玉手山
玉手山は、道明寺から石川を越えた東にある。
道明寺から石川にたどり着く前に、水路を2回渡った。天野山金剛寺が思い出された。天野山金剛寺には、広い境内に水路がめぐらされていた。まるで見当違いかもしれないけれど、このあたりもみんなかつては道明寺の境内で、そこにめぐらされた水路だったのかも、と思った。
道明寺駅があり、右手にある踏切を渡ると、すぐ石川だった。すぐ右手の玉手橋で石川を渡った。川のこちらが藤井寺市、川の向こうが柏原市。
つり橋だろうか、橋が、なんだかすごい存在感だった。渡り終えたところに書いてあった。「昭和3年に作られた吊り橋で、有形文化財である」。なるほど。
橋を渡ると玉手交番があり、その前の道を右に進んでいった。
柏原は、キケンだ。道が迷路みたいで、歩いているうちにどこを歩いているかも分からなくなる、そんなイメージがあるので、歩くつもりの道をメモしてやって来ていたのだけれど・・・もう分からなくなってしまった。
適当に歩いていると神燈台と「玉手山公園 0.5km」の案内が現れて、矢印の方向へ進んでいってみた。
途中、ポストのある酒屋さんの前を右折。道は2つに分かれて、左は上り坂になっていた(玉手山方面)。ここは右へ。行きたいと思っている伯太姫神社が、多分、こっちの方向なのだ。
長谷川小学校があった。大阪市立の小学校であるらしい。前に枚方に大阪市立高校があってびっくりしたけれど、小学校にもびっくり。
大正時代、大阪は「大大阪」と呼ばれる大都市となっていて、公害もひどかった。そこで長谷川さんが大阪市に寄付してくれた土地に虚弱児童用の郊外小学校を設立したのが始まりらしい。虚弱児って、排気ガスによるぜんそく児とかかな。
雰囲気ががらりと変わり、古い集落に入っていった。地名は円明町。円光寺が現れて、そのまま進めば、すぐに伯太姫神社への参道だったみたい。なのに、ここで左に曲がってしまった。梅之家神社が現れて、なにかと上っていってみると、普通の家があるだけだった。
近くに緑が見えていて、どうやらあれが伯太姫神社らしいぞと入口を探して、どんどん参道から離れていった。1つしかない参道に向かって反時計回りに行けばすぐだったのに、時計回りに進んだものだから、伯太姫神社の周りをぐるりと1周していたみたい。それでへとへとになりながら、どうやら開発されていないままらしい神社の神域の広さを知り、期待が高まっていった。もしかしたら大物かも。
やっと到着した参道を進むと、神社のすぐそばまで家があり、けれどその向こうの階段から先には誰もいなかった。
割殿らしき拝殿の向こうに石垣が積まれ、更に高いところに本殿があった。注連縄が、2つ垂れた房みたいなタイプ。初めて見たかも。
そして、その奥には神さまがいた。その日、神様がそこにいるのをはっきりと感じた。
何年かしてもう一度行ったら、神域の森周辺に新しい家々が建っていた。神さまの気配はもうしなかった。どこかに移ったのだろうな。
神社を去り、梅之家神社の前を通り、玉手山公園へ向かった。
玉手山公園は、かつて遊園地だったそうだ。明治41年から平成10年まで存続したらしい。玉手山の高低差を利用した、ひらパーみたいな遊園地だったのかな。南門にたどり着いたのだけれど、今も開門時間が決まっているようだった。渡ってきた玉手橋は、道明寺駅から玉手山遊園地に行くためにかけられた橋だったのだって。
そして公園には、「犬の散歩禁止」「ペットを公園に連れてこないでください」の文言が見えた。
ここを通らないと、どれだけ迷子になって、どれだけ遠回りすることになるのやら。だって柏原だ。
おかあさんはわたしをバッグに入れて、公園を突っ切ることにした。「きっつ~」って言っていた。かなり急な上り坂だらけだったしな。
「後藤又兵衛の碑」「古墳石室」「小林一茶の句碑」などが固まってあるところを抜けたら、東口だった。
思ったよりは距離はなくて、「助かった」とおかあさん。
玉手山では、古墳もいくつか見つかっているそうだ。
