観心寺・延命寺
南海ハイキングのコースを歩いてみることにした。
マップ5、観心寺・延命寺コース、家族向き、約8㎞、2時間10分コース。
「コース全体が、公園のよう」というキャッチコピーだった。11月上旬、期待していた東高野街道がほぼ秋を感じられる道ではなかったから、紅葉を愛でる散歩に行こうと思ったのだ。
歩いてみると、なるほど、ウォーキングじゃなくてハイキングだった。山あり、古い集落ありの。
南海高野線河内長野駅で降りたった。高野街道の通る町。何度か登ったことのある金剛山に行くときに降りる駅。
東出口から出ていって、まずは線路沿いに南下。
前に歩いた高野街道は、駅の西側からスタートして、南海高野線からそれほど外れずに千早口駅に向かった。駅の周辺には昭和な感じの商店街などもあった。
今回は東側から千早口方面を目指す。駅を出たところから、既に鄙びれていた。
この先、道中にはコンビニも何もなかった。延命寺付近で焼き芋を売っている小さな商店と、千早口駅前に田舎の小さな商店があっただけ。
そして、代わりに(?)、公衆電話ボックスが当時はまだけっこう現存していた。時代がちょっと違っているところだった。
歩き始めてしばらくすると、道が3つに分かれるところに出た。ここは真ん中の道に進み、すぐに川を落合橋で渡った。川は石川。柏原で大和川と合流するあの石川。
河内長野から錦織、富田林、古市、土師ノ里と流れていく。どこも、歩いているうちに古代に国際色豊かだったと印象を持つようになったところばかりだった。石川つながりだったのか、と腑に落ちた。国際色豊かな河内と、石川でつながっていたんだな。
川は、下りていって遊べるようにもなっていた。今時、めずらしいな、とうれしかった。散歩していると時々ある。
落合橋を渡ったところには古い川辺の旅館風の建物が建っていて、如来会館とあった。アジア文化芸術連盟の建物で、日中友好協会などが入っているらしかった。
会館を越えて、左手の階段を上っていくと、長野公園。前に知ったことには河内長野には長野公園と冠する公園が点在していて、ここはそのうちの「長野地区・奥河内さくら公園」。
「河内長野荘」への矢印に向かって上り坂を進んで行くと、河内長野荘と、その奥に妙長寺があった。
河内長野荘は近代的な天然温泉旅館だった。けれど歴史は古いらしい。河内長野って、大正の頃には高野山への最寄駅で、温泉もあって賑わっていたというから、その頃からの温泉旅館なのかな。
妙長寺には「北辰妙見大菩薩」と書かれたのぼりがいっぱいたてられていた。
妙見さんは北斗七星や北極星を神格化したものということだった。北辰というのも北極星のことらしい。北極星を菩薩におきかえて「妙見菩薩」「北辰妙見菩薩」「北辰尊星王」とかいうのだって。ほか、鎮宅霊符神や天之御中主大神におきかえられたりもしているそう。
お寺の下は谷になっていた。その向こうに道路が走っていなければ、鄙びた雰囲気が素敵だっただろうなあ。
このあたりはどうやら長野公園の外周部だったらしく、途中にある階段を更に上っていくと、広い公園内に入って行けたみたい。けれど道なりに進んで、あっという間に長野公園(奥河内さくら公園)を過ぎ去った。
そのまま進んで川を越え、谷の向こうに見えていた道路を進み、右折。
しばらくこの道を進んで行った。左手に階段が2回現れ、その間にお寺の門があった。階段を上っていくと、長野公園(河合寺地区・もみじ公園)だった。
階段の上に河合寺があり、その一帯が長野公園になっているのだろうな。桜の名所として有名で、河合寺は蘇我入鹿創建と伝わるそうだ。
今回はパスすることにして、先を急いだ。
河合寺交差点からまっすぐ進むと、観心寺。これから観心寺に向かおうというのに、ハイキングMAPでは、ここを右折することになっていた。
なんだか最近できた感じの、きれいな町。しかも、ず~っと続く坂道だし・・・。
まっすぐ進めば、古い集落を抜けて、すぐ観心寺なのに、なぜに遠回りさせてこの坂を上らせる?とかえって興味をひかれ、MAPに従って右折して、広い坂道をのぼっていった。
