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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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山田道

前に亀岡街道を少し歩いたことがあった。

途中、山田道って道があった。吹田に古くから山田村があり、そこに至る道だったらしい。古くからといってもぴんきりだけれど、ここの「古く」は11代垂仁天皇の頃か、それ以前。

その山田道を歩いてみようと地下鉄本町駅へ。山田道のスタート地点は阿波座駅近辺だった。

本町駅で降り、そこではたと気がついた。いつも下調べして、歩く道をメモして散歩にやってくる。ところがおかあさん、その地図をおうちに置いてきてしまった。

公共交通機関ではわたしが文字通り「荷物」になるので、おかあさんはなるべく他に荷物を持たないようにしている。絶対に持っていくのは、水とお金とピタパ、わたしのうんち袋とカラビナ、シャープペンシル、ティッシュ、そしてメモした地図。スマホはまだ導入していなくて、小さな携帯電話をポッケに入れてた。

あと、わたし用にコップも持って行っていたっけ。今はわざわざ持って行かずに、おかあさんの掌がコップ代わり。肉球周りにトゲトゲの付く秋冬にはハサミも持って行っていたことがあった。けれど、おかあさんが自分の服でわたしの脚をこするとほぼ取れることに気がついて(代わりにお母さんの服がトゲトゲだらけになるけど)、ハサミも却下。あと、今はどんなに晴れていても小さな軽いおりたたみ傘、それとばんそうこうをもっていっている。経験の結果ね。

そんな厳選された持ち物たちは必需品で、なにひとつ忘れてはいけない。地図のメモもだ。

だから困っちゃった・・・。

けれどしょうがない。おかあさんの記憶を頼りに歩くことにした。「けっこう覚えてるかも」とおかあさん。


何度か歩いた中央大通りを西へ。素敵な阿波座駅前交差点を過ぎた。

前にこのまま西に木津川を渡って、川口方面に散歩に行った。今回もまっすぐ行きかけて、右手に「津波体験 ダイナキューブ 無料体験 津波・高潮ステーション」と書かれた施設があるのに気がついた。なんでも、和歌山県沖で大地震が起き、大阪も震度6、大津波警報が発令された!というシチュエーションの「津波災害体験シアター」があるらしい。こわそう・・・。

「ちょっと待った。津波・高潮ステーションの北側で橋を渡る計画だったぞ」とおかあさん。靭本町3丁目交差点まで少しだけ北上して、本町通りで西へ。

このあたりの地名は江之子島だった。川口というだけあって、このあたりは元は淀川の河口部だった。大阪湾に川が運ぶ土壌が積もっていったりで、九条島、難波島など「難波八十島」というほどに島々がいっぱいあったというところ。江之子島もその1つだったのだろうな。その後も土が運ばれたり、新田開発されたりして、もう島々だった形跡はない。

本町通りは木津川橋で木津川を渡った。

川口交差点でみなと通りと交差。左手に「大阪船手会所跡」の碑があった。

「大阪船手」とは「船の出入りを管理、掌握する江戸幕府の役職」だと説明にあった。その管理下に船番所があって、船の出入りの管理を実際に行っていたらしい。枚方にあった「番所跡」というやつだな。

このあたりにも番所が、船手会所の北側(木津川と安治川の合流部)と春日出(安治川河口部)、三軒家(木津川河口部)にあったのだって。前に行った三軒家の公園で「1684年、木津川口遠見番所が置かれた」と説明に書かれてあった。


川口交差点の北には安治川が流れていて、その向こうが山田道の元々の出発点あたりなのだって。

今は大阪市中央卸売市場になっていて、立入できない。

ここから左(北西)に行くと尼崎街道、右(北東)に行くと山田街道だったそうだ。

中央卸売市場のほうに渡るべく、一番近い橋のある昭和橋西交差点へ。橋が2つあって、片方は木津川を東に渡る昭和橋(土佐堀通り)。もう1つの左側の橋、端建蔵はたてくら橋を渡る。渡るのは土佐堀川。東から流れてきた土佐堀川が、橋の右手で木津川と分かれ、橋の左手で堂島川と合流している。