玉手山丘陵地帯で見つかったものを玉手山古墳群と呼ぶらしく、そのうち古いものでは前方後円墳と円墳があるらしい。説明には「5世紀頃のもの」と書かれていた。
けれど実は古墳時代前期前半(3世紀後半から4世紀初めのころ)のものだと分かってきていて、その時代のこんな大規模な古墳群って、他には大和にしかないらしい。
ミステリアスな玉手山遊園地跡だった。
大和の古墳群って、まだ行ってないし、知らないのだけれど、纏向古墳群(前方後円墳発祥の地とされている)と柳本古墳群あたりが古墳時代前期前半のものらしい。
前方後円墳は大和朝廷独特の形と聞いたことがあるから、玉手山古墳も初期の大和朝廷に関わる人たちのお墓だったのだろうな。
被葬者は石川の川向いに勢力を持っていたと思われるそうだ。
石川の向こうは志貴縣主神社のある志紀郡だったところ。神武天皇の息子、神八井耳命の子孫、志貴県主がいたといわれていたりする。神武天皇に下ったオトシキにも関わりが深そうな人たち。
神武天皇が東征にやって来るまで、関西では出雲系(オオクニヌシの一族たち)が力を持っていたみたい。新興勢力の神武天皇がすぐに権力交代できたと思えないし、自分に下った出雲系の権力者オトシキを丁重に扱ったはず。「下った」というのも本当のところはどうか分からないけれど。
河内のナガスネヒコに盾津で撃退された神武天皇は今度は南から攻め入ることにして、どんどん北上。大和の磯城に住むエシキ、オトシキを、エシキは殺し、オトシキは懐柔することで突破。最後にナガスネヒコと再び戦って勝利した。神武天皇の息子のカンヤイミミは磯城に住んだそうだ。
地図を見ていると、御所に玉手というところがあった。近くには柏原も。なにか関係はないのかな?
御所あたりは葛城氏の本拠地で、子孫には玉手氏がいるんだって。玉手、玉手山、志貴、磯城、葛城氏・・・なにか関係がありそうで、頭がもやもやした。
玉手山では弥生時代後期の住居跡も見つかっていて、鉄の鏃なんかも出土しているそうだ。高地性集落だったのだろうな。
そして大阪夏の陣では後藤又兵衛がここで戦死。道明寺の戦いと呼ばれる、濃霧で真田幸村らの軍が進めず、先陣の後藤又兵衛の隊だけで戦って壊滅したという戦いね。後藤又兵衛はここ、玉手山に陣を敷いていたのだって。
後藤又兵衛の死を知った真田幸村らは、危機を迎えている大阪城に引き返し、その途中、平野の志紀長吉神社で勝利を祈願。けれど翌日には幸村も天王寺で戦死した。
時が過ぎて、小林一茶は旅の途中、道明寺などに参り、景勝地として有名だった玉手山にもやって来て、句を2句詠んだそうだ。
初蝉や 人 松陰を したふ比
わかるなあ。わたしも暑いと、日陰ばっかり選んで歩くようになる。
次は伯太彦神社に向かった。金山ヒコと金山ヒメ、鐸ヒコと鐸ヒメみたいに、彦と姫が対になった神社の片いっぽう。
やっぱりまた道に迷ってしまって、安福寺の裏庭にいた。玉手山の麓あたりの。わたしはバッグの中へ。
時は11月半ば。すごくきれいだった。山の庭って、こんなにきれいなんだなあ。河内長野の延命寺に比べたら規模も小さかったけれど、思いがけなかった分、息をのんだ。黄色の葉が日に透けていた。
こんな住宅地の近くに、こんなに山の雰囲気を残した静かな場所があったのか、という驚き。ここはお寺というより、庵みたいな雰囲気のところだった。
玉手山公園は今も安福寺の所有らしい。柏原市が借りているのだって。元は玉手山公園の場所もみんな安福寺の境内だったそうだ。
安福寺もまた行基に始まると伝わるお寺だそうだ。
いくつか門をくぐり、表門に向かっていった。
手水鉢みたいに置かれている石棺の蓋があった。玉手山の古墳から出てきたもので、実際に手水鉢として使われていたらしい。今は重要文化財。
精巧な模様が施されていると説明があって、よく見ると縁に細い模様がなんとなく見えた。使われている石は香川県のものらしい。古墳時代、香川から舟で運ばれてきたのだろうな。
そして、「わわわ!」
この日は驚くことばかりだったなあ。