地名は大師。古い集落っぽい地名だし、ほんの少しだけは古い家も見えた。けれど、きちんと区画整理されたきれいな住宅街。
ひたすらの上り坂だった。しかも決して緩くはない勾配もずっとほぼ同じで、運転休止して自分で歩かないといけないエスカレーターを歩いているみたいだった。ずっと上の方を見ていると、電動自転車でも無理そうな気がした。無理じゃないにしても、毎日上っていたら、すぐにモーターがだめになりそうな・・・。
このあたりで自転車は一台も見なかった。布施みたいに、よろよろのおばあちゃんでも自転車に乗っている光景は、大阪平野だからこそ見られるものなんだな・・・。
この町はいつつくられたんだろう、と思いながら進んで行った。このきちんと開発された感じは、きっと古くはないだろう・・・。
後で見た説明によると、昭和45年に開発が始まったそうだ。坂の途中、いつしか、山鳥かな? 鳥のトゥルルルって囀りが聞こえ始め、振り返ると、後ろの山(長野公園・河合寺地区)とほぼ同じ高さまで上ってきていた。山の上の方に見えるお寺が、河合寺奥院だろうかな。
やっと坂道が終わり、平地になって、中学校があった。高地性集落とかだった感じだなあと思った。
中学校の周りには古墳の出土品などの説明のレリーフがあって、ここに大師山古墳があったらしかった。
昭和45年に住宅開発が始まり、遺物が出土したことで判明。4世紀後半の前方後円墳が見つかり、出土品はかなりの量になったらしい。
そして更に遡り、弥生時代後期(2~3世紀)の高地性集落の跡も見つかったのだって。やっぱりな。
高地性集落は低地の集落とは異なり、戦時の見張り台や逃げ場所のための集落だったと説明に書かれてあった。弥生時代後期って、河内では戦国時代だったのだろうな。
中学校でつきあたって右折すれば、古墳跡があったみたいだけれど、気づかずにコース通りに左折して、次のつきあたりまで進んだ。
中学校あたりが一番高いところかと思いきや、またもや上り坂。地名は楠台だった。ここはニュータウンなのだろうな。道路を挟んで右手の住宅地は、更に高台にあった。
静かな住宅地だった。道はまっすぐだし、きれいすぎて、散歩するには面白みに欠ける町だった。不審な点検・勧誘お断り 警察を呼びます」みたいな張り紙があちこちの家に貼られていた。
またつきあたり、つきあたりの向こうはこんもり山みたいになっていた。なんだろうと思いつつ右折して、信号で左折。
ここからは下りで、上ってきた後ろを振り返ると、街が遠く眼下に広がっていた。
さっきの「こんもり山みたい」なところの横を通った。山みたいに見えただけで、ほぼ一列に木々が並んでいるだけだった。造成された町の、フェンス的な役割をしているみたいに見えた。ここから内側は守られたニュータウンです、みたいな。
こども園があって、清見台東口バス停を過ぎるとみかん畑があって、そこから先は突然に山だった。「造成された町」の外側。
木々のフェンスの向こうとこちらでは別世界のようだった。
右手に鳥居が現れて、階段を上っていった。「かさ松大善神」と書かれてあった。
赤い色がくすんでいて、少しさびれた感があった。木々もあまり元気がない。河内笠松神社だって。
階段を上っていく境内には人っ子一人いなかった。このままではなくなっていきそうだった。
そのまままっすぐ行けば、ほんの500mくらいで観心寺。けれどここでまたハイキングマップは遠回りをさせようとしていた。
左手の階段に上がっていった。ここは長野公園(観心寺・丸山地区)。「コース全体が、公園のよう」がキャッチコピーだけに、公園経由で観心寺に行かせようとしているのかな。
階段道をどんどん上がっていった。
そのうち階段がなくなり、どんどん進んでいった。既に山中だった。そして、山を抜けるまで、たった一人の人にも会わなかった。最初に「長野公園」に迷い込んだときに思い知ったけれど、公園と言いつつ、ほとんど山なのだ。
