水路。最近まで農村だったのに、開けてきた感じのところだった。
右側が高台になっていて、なんだか気になった。少し入っていってみると、墓地だった。柿などがあって、田舎の雰囲気なのだけれど、山が開拓されて、新しい町ができているようだった。
どうやらPL学園などもあったみたい。地名は宮町だった。
そして元の道を行くと、道沿いに鳥居が現れた。美具久留御魂神社の駐車場があり、その向こうに神社はあった。
「支子の宮」「喜志の宮」と書かれていた。鳥居には3つの房みたいな注連縄が垂らされていた。古そうな狛犬の頭は、右も左も尖っていた。わたしはバッグの中。
階段を少し上ると拝殿があり、拝殿の向こうも階段が続いていて、さらにその階段を上っていけるようだった。
いくらなんでも直に拝殿の向こうには行けない、と、横の回り道から拝殿の中に進んでいったのだけれど・・・なんだここは!と思った。神々しいのに和やかだった。不思議な感じがした。いろんな人がやって来ていた。地元の人たちの生活の一部になっている感じだった。
拝殿の向こうの階段にも狛犬がいくつかいた。一対は左の狛犬に角があった。一番奥の狛犬は、とてもいい顔をしていた。
これは「下拝殿」と「上拝殿」だったみたい。直に進んでも大丈夫なのだろうな。山がご神体のようで、「神奈備山」とあった。
さらに上って行ける横道があって、進んでいくと、道々、もみじが落ちていて、きれいだった。一部だけは木に残っていて、それもきれいだった。もう少し前、紅葉の時期にはどんなにきれいだっただろうな。
鳥のさえずりが聞こえ、そして電車の音や踏切の音も時々聞こえてきていた。
上之宮もあるらしくて、目指してみたのだけれど道を見失って、進んで行けなかった。地元の人達が参道をつくったんじゃないかなっていうような手作り感があった。けれど山とあって、崩れちゃったとかかな?
祀られている美具久留御魂大神はオオクニヌシのことだそうだ。
崇神天皇(10代)が、オオクニヌシの荒魂(美具久留御魂大神)を鎮めるために、皇子(後の11代垂仁天皇)をつかわせて祀らせたんだとか。名前に惹かれてやって来ただけだったけれど、思った以上に由緒ある神社だったみたい。
裏山には「宮神社裏山古墳群」が見つかっているそうだ。裏山ってご神体の神奈備山のことかな。真名井ヶ原という山みたいで、前方後円墳や円墳がみつかっているらしい。
消滅しているけれどもう少し南には真名井古墳なる前方後円墳もあって、4世紀初め頃のものと思われるそうだ。南河内では最も古い前方後円墳で、南北には他にも古墳が見つかっているのだって。
このあたりは出雲族が上陸し、住んだところだと言われているらしかった。いつの時代に上陸したのか、どうしてそんなふうに言われているのか、詳細は分からなかった。
そして鳥居からは年に2回(秋分と春分かな)、二上山の真ん中からの日の出が見られるのだって。
なんだか別世界のようなところだった。
東高野街道(旧170号線)に戻るべく、鳥居から東に向かっていった。
近鉄線の線路を越えると工事中で、新しい道でも作っているのかな? 富田林市市民会館があって「なくそうあらゆる差別」と書いてあった。
遠くには山々が見えていた。粟ノ池と公園(粟ノ池共園だって)が現れた。池の上に市民会館(ホール?)がたっていた。粟ノ池は、石川から水を引いている灌漑用溜池だって。
素敵なところだった。時間があったらのんびりしたい感じの公園だった。地名は桜井で、粟ノ池遺跡からは弥生時代の須恵器などが見つかっているのだって。
このあたりでは、そこらじゅうに遺跡が見つかっているみたいだ。
そして桜井交差点で170号線にたどり着いた。美具久留御魂神社の鳥居がここにもあった。ここからずっと参道だったのだろうな。
桜井は、楠木正成親子の別れの場だと言われているそうだ。一般的には摂津の桜井(三島郡島本町)と言われているけれど、実はここだったのではないかとこの頃、言われるようになったのだって。
そしてここ桜井は、加賀屋甚兵衛の出身地であるそうだ。地元に近い住之江区の加賀屋(新田)をつくった人。後に桜井と名を改めていた。
そして更にここは、桜井屯倉の推定地でもあるのだって。桜井屯倉があったのではないかと言われているところはいくつかあって、前に行った堺市の上神谷あたりの桜井神社付近もそうだった。次に梶無神社に合祀された桜井神社のあたり(六万寺付近)。あと、ここね。
