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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
11/45

東高野街道を石切から

そしてまた別の日に東高野街道の続きを歩きに行った。11月上旬だった。まだ紅葉には早いと知ったけれど、続きが気になった。

石切劔箭神社まで歩いた前回の続きを歩くべく、新石切駅へ。中高野街道を歩いた時は、中央大通りを東に行った深江駅を利用したけれど、今回は更に東の新石切駅。中央大通りは生駒山手前の新石切まで続いているらしかった。

4番出口を出て、前回の道、シェ・アオタニと石切藤地蔵の間の道を南下していった。

歩き始めから、駅近だというのに古い家々があった。この東に、なにやら色々とあるはずだった。額田寺、額田墓地、極楽寺、額田戎神社、玄清寺。信号を左に行けばよかっただけだった。なのに信号に至る前に左折したものだから、ちっともたどり着かなくて、あきらめた。

このあたりは額田ぬかた駅(近鉄奈良線)の近くだったみたい。

額田寺がくでんじは、京から高野山へと向かう空海のために、この地に住んでいた額田おびとが宿坊として建てたものらしい。空海が彫ったと言われる薬師如来像が本像であったんだって。東高野街道は空海が東寺と高野山を行き来する道でもあったみたいだから、途中の額田で泊まったんだな。

他に今はなき額田神社もあって、応神天皇の皇子の額田大中彦が祀られていたらしかった。天智天皇の頃の有名人、額田王ぬかたのおおきみも、額田の地になにか関係している人なのかな?

東山町の辻のところには、思いきり古くて、壊れかけの家があった。ぎりぎり原型をとどめていた。新しい家も多く建っていて、変わっていく過渡期にあるのだろうな。日本のいたるところが、過渡期を迎えているのだろうな。

その頃、地元あたりでも、とっても古くて味のあるツシ2階の町家が、一軒は潰されて大きな新しいおうちになっていた。一軒は「売家」と札を貼られて、潰されるのも時間の問題って感じになっていた。そしてその後しばらくして、やっぱり更地になっていた。

ケイトウの咲いている古い家の鉢に、キラキラ光る粒のついたサナギを見つけた。

黒っぽくて、植木鉢に垂れていた。模様の小さなツブツブが作り物みたいな金色をしていた。ツマグロヒョウモンという蝶の蛹らしい。昆虫って、面白いな。

このあたりも、新しい家と、柿の木のある古い農家風の家とが混在していた。カラスが鳴いていた。

カラスって、古い家をバックにしているとかっこよく絵になり、新しい家をバックにしているとガラの悪いならず者みたいに見えるんだなあ。


地名は南荘町だった。そして箱殿東交差点に至る。

ここは暗越奈良街道で歩いたところだった。東の山に近づいていく、あんなに素敵な道だったのに、東高野街道ではそこを交差して通り過ぎていくだけなんてな。山と平行に歩いていくだけでは、素敵さなんて全くわからなかった。それに、やっぱり東高野街道は道幅が狭すぎた。このあたりは車の量がそれほどは多くないのが救いだったけれど。

地名が鳥居町になって、細い川を越えた。豊浦川だって。川沿いの感じが素敵だった。

そして鳥居が現れた。枚岡神社の鳥居で、鳥居があるから鳥居町なのかな。鳥居の柱の横が空き地になっていて、「好評分譲中」となっていた。

枚岡神社には行ったことがあるし、かなり山方向に歩かないといけないので、スルー。枚岡神社までの参道は「松の馬場」と呼ばれたんだって。紫金山公園の吉志部神社までの参道もそうだったな。

東高野街道は、古代、河内で唯一の南北の道だったと説明に書かれていた。山越えの道は幾多あるけれど、南北に行く道はこの道しかなかったのね。大きな河内湖があったからかな。

クサカの盾津浜から上陸し、ナガスネヒコに撃退された神武天皇は、今度は南(熊野あたり)から攻めることにした。そして勝利を願って、家臣のひとりにその者の先祖を祀らせた。それが枚岡神社となったんだって。

その家臣が天種子あめのたねこ。祀った先祖が天児屋根あめのこやね命夫妻。アメノコヤネの子孫からは後には中臣氏がでている。神武天皇の頃に中臣氏の祖が祀った神社なので、元春日とか呼ばれているんだな。

枚岡神社は後に山麓部に降りてきたそうだ。石切さんと同じだ。

鎮座する地は出雲井町。境内にある井戸の名前が出雲井だったからだそうだ。出雲井があるからには、出雲系の人たちが住んでいたんじゃあないだろうか、ナガスネヒコはその王だったんじゃないかとか思った。スサノオ、オオクニヌシと続いていた出雲系の仲間たち。


地名が喜里川町(元々は「切川」だったみたい)になり、街道はカーブを描いて、久しぶりに国道170号(旧国道)と合流した。

そして瓢箪山商店街(サンロード商店街)に入っていった。国道がアーケード商店街になっていて、全国的にも珍しいそうだ。

道路改修記念碑があり、国道170号は昭和11年に広く改修されてできたと書かれてあった。すごく狭いし、歩道もないところも多くて、危ないくらいの道だけれど、昭和初期には十分なサイズだったのかな・・・。

商店街が社交場みたいだった。元気な自転車のおばあさんたちが挨拶を交わしたり、近況を尋ねあったり、連れだって歩いていたり。スーパーもあって、おばあさんたちには用が足りそうな商店街だった。葬儀の案内所まであった。


瓢箪山駅横の踏切(近鉄奈良線)を過ぎると、今度は「ジンジャモール瓢箪山」なる商店街だった。

しばらく行くと左に古い太閤橋と、鳥居。すぐが神社だったので寄ってみた。ジンジャモールや瓢箪山駅の名前の由来なのかな、瓢箪山稲荷だった。

狭い商店街は国道だから車が通るのは当たり前なのだけれど、参道になっている古い狭い太閤橋の上まで車が渡っているのが驚きだった。思いがけないところを車が通るし、思いがけないところに信号がある地域だった。

瓢箪山稲荷は、秀吉が勧請したと言われているらしく、そんなには古くないようだった。けれど、元は古墳だったそうだ。6世紀末頃のもので、形が瓢箪に似ていたから「瓢箪山」なんだって。商店街に近いだけあって、なんだかオープンなお稲荷さんだった。

東高野街道である商店街に戻ってもう少し南下すると、商店街を抜けた。

一里塚跡があった。一里塚にあった塔などは、今は安養寺ってところにあるらしい。北には善根寺|(プレートだけ見たな)、南には垣内(八尾市)にあるのだって。


六万寺中交差点には、なるかわ園地への道標があった。なるかわハイキングコースがあるらしい。

大阪府民の森と呼ばれる園地がいくつかあって、金剛山に1つある以外はみんな生駒山系に存在している。北からくろんど園地、ほしだ園地、むろいけ園地、くさか園地、ぬかた園地、なるかわ園地、みずのみ園地。園地といってもほとんど山だ。

園地にはハイキングコースで上っていける。わたしもいくつか行ったことがある。

次の六万寺東交差点にもなるかわへの道標があった。往生院への古い道標の石碑も。ここをまっすぐ行けば往生院六万寺であるらしかった。

姿も見えないし、ここもスルーしたけれど、四條畷の戦いで楠木軍の本陣になったといわれるところなんだって。

そしてこの2つの交差点の間を東に行ったところには梶無かじなし神社があるようだった。ここも姿は見えなかったけれど、名前にひかれて、道に迷いつつ行ってみた。

どうして梶無神社というのかが神社に説明されていた。神武東征の時、ナガスネヒコに撃墜された神武天皇。船で逃げる時、かじも折れて失い、漂流。先祖に祈っていたところ、無事にここに上陸。先祖であるニニギと、その妻コノハナサクヤヒメを祀ったんだって。二人の子どもが海幸、山幸で、山幸の孫が神武天皇。

カジも無くした・・・それで梶無神社だって。まじか。

ちょっと信じきれない話だったけれど、それは別として、六万寺あたりでは5世紀頃の祭祀の遺物も見つかっていると説明にあった。

ここの狛犬も、左の子に角があった。気にしてみれば、角のある狛犬ってけっこういるんだな。

なんでも狛犬には角があるものだったんだって。右の子に角がないのは、実は狛犬じゃないから。右にいる子は獅子。でもだんだん狛犬の角はつくられなくなっていったそうだ。つまり左の子に角のある狛犬は古い時代のものなのだって。


東高野街道の続きを歩くべく