この先行った観心寺や延命寺あたりは、多くの人が歩いていた。けれど、みんなその界隈を歩くだけで、ハイキングコースを歩く人なんてほぼいないみたい。
だ~れもいない山の中には、丸山展望台があった。「奥河内楠公の里パノラマ展望」とあった。
壮大な感じを想像させられるけれど、それにしてはなんだかミニサイズだな・・・と思いながら展望台の階段を上っていった。
上ってみれば、素敵だった。あちらには大阪湾と淡路島、こちらには金剛山系、かな。遠くの方まで見渡せた。
けれど誰もいないし、先を急ごうと、長居したがるおかあさんをせっついた。
そのまま山中の道を進むと四つ辻だった。1つはさっき上ってきた長野公園「くずの口」へ、1つは長野公園「中央口」(くずの口と観心寺の間に出る)へ、1つは観心寺へ、そしてもう1つは富田林へ。
観心寺方面への上りの道を進み、あとは観心寺の矢印にそって歩いていった。
誰にも会わないし、途中で道を間違っていないという絶対の自信はなかったし、山中でイノシシに遭遇しないとも言い切れないし、少々心細かった。
おかあさんは考えていたそうだ。熊もイノシシもオオカミもいたような時代、人気のない山の中を歩くのは怖かっただろうな。日が暮れてくるかもしれない。地図もなく、道だってちゃんと続いているとは限らない。
怖くて、すべての道が、邪や獣の来ない道であってほしかっただろう。そんなとき、祠の類があったら、どんなに心強かっただろう。山がご神体であった、というよりは、神域として、怖くない場所にしたかったのかもしれない。そして、犬を連れて歩くことは、心強いことだっただろう。動物の気配を感じてくれる、動物と戦える犬。そしてなにより、一人ではないという心強さ。
勾玉などの飾りものも、同じような意味を持つものだったのかもしれないな、とおかあさん。
やがて竹林の中、川の音が聞こえて、それからすぐ集落に出た。旧家の集まる集落だった。
公道に出たら左折。寺元交差点でつきあたった。ここを右折。
反対の方向は「甘南備(富田林)」だって。寺元地蔵尊があり、「左 大楠公夫人之墓 楠妣庵 十丁」と古い道標があった。
大楠公夫人って、楠木正成の妻の久子さんのことらしい。甘南備の生まれで、夫、そして次には息子の正行らも亡くした後、生まれ故郷の草庵で亡き者を弔って余生を過ごしたそうだ。
戦時中、久子さんは女性のカガミとしてもてはやされたらしい。その頃に道標もたてられたのかな。
やっと遠回りして、遠回りしてやってきた観心寺に到着。
役行者(役小角)なる修験道の開祖とされる人の開創とされているそうだ。その後、空海が北斗七星を勧請したんだとか。
少年だった楠木正成が通った学問所でもあり、後村上天皇の陵もあるそうだ。後村上天皇は南朝を起こした後醍醐天皇の唯一生き残った息子。天野山の金剛寺からここに行宮を移していたこともあるのだって。天野山はここから西に8kmってところかな。吉野山もそう遠くはない。
馬に乗った楠公の像があった。門前にある古そうなお土産屋さんは閉まっていた。
紅葉シーズンだからか、人はかなり多かった。山門の向こう、多彩な色に染まった山々の中に遠く寺が見えていた。
相当に広そう(境内有料)で、まだ散歩の続くわたしたちは先を急ぐことにした。
公衆トイレの前を通り、南大門橋を渡った。古い灯篭があり、ナントカみちと書かれた石碑もあった。車道が右手に現れて、そちらへ。
この上り道から見える一帯は、古い集落だった。鷹合や松原、国分なんかで見る建物とはまた違っていた。「入母屋造り」とか「しころ屋根」とか・・・まだ全然分からないのだけれど。
屋根の上部がなんというか、神社の屋根みたいになっているところもいくつか見た。屋根にもいろいろあるんだな。
道は再びの山中に続いていた。
上りで向こうが見えないだけに、今度はどんなところに連れて行かれるんだろうと思った。また誰にも会わない山中が続くのかな、と思いきや、すぐに老人ホーム。ほっとしたけれど、人や車の姿を目にしたのはここまでだった。