桜井屯倉は27代安閑天皇のときにつくられたそうだ。どこにあったのかは分からないけれど、桜井という名のところはみんな、なにかでつながっているのだろうな。
170号線を中野町3丁目交差点まで南下して、170号線の左手の道にうつっていった。地名は中野町だった。
針中野もそうだし、中野と名のつくところって古くて、お医者さんが多いような気がした。楠木正成の子孫になるのかな、和田さんがここ、中野村華岡に移り住み、華岡姓を名乗るようになり、医者を多く排出。そのうちの一人が華岡青洲だそうだ。
中野町あたりからは、ほぼずっと道なりに進むだけだった。道が分かれるところには東高野街道の道案内があって、分かりやすかった。
右側には素敵に彩られた木々が見え、左には魅力的な旧道がいくつも現れて、その向こうには黒々と山が見えていた。
この日、帰りの電車で見ていてやっと気がついたのだけれど、山って、日が差していると色もばっちり見えて、陰るとたちまち黒々として見えるんだな。この日の散歩では、帰りの電車までずっと四方八方に山が見えていて、素敵だった。
左手の旧道にもちょっと歩いていってみた。すごく古そうな立派な家が多く建っていた。一ヶ所は立派な旧家で行き止まり、一ヶ所は昭和初期くらいからずっとそのままなんじゃないかというような、安普請の農家のおうちみたいな一帯に出て行き止まり。相当古い町っぽいなあ。
弥生時代、二上山のサヌカイトで作った石器が広く流通していたらしく、喜志や中野は、その一大生産地であったらしい。古墳時代、泉北は須恵器の一大産地で各地に流通されていたと知った時には驚いたものだった。「一大産地」「流通」って、なんて現代的。ところがそれどころか弥生時代にも石器が「一大産地」で製作され、流通されていた・・・の・・・?
つくっていたのは出雲族だったんだろうか?
貴志・中野、二上山と太陽で結ばれた美具久留御魂神社の鎮座する場所で。
地名が若松町になり、「新堂」の太鼓台庫なんかがあった。太鼓台庫は、東高野街道を歩いていても、けっこう何度も見た。
そして新堂小学校を過ぎると、雰囲気が変わった。古そうな地蔵なんかもあるけれど、家が建ち並んでいた。
・・と思っていたら、同じ若松町で、今度は古さが堂に入っているところに出た。ツシ2階の旧家が売りに出されていた。「頭金0円」「内覧可」、ツシ2階ですがなにか?って感じにでかでかと書かれていた。ここではこんなの普通ですよって風に。
道がいくつにも分かれるところがあって、前方には2つ。わたしたちは左側の道を進んだ(結局はつながっている)。
それから左手に大物の雰囲気があって、行ってみたら圓光寺なるお寺だった。少し道を入っていっただけなのに静かで、竹林なんかもあった。
どうやらこのあたりは高台みたいで、東側は急な下り坂になっていた。寺からの見晴らしはいいことだろうなあ。寺の山をバックにした姿は素敵だった。山と寺との間になにもないものだから、「山をバックにした寺」の素敵さが、まざまざと感じられた。
寺と同じ敷地内にハヤシさんのお宅があった。その字が「晨」。
元の道に戻ると、右手にPLの塔が見えていた。そして廃業しているのかどうか微妙な感じの古い葛城温泉の煙突。
府道33号富田林太子線を越えて、道の続きを進んでいった。
33号線を右に行けばすぐ富田林駅、左に行けば金剛大橋で石川を越える、という地点だったみたい。
左の坂を下ったところの木々の色が、異様なくらいの美しさだった。
そして33号線を過ぎたところから寺内町に入ったようだった。
右手の公園に寺内町の説明があって、寺内町だと分かった。
それで「寺内町」あたりを散策してみたのだけど・・・なんだ、ここは!と、呆然となった。
平然と存在しているのが、なんだか信じられなかった。自分がどこにいるかわからなくなる。
ここは大阪府で唯一の「重要伝統的建造物群保存地区」であるらしい。それも納得だった。このタイムスリップ感ってどうよ!
ほぼ何の予備知識もなく、寺内町だってことさえほぼ知らずにやって来たものだから、突然のことで尚更のタイムスリップ感だった。人がほとんどいないのもよかった。時々だけ出会うリュックの男の人とかも、知らない時空に紛れ込んでしまったお仲間に思えた。
白いものがさっきからちらほらと見えているけれど・・・・もしかしたら雪?