土佐堀川と堂島川は中之島があって2つに分かれていたけれどここで1つになり、名は安治川に。元は淀川の本流だった川だ。

水の都大阪の港だったあたりとあって、すごく複雑なことになっている。

橋を渡り終えると船津橋南詰交差点。ここも右と左とに道が分かれている。ここは中之島の西の端で、右側の下りの道を行くと、中之島。

左の道を行くと、今度は堂島川を渡る船津橋。

船津橋を渡ると、左手には大きくて立派な大阪市中央卸売市場本場。


船津橋を渡るとすぐ右折して、しばらくは川沿いを歩いて行った。

元々は低地で、家々もぼろっちくて、川があり、船があり、白黒写真が似合いそうな風景だったのだろうなあ、となんだか想像できるようなところだった。

新なにわ筋に出ると、一本左側の細い道に入っていってみた。このあたりはおかあさんの記憶も曖昧だったけれど、なんとなく面白そうな道だったから。

これが山田街道だった。わたしたちも道の目利きがちょっとはできるようになってきたのかな。中学校を過ぎると、天神社。通称「下の天神」だって。地名は玉川。

神社は幼稚園と一緒になっていた。寺や神社が幼稚園や保育園や公園と一緒になっているのは散歩あるあるの1つ。元はみんな境内だったけれど、公共の施設に分けて、小さくなったんだな。

詳細は不詳で、祭神はスクナヒコナ。大国主の国造りを助けた小人の神様ね。

菅原道真が大宰府に左遷されていくときにここに参り、「飢餓島」と呼ばれていた当地を「福島」と名付けたんだって。道真公が京から大宰府に向かうのに通った淀川沿いだからな。それにしても「飢餓島」って・・・。


いろんな神社が一緒に祀られていた。豊光神社(ウカノミタマノカミ)など。

神社の横の、今歩いてきた道は、曽根崎川(蜆川)だったところなんだって。川だったところが道になっている、これもあるあるね。

もう少し行くと左手に本成寺。ここは・・・来たことがあるぞ。

もう少し行くと下福島公園だった。前に野田や玉川あたりを散歩した時、うろうろしているうちにここにたどり着いて、堂島大橋を渡って帰ったんだった。

下福島公園の中を歩いてみると、野田藤がいっぱい育てられていた。藤邸なるお宅に残っていた野田藤を増やしたものみたい。野田藤は吉野の桜にも並び称されたという花。

秀吉公も花見茶会をもうけたし、春日社あたりは花見の名所で茶店などが並び、にぎわっていたんだそうだ。今回も春日社なるところには行けなかったのだけれど。


公園の東側はあみだ池筋で、そちら側には、かなり古そうな煉瓦塀が残っていた。

公園は元々、大きな紡績工場(現ユニチカ)だったんだって。その工場の塀だったらしい。

そばには「福島天満宮」とかかれた碑と祠があった。ここには「中の天神」と呼ばれた福島三天神の1つがあったそうだ。

下の天神が玉川の天神社で、中の天神がここ福島にあり、上の天神も福島に。

中の天神は空襲で焼け(紡績工場のレンガ塀は残ったけれど)、戦後も復興かなわず、今は上の天神(今の福島天満宮)に相殿として祀られているそうだ。

その実情が詳しく説明書きされていた。

復興のためのみんなの努力、けれど叶わず、諦めることになったこと。そんなことも、日本の人たちは適当に集まってわあわあ言って、結論が出て終わる、というようなやり方ではしないのだな。

その都度、きちんと組織を作り、次第を文書に残しているみたい。その時代にこの地に生きた人たちには、神社のあれこれは地域の重大事だったんだなあと思わされた。


あみだ池筋の堂島大橋北詰交差点から、道の続きを歩いた。

すぐ右手に「莫大小メリヤス会館」が現れた。

ここを流れていた曽根崎川が大正13年に埋め立てられ、5年後の昭和4年に1階部分が建ったんだって。すぐそばには中之島もあって、このあたりもモダンでハイカラなところだったのだろうなあと思わされる建物だった。

しばらく行くと、左手に「逆櫓の松跡」の碑があった。ここにかつて大きな松の木があって、その下で源義経と梶原景時が戦いの相談をしたと言われているのだって。

梶原景時は源頼朝の忠臣だから、義経もまだ頼朝の元で働いていた頃ね。海に逃げた平氏を追討するのに、景時は「船首にも櫓(逆櫓)をつけてはどうか」と提案し、義経が退けたんだって。

」は舟をこぐ「かい」のことで、船首にもつけると、船がバックすることもできるようになるみたい。義経は「進撃あるのみ、最初からバックすることは考えないぞ」という感じだったのかな?