あとはひたすら山の中の車道をひたすら進んでいった。この車道は林道らしい。材木の伐採と運搬のために作られた道路ね。今ではもうほとんど材木に需要もないのか、誰も、なにも、通らない。
こんなところにまで長いコンクリ道をつくってしまう、その労力のすごさを思った。鉄道も、ダムも、幾多の労働者がいてこそつくられる。何百人、何千人、何万人、総数にしたら何億人もの人々の労働力を、想像するだけでくらくらした。
地名は神が丘になっていた。
落石注意の看板が幾度かあって、シダが海のように木々の下に波となっているところなんかもあった。
そしてやっと林道が終わり、集落にたどり着いた。
郵便局も兼ねていたような旧家で、焼き芋などが売られていた。そのまま進むと延命寺だった。千早口への道標を越えたあたりから、古そうな石垣がずっと続いていた。
いきなり人が多くて、わたしはバッグに入った。きれいなところだった。
寺自体も、上品で落ち着いていてきれい。古くて、随分新しいなあと思った灯篭で昭和5年のもの。なんだか手を合わせたくなるものがあった。
紅葉もきれいだった。見上げると、上の方にも紅葉がきれいだった。写真で見るような赤いもみじが、黄色い木々と一緒に日に照らされていた。
夕映もみじが有名(大阪府の天然記念物)で、階段を上ったところにあると案内されていた。階段を上がっていってみると、立派なもみじだった。空海お手植えとも伝わるのだって。
延命寺は、空海が石仏を彫って安置したのに始まるらしかった。
寺の隣が長野公園(延命寺地区・奥河内もみじ公園)の入口で、階段を上って公園に入って行くようになっていた。
上っていくと蓮池なる池があって、その周辺を紅葉した木々が取り囲んでいた。うそみたいにきれいだった。
この奥は「もみじ山」で、紅葉狩りできる散策道があるらしい(イノシシ注意って書かれてた)。けれど台風の影響で、この先通行止めだった。残念。
延命寺を出ると、下りの石垣の道が緑で綺麗だった。上りでは気付かなかったけれど。
延命寺と観心寺に参るコースがスタンダードなのか、女性グループなどの多くが「次は観心寺に行って帰ろ」なんて話していた。
わたしたちは林道を1.5km歩いて延命寺にたどり着いたけれど、人っ子一人会わなかったから、別の道が人気なのだろう。観心寺まで3kmと書かれた道標のたつ道があった。
千早口の道標のあるところまで戻り、千早口方向へ進んだ。
すぐに道が分かれ、左の「千早口」と手書きで案内してくれている方向へ。それからもしばらく手書きの道標が助けてくれた。再びの人っ子一人いない山中だった。
大きなカマキリ、糸トンボ。竹林、川のせせらぎ。もう人っ子一人いない山中にも少し慣れてきた。
そして川のせせらぎってこんなに安心できるものなんだな。せせらぎあるところ集落ありって分かってきたからかな。
それから突然新しい町にたどり着いた。
高台にできたニュータウンに、階段で上っていくようになっていた。美加の台だった。
このあたりからは手書きではない道標が千早口まで指し示してくれた。途中、美加の台を離れ、また山の中に向かう坂道を下っていった。
下っていくとき、山々の連なりが遠くに見えた。
「うわ~なんだこりゃあ!」とお母さんがつぶやいた。そんな光景だった。
この日、何度目かの山中に入っていった。車道をてくてく進んだけれど、ここでも人にも車にも会わなかった。
途中、極楽寺への道標があった。前に高野街道を歩いた時、千早口駅近くにあって気になっていたところだった。これは行っておかなくっちゃあと、古い集落の中、細い道を上っていった。
無人の小さな寺だった。少し上がったところには石塔があった。南北朝時代のもので、府の指定文化財なのだって。
あとは千早口駅からおうちに帰った。
歩いた距離の割には、名所が少なかったかな。
中河内あたりを歩いていると、古代から人がいっぱい住んでいたわ、戦いの場になったわで、旧跡があちこちにあった。
この辺りは、古代から人は住んでいたものの、当時から片田舎気味だったんじゃないかな、と思った。