この日、散歩中、全然犬の姿を見なかった。このあたりって犬を飼わないところなのかな、と思って歩いていたのだけれど、もしかしたら寒すぎて散歩に出ていなかっただけかもしれない。寒波到来とテレビも言っていた。
それが突然雨に変わった。いつもの雨より固くて、するどさがあったから、フローズン状態だったのかな? それからすぐに普通の小雨になり、雨宿りしようかと思っているうちにやんだ。そして日が差しはじめた。と思ったらそれは一瞬で、薄暗くなり、風がごうごうと吹き始めた。
なんだかすごい天気の急変した日だった。その後はもう雨は降らず、ただごうごうと度々風が吹いて、落ち葉が舞い踊った。
そんな劇的な天気の中歩いた寺内町も劇的だった。
興正寺別院、旧杉山家(17C)を初めとした古い町家などを見て歩いた。
ここは室町時代終わりにできた寺内町らしい。寺内町はお寺を中心にしてできあがっていった町だけれど、ここで中心だったお寺は、やっぱりただものじゃない感を一番漂わせていた興正寺別院だった。
それ以前から交通の要所で、宿場町であったらしい。けれど戦乱で荒れ果てた。そこに新たに興正寺別院を中心として町が築かれ、江戸時代にはたいそう栄えたそうだ。
堺みたいに織田信長に焼かれることもなく(織田についていたらしい)、空襲で焼かれることもなく現存していて、資料館になっていたり、さりげなくお店屋さんになっていたり。パンも寺内町のお店で買った。「クリームパン売切」と書かれてあった。一日100個限定の人気商品だって。
杉山家の東側の道をまっすぐ南に行ったところのつきあたりに、古い道標があって、「ふじいでら」と見て取れた。
ほかになんと書いてあるか読めなかったのだけれど、説明によると「町中 くわへきせる ひなわ火 無用」とあるんだって。高台にあって水の便も悪いから、火の用心を呼びかけているらしい。
みんなの火の用心があって、今も現存しているんだなあ。
道標を左に進んだ。高台にあるだけに、すぐ東を流れる石川方面の景色は、どんなに素晴らしかっただろう。けれど今や家が建ち並び、見ることはできなかった。案内図によると見えるところもあったみたいだけれど、気がつかなかった。
ここから道なりに、上りの側を進んでいけばよかったのかもしれないけれど、「旧東高野街道」の道標のある下りの道に進んでいった。次の「石川経由滝谷不動」の道標の方向には行かず、そのまま道なりに進んで富田林高校に出た。
高校の東側の道を南下して道なりに進み、高校を過ぎて2つ目を右折。道はカーブして、南下する旧道に。右は山手で、左は大きな谷間だった。右の山手にも左の谷間にも家々が建ち並んでいた。地名は甲田で、かなり古くて大きな家が山側には並んでいた。
左手は比較的新しそうな家々の向こうが、長野県ってこんな感じかな?って光景だった。カラフルな山々が連なっていた。
右側の上り坂を少し上がって行ってみると、北甲田集会所とお堂が現れたりと、興味深いところだった。右手に現れた養楽寺(黄檗宗)も独特の雰囲気だった。この辺りに「水郡邸」(1773)があったようなのだけれど、下調べが雑すぎて、たどり着けなかった。
天誅組が五條代官所を襲撃する前夜、当主(伊勢神戸藩代官で大庄屋の水郡さん)も共に軍議したというお屋敷なんだって。天誅組は観心寺に参ってから、千早峠経由で五條に向かったそうだ。
このあたりには「チリンサン」という百済の色濃いものも残っていたらしい。まん丸な自然石をいくつか置いたもので、賽の神的なものであるんだって。古くから、石川沿いには渡来人が多く住み、この辺りは「下百済河田村」だったところだそうだ。
そして近くの甲田南遺跡では弥生時代の集落跡などが見つかっているのだって。
道を下って行き、新しい道と合流した。そこは川西駅(近鉄長野線)前で、その高架下を過ぎ、道なりに進んでいった。ここには道標がなかった気がするんだけれど、直進の道、左折の道、その間の道と3本に道が分かれていて、その間の道を進んでいった。すぐに道が2つに分かれるところは左に進んで、あとは道なりに。駅近ではあるけれど、静かな町だった。
そこに似つかわしくない大きな道が走っていて、その上を小さな橋で渡った。国道309号線だって。それから右側に見えている信号まで進んで左折。南下していった。左手が古い一帯みたいで、そちらのほうも歩きつつ南下していった。すごーい大きい旧家とかもあった。
あとはちょっとだけ複雑だったけど、迷うところでは「東高野街道」と書いてくれていたから、スムーズに南下を続け、滝谷不動駅にたどり着いた。
今日のところは、もうここまででいいやと思った。もうお腹いっぱいだった。美具久留御魂神社に富田林に雪に甲田に。
けれどせっかくここまで来たから、滝谷不動は遠いのか?と、駅周辺の案内を見てみたら「徒歩15分だって」。
行ってみることにした。