すぐの上天神南交差点でなにわ筋と交差。ここを左折。


しばらく行くと、福島天満宮が現れた。「上の天神」ね。

「福島」の地名の名づけ親である菅公が亡くなったことを伝え聞き、菅公をしのんで祀られたらしい。菅公聖蹟二十五拝(特に菅公に縁のある天満宮25社)のうちの1社なんだって。道明寺天満宮や佐太天満宮、大阪天満宮もそうらしい。

裏参道は誰かの私有地になっているみたいで、自家用車が停められていた。

すぐそばにおでんの有名店「花くじら」。

このあたりは、面白いところだった。道がくねくねカーブして、入り組んでいる。その迷路みたいな道のそこかしこに素敵なお店が並んでいる。

路地の感じは昭和なのだけれど、そこにあるお店は平成(まだ平成時代だった)。シンプルな中に個性があるお店が並んでいて、妙におしゃれだった。いいな、こんなところに住むのって、と犬でも思ったくらいだった。


しばし散策してからなにわ筋を北上すると、すぐの浄正橋交差点で曽根崎通りと交差。

ここから南100mくらいのところに浄正橋がかかっていたらしい。流れていた川は曽根崎川(蜆川)。

もう少し北上していくと、JR環状線福島駅が現れた。ここの周辺も面白そうだった。JRの高架下には「福ろうじ」なる商店街があった。トンネルみたいに暗いところに明かりが灯されていて、雰囲気があった。

福島駅からは北西に向かうはずだったけれどうろ覚えで、福島6丁目交差点を左折してみた。

少し行くと、上福島北公園があった。周辺はなんだかすごい建物ばかりだった。シンフォニーホールとか、清風寺(本門佛立宗)、マンションも独特だし。あみだ池筋に出ると、道の向かいは金蘭会高校。これもなんだかすごい。

右折して浦江公園(広くて静かだった)を過ぎると、八阪神社が現れた。参道だったのだろうところが駐車場になっていて、鳥居の向こうに駐車した車が見えていた。

通称、大仁八阪神社。祭神はスサノオ。ここはかつて「大仁」という地名だったらしい。

近くに王仁わに博士の墓のある王仁大明神があったとかで、「大仁だいに」は王仁わにに由来するんだとか。

王仁博士って、15代応神天皇(仁徳天皇の父)の時代に百済からやってきて、天皇に仕えたと言われている博士ね。「難波津なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな」の作者。


じぐざぐ北上していった。

日本ペイントの本社などがあり、市街地なのに妙に静かだった。この感じからして淀川が近いな、となんだか分かった。大きな川のそばって、独特の静けさがある。

そして堤防に出た。


久しぶりの淀川堤防だった。といってもここは新淀川堤防だけれど。元々は淀川はここを通らずに南下していっていた。ここを流れていたのは淀川の支流の中津川で、じぐざぐに西に向かっていたのを一部利用して、明治時代に新淀川がつくられた。洪水対策の大工事ね。中津川は新淀川の南を流れる運河に変わり、それも昭和の時代に埋め立てられたのだって。

下の河川敷には、ワンドや、草ぼうぼうのグラウンド。懐かしい光景だった。

そして種が体中にいっぱい付くのも久しぶりだった。秋だなあ。

人っ子一人いなくて、わたしは自由に立ち止まったり、駆けたりした。足の裏にもトゲ種が付いて、何度かおかあさんに「とって」と訴えて立ち止まった。

リードにも千鳥みたいな形の種がびっしりついて、模様みたいになっていた。これが「千鳥格子」ってやつか?


堤防を東に向かっていった。

近くの草むらから、わたしが近づくと、雀が200匹くらいも飛びたった。

右手に阪急バスたちの休憩場所が見えた。新十三大橋(十三バイパス)を通り過ぎ、次に十三大橋。すぐ横には阪急電車の橋も2本通っていた。

十三大橋で新淀川を越えていった。なかなかに長い橋だった。渡っている間に隣を阪急電車が上下5本くらい通過していった。

左側の歩道を歩いていったのだけれど、向こう岸に着くと、「十三渡し跡」の碑があった。

ここには中津川の渡しがあり、茶店が並んでいたのだって。今も残るのが「十三焼き餅」のお店。

ここは昔から北の川岸だったところで、南の岸は、今は川底になっているそうだ。南に幅が拡張されたんだな。

新淀川を越えたら、淀川区十三じゅうそうだった。

元々の十三(中津村字十三)もまた、新淀川の川底になっているのだって。

橋の右側の歩道には祠が見えていたけれど、そこまで行くには大回りしないといけないみたいで、パスした。

そして、ここで完全に道がわからなくなった。おかあさんも十三橋を渡るところまでは記憶していたのだけれど、その先は土地勘もゼロで、まったく覚えておらず、見当もつかなかった。

新北野交差点で右折して、淀川通りを西中島南方駅(地下鉄御堂筋線)まで歩いて帰ることにした。


途中、神津神社があった。

ここも総社みたいなところだった。いろんな神社が一緒になって、ほとんど屋台みたいに並んでいた。

公園も一緒になっていて、祭りの時なんて楽しそうだった。

てくてく歩いていると、地名は木川になり、駅へ。大きな通りは一本調子で、どこも同じで面白くない。けれど淀川通りを外れたら、下町感のある面白いところだったみたい。

またもし山田道の続きを歩く気になったら、木川あたりもちゃんと歩いてみたいなと思った。

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