東高野街道を道明寺から
東高野街道の続きを歩くべく、道明寺に向かった。それからとりあえず道明寺そばのパン屋さんへ。
前回おいしかったから。昼時で、完売商品も多くて残念だったけれど、しょうがなく買ってみた玄米ロールとか、おいしかった。
そしてその南の交差点からが前回の東高野街道歩きの続き。この先、道なりに南下するだけで、時々道しるべも現れて、迷子の心配もなくて楽だった。
古い家が多くて、壊れかけのところも多々あった。左手に玉垣が見えて行ってみれば、前にも来たことのある「古代道明寺の五重塔礎石」。
古墳ブームが去って、氏寺ブームがやってきて、土師氏も土師寺を建てた。
土師氏は、アマテラスの子であり、オオクニヌシに国譲りさせるという任務を与えられながらオオクニヌシに心服して帰らなかったアメノホヒの子孫ね。野見宿禰のときに相撲の御前試合に呼ばれ、11代垂仁天皇に古墳づくりで重用されるようになった。
それから平安時代、土師氏の一族には菅原道真もいて、おばが土師寺の尼僧をしていた。それで左遷されて九州に赴く前に「道明寺のおば」を訪ねて行ったわけね。菅原道真は号(ハンドルネームみたいなもの)を道明といい、後に土師寺は道明寺と名前を変えたんだって。
後の戦国時代、織田信長の高屋城攻めで多くが焼け落ちた。当時、足利義昭と織田信長は反目するようになっていて、義昭側の高屋城を信長が攻めたらしい。五重塔もその時に消失したのだって。
街道の右手には、「弘法大師御休石」が祠に祀られていた。東高野街道は東寺と高野山とを結ぶ道だったから、弘法大使こと空海も歩いていた。
高速(西名阪)の下を通る前、左手に「新町」と書かれた神灯台が現れた。道明寺の駐車場にもあったように思うのだけれど、何なのかな。
旧国道170号線と交差して、このあたりはカラー舗装されていた。
右手に倍塚らしきものが現れた。「応神天皇恵我藻伏岡陵倍塚」だって。恵我って、「餌香の市」なる市が古代に開かれていたというところだ。エガはこの辺り一帯の呼び名で、市があったのは国府か古市か、と言われているみたい。
そして続きを歩けば、右手には、大きな応神天皇陵が見えてきた。大きいのもそのはず、仁徳天皇陵の次に大きいそうだ。盛った土の多さで言うと仁徳天皇陵を越える全国1位。ほとんど森のようだった。
周りに家々がないと想像しながら歩くと、素敵な道だった。少し丘になっていて、遠くの山々も見えた。前にも歩いた覚えのある道だった。
そして久しぶりの誉田八幡宮へ。前に来たときは、名前も聞いたことのなかった神社なのに、その大きさに驚いたものだった。応神天皇についても、神社一般のことについても、まだほとんど知識もなかった頃だった。この時は少しわかるようになっていて、天皇万歳の頃に大きく立派にされたのだろうな、と感じた。そんな作為的な大きさに感じられた。
道の続きを道なりに南下していった。玉水町という文字が目立った。
それから近鉄南大阪線の線路を越えて、古市駅の近くを通った。線路のところにお寺(金田寺と勝光寺)や、村中安全の灯篭などが固まってたっていて、その間を線路が割り込んで通っていた。
古市小学校あたりで道がつきあたり、一本左側の道にうつる。
右手に古い鳥居が現れて、参道を進んで行ってみた。参道の右には古市小学校、左には青少年会館、そして普通の民家も並んでいた。階段を上って行ったところが白鳥神社。前に来たことのある、古市駅のすぐ横の神社だった。
元々は白鳥陵の上にあった神社だそうだ。ヤマトタケルが遠征先で亡くなったあと、白鳥となって飛んできたというところの1つが白鳥陵。
それから再び「羽を曳くがごとく」飛び立ったので、「羽曳野」の地名になった。
「鳥坂」「鳥取」に「白鳥」、西に行けば「百舌鳥」に「鳳」、鳥関係の名の多い一帯だなあと思った。
東高野街道に戻るべく参道を引き返していると、鳥居の下を車も通っていた。鳥居が結構低いものだから、珍百景に選ばれそうな光景だった。
それから南下を続けると、なんだか空気がしんとしていた。このあたりからはもう「古くて当たり前」って雰囲気だった。
ここまでの途中にあった蓮休寺あたりみたいに古さがどこかに集められているのじゃなく、でんとあちこちに居座っていた。交差する旧道っぽくカーブした道もみんな、大物の風格だった。相当に古くからの相当に大きい集落だったんだろうな。
古市という名の通り、やっぱりエガ市があったのはここだったんじゃないの?と思わされた。
左手に西淋寺なる寺が見えて、吸い寄せられて行った。遠目にも存在感が感じられて、大物の感じがした。近づいてみれば、今は小さなお寺だった。けれど飛鳥時代に建てられたときのものらしき塔礎石は巨大で、どんなに大きな塔だったか、と説明されていた。重さ27トンだって。
屋根の鴟尾も見つかっていて、類まれな見事なものであるらしい。
王仁博士の後裔、西文氏が建てた寺だと言われているそうだ。これも氏寺ブームのときの創建で、かつてはもう少し南の竹内街道まで境内だったのだって。
王仁博士って応神天皇の時代に百済からやって来た人で、「さくやこのはな」の和歌を詠んだ人ね。
「福島あたり(大仁)に王仁の墓がある」と言われ、「高石神社には王仁が祀られていた」とも言われる、という人。子孫の西文氏は文筆に関わり、田辺史なども束ねていたという人たち。
15代応神天皇の時には、いろんな渡来人たちがやってきている。王仁博士の他、一緒にやってきた百済王族の辰孫王(葛井氏や船氏の祖)、秦氏の祖とされる弓月君とその仲間たち、韓鍛治タクソなる人や、呉服さん、アチノオミ(東漢氏の祖。子孫に坂上田村麻呂がいる)など。
鉄も陶器も衣類も大陸からの技術で大きく進化した。
応神天皇の頃から古墳が大型化するのも、秦氏などの渡来人の土木技術があったからなんだって。
古い道標があって、竹内街道と交差した。久しぶりに見る「竹内街道」と書かれた小さな植木鉢。
竹内街道、大乗川、近鉄南大阪線と続けざまに越えていくと、しばらく歩道のないカーブした上り道だった。
右手の狭い階段の上に何か見えていて、行ってみると、石仏などが集められていた。祠は近代的なものだった。道路や線路ができるに際してここに集められたとかかな?
道に戻って、続きを歩いた。左手に山がきれいだった。
少し変わった地形だなと思ったら、この坂道は、高屋城の裏門だったところなんだって。通称「不動坂」。
高屋城って「道明寺の多くが信長の高屋城(徳川義昭側)攻めで消失した」の高屋城ね。
不動坂からすぐ、右手に安閑天皇陵が現れた。正式名は古市築山古墳で、安閑天皇の陵かな?ってことだった。
安閑天皇は26代継体天皇の息子。即位する前に妻だった尾張氏の娘が産んだ息子が、即位後に結婚した皇后の産んだ息子が29代天皇(欽明天皇。聖徳太子のおじいちゃん)になる前、27代安閑天皇と28代宣化天皇になっている。
古市築山古墳からは、ササン朝ペルシア(226~651)の6世紀のガラス碗なども出土しているそうだ。正倉院に保管されているものとそっくりなんだって。
地中海あたりで制作された古い時代のガラス製品って、あちこちで出土しているらしい。沖ノ島(神の島とも呼ばれ、宗像大社があるところだって)、奈良の橿原(かなり古い時代のもの)、上賀茂神社など。仁徳天皇陵からも出土していて、けれど再び戻され、詳細は不明らしい。富田林の廿山南古墳でも見つかったそうだ。
古墳時代って、案外国際的な時代だったのかな。
広い通り(旧国道170号線)に出る手前で、左手の細い道に進んだ。玉垣があって、姥不動堂が現れ、「高屋城趾の碑」もあった。
説明によると高屋城は、安閑天皇陵を本丸とした城であったらしい。古墳に人が住み暮らしていたとか、盗掘にあったとかは聞いていたけれど、本丸にしたパターンは初めてだった。いったん旧国道170号線に出るけれど、城山交差点の信号を渡ってすぐ、左手に現れる道へ。
しばらく行くと高屋神社が現れた。
物部氏の一族、高屋氏の氏神だって。ニギハヤヒの10世孫が高屋氏の祖であるらしい。
安閑天皇も一緒に祀られていた。安閑天皇と縁の強い人たちだったらしくて、古市一帯に勢力を持っていたんだって。安閑天皇の妻には物部氏の娘がいる。
今では小さな神社だった。いったん白鳥神社に合祀されてしまっていたらしい。
それからどんどん南下していった。
しばらくは地名は古市で、古い道標があったり、墓地があったりした。山も近くなってきた。
高速(南阪奈)の周辺は工場地帯だった。金属のリサイクル工場とかあって、騒音もかなりのものだった。
けれど高速を過ぎると、田舎町だった。かなり大きな旧家の集まりで、古くから集落があったから、そのまま田舎でいられた感じ。水守という地域らしかった。
このあたりは壺井とか広瀬とか、興味深い一帯のようだったけれど、街道自体はなんてことのない単調な道で、何も気づかずにさくさく通り過ぎてしまった。
旧国道170号線がぐっと近くなり、右側にも山が近づいてきた。このあたりの地名は東阪田。なんだかその名に誇りを持っているみたいな名乗り方を方々で見た。
新しい家もあった。駅が近くにあるから過疎になるのを免れた感じのところだった。
西向寺があった。お寺の名に「西」がつくことが多いのも、西に極楽浄土があるという考えの関係なのかな。
喜志駅が近くなり、バスは上の太子行きだったりした。上の太子にもそう遠くないみたい。
喜志交差点で旧道170号線に合流。喜志南交差点まで南下したところで、喜志駅(近鉄長野線)から帰ることにした。PLの塔が見えていた。遠くまで来たもんだ。