「安福寺の横穴墓」については、ここに来るまでにも言葉では知っていた。けれど、こんなにインパクトのあるものだとは想像もしていなかった。ど肝をぬかれた。
大きなみつばちの穴みたいなのがぽこぽこと、木々の下の傾斜部にいっぱい開いていた。その存在感。知らずにこんなのを見たら、超巨大イモムシの巣か!?とか思ってしまいそう。まさかこれが「横穴墓」なんていう、ありきたりな漢字三文字でまとめられるものだとは。
横穴墓は古墳時代後期、権力も分散していった頃の墓なのだって。まあ仁徳天皇陵に比べたら、数人で掘ったトンネルってところ。横穴の壁には絵が描かれていて、騎馬する人のイラストとかもあるんだって。
うわ~すげ~な~と思いながら更に表門に向かって行った。入口あたりに「聖徳太子の石棺か?」という新聞記事が貼られていた。安福寺に乾漆棺と呼ばれる棺がいつからか保管されていたそうだ。乾漆棺は重ねた布を漆で固めて作った柩で、古墳時代終期に使われていたらしい。ただでさえ高貴な人に使われる棺だったけれど、安福寺に保管されていたものは、幾層にも重ねて使われている布がシルクだったそうだ。相当に高貴な人のための棺だったと思われ、聖徳太子の棺かもと言う人もいて、NHKで特集されたそうだ。
なんだかすごい安福寺。町中にあって、古墳時代とトンネルでつながっているみたいな。なのに人っ子一人いなくて、すごく贅沢な時間だった。
表門を出ると、すぐ横が伯太彦神社だった。伯太彦神社は、伯太姫神社に比べたらありきたりの、ちょっと忘れられかけた感じもする神社だった。伯太姫神社は古くからの集落の円明町にあるけれど、伯太彦神社の周りには玉手山公園と新興住宅地ばかりなのかな。
「伯太姫神社と同じく、田辺氏の氏神として祀られたものだろう」と説明書きされていた。伯太姫神社にはなにも説明がなくて(あっても気がつかなかった)、それで充分だった。説明なんていらない凄みがあった。
けれど、田辺氏の・・・だったのか。その名前は、河内国分駅の南に田辺があって、そこに鎮座する春日神社で目にしたことがあった。春日神社は田辺さんの氏寺と言われる田辺廃寺のあったところ。
西文氏(応神天皇のときにやって来た王仁博士を祖とする渡来人たち)の下で文筆記録を行っていたそうだ。石川流域(安宿郡)を本拠地としていたらしく、中心地が田辺廃寺あたりだったのかな。ここはその田辺廃寺から原川をはさんで西に1kmくらいのところ。
後には京田辺に移り、藤原不比等を養育したと言われていて、藤原不比等が任された大宝律令や日本書紀の編纂にも関わったそうだ。
道を進むと、まだ少しの間はいい雰囲気だった。このあたりは本当は、河内長野の延命寺周辺のようであったのだろう。市街地化してしまっているけれど、このあたりだけはまだかつての姿を少し残していた。
ただ、普通の公園にも、大きく「公園に犬を連れてこないでください」と書かれてあった。このあたりは、どこも犬NGなのかな・・・。
道が下りと上りに分かれていて、下りの方向に進むと石川に向かうようだった。上りの方に進んでいくと、すぐに下りに変わり、片山神社のそばに出た。ここは、もうお馴染みの感がある。
片山神社の向かい側、古い片山の集落に、神燈台のあるところから入っていき、大和川に出た。東の国豊橋で大和川を渡るべく右折して、堤防を歩いて行った。
国豊橋の前に原川を渡る、赤い橋ももうお馴染み。この橋も、なんだか玉手橋と同じように歴史を感じた。昭和初期とかにできた橋なのかな?
国豊橋を渡り、右に進むと白坂神社があって、高井田駅(JR大和路線)もすぐだった。
白坂神社は入口が1つしかなくて、中には会館なんかが共存していて、やっと存続している感じの神社だった。
本当は天湯川田神社と高井田横穴公園にも行くつもりだった。だけど、もう帰ることにした。なんというか、おなかいっぱいだった。神のいた社、巨大いもむしの穴のような横穴墓群、素敵な紅葉の桃源郷。一日分を堪能し尽くした感じがした。
それに、犬NGの公園ばかりで、ろくに休憩もできなかったし。
うちに帰ってパンを食べて、ゆっくり休んだ。




