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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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天王寺

初めて人身事故に遭って、降りた天王寺駅からもうおうちに歩いて帰ることにして、とりあえず天王寺公園に向かった。てんしばの北側の道から。

久しぶりの天王寺だったけれど、残されている自然に、ちょっと感動した。今までよくわかっていなかったけれど、よく見れば、よくこんなに残せたものだなと思う規模で自然が残っていた。公園の面積は26ヘクタールだって。

住友家本邸跡地に戦前に建てられたという市立美術館の前を道なりに進むと、一心寺の裏手あたりだった。このあたりは、自然も残っているし、高低差もあって、面白いところだった。かつては岬みたいに河内湾にはりだしていた、ダイナミックな光景の崖あたりだったのだろうかなあ。

四天王寺に近いこのあたりに法然が草庵をつくって住んでいたことがあり、後にその法然縁の地に一心寺が建てられたそうだ。法然は浄土宗の開祖で、浄土真宗の親鸞の師。当時、西に極楽浄土があるとされ、上町台地から西の海に沈む夕日を眺めながら極楽を感じる、みたいなことが流行していたそうだ。ここに後白河法皇もやって来て、法然とともに沈む夕陽を見ていたこともあるのだって。


坂を上っていくと、茶臼山だった。前に来た時よりも整備されて、きれいになっていた。

茶臼山から見ると、紅葉した森みたいな木々の向こうに通天閣。ハルカスも見えた。都会の紅葉もなかなか面白い。ビルディングと紅葉の対比がなんだかすごい。

前は改修中だった河底池の橋も、きれいになって赤く塗り直されていた。前は真田幸村のファンくらいしか訪れていなかったけれど、外国の人の姿も見えた。

道は曲がっているし、高低差はあるし、よく分からないまま歩いていると、四恩学園のたまみず園(児童養護施設だって)の近くに「玉手水旧跡」の碑があった。

玉手水は一心寺の西の高台からしたたり落ちていた水のことだって。前に天王寺の七坂を歩いた時、清水寺に玉出の滝があった。今や大阪市で唯一の滝であるらしく、ちょろちょろと流れ落ちていた。

玉手、玉出・・・柏原の玉手山や西成区の玉出とは関係ないのだろうかな・・・。


それからよく分からないままに恵美須東交差点にたどりついた。そこからまっすぐ通天閣へ。新世界稲荷神社なんかがあった。

大正時代、ルナ・パークがあったところだ。そして、ここでまた迷子になった。おいしそうなお店がごじゃごじゃあって、ふらふら歩いたから。

その後、どうやらジャンジャン横丁を歩いていたみたいで、JR環状線のガード下へ。

その向こうには「動物園前1番街」なる商店街が見えたので、そこを南下していくことにした。ちょっとアヤシイ感じの一帯だった。

左にはハルカスがすぐ近くに見えていた。ハルカスと同じ道筋にあって、距離も500mくらいしか離れていない。けれど、こんなにも違う世界があるんだな・・・。

動物園前1番街には「ディープ大阪ストリート」という文字が踊っていた。けれど、ほとんどの店にシャッターが降りていて、あまりディープ感は出ていないように思えた。

ただしごちゃごちゃした脇道に入っていくと、ディープ感満載だった。独特のタイルばり、ドアにつけられた斜めの取っ手とか、これは赤線、青線などにあった「カフェー」以外のなにものでもないんじゃないかって建物が、かなりの量、現存していた。

戦後、GHQの指導で公娼制度が廃止され、遊郭もなくなったけれど、警察も必要悪として黙認していた地域があって、それが赤線。地図上で赤く囲っていたからだって言う。青線は、そんな赤線の周辺にできて、取り締まりも緩かった地域のことかな。


1番街の終わりには公園があり、次は2番街。公園は「山王みどり公園」。普通の公園でありながら開園時間が設けられている(10時から17時まで)という西成独特の公園で、おじさんだけが座っていた。

このあたりは、前にも散歩で歩いたことがある気がした。公園の前の三洋荘なる建物の、すごい存在感とかにも覚えがあった。

2番街には音楽も流れて、なかなかににぎわっていた。スーパー玉出もあった。けれどアーケードで陽が差し込まず、暗くて、独特の雰囲気を醸し出していた。

「男の美学 20代30代は男に成りたい 40代50代は男でありたい 60代70代は男として死にたい」とか書かれていたりする。女性の姿も普通にあるけれど、やっぱりここは男の町って感じがした。

立小便禁止という、これも西成独特の張り紙が目立った。脇道も全部が商店街だったみたいで、おびただしい数の看板が脇道にも続いていた。今のJR鶴橋駅周辺みたいに、商店街が交錯して町が作り上げられていたようなところだったのだろうなあ。

途中から左手に、昼間だというのに提灯に明かりがついている通りが見えた。「飛田料理組合」という文字も見えて、いわゆる飛田。

飛田交番があって、その前に飛田新地大門跡があった。遊郭は川や塀に囲われてつくられていて、大門や橋でだけ行き来できていた。大門跡の説明文には「現代も地域の人々に親しまれています」・・・って、本当に?


商店街の名が新栄会となって、左には弥生町などと見えた。このあたりも飛田だ。

今船近くのロータリー跡に出て、また続きを南下していった。このあたりは前にも歩いたことのあるところ。紀州街道などを通って帰った。

途中、「民泊反対」の手書き文字が一軒一軒に貼られている一角があった。

あの頃はインバウンドの最盛期だった。地元でも民泊がけっこう増えていっている頃だった。

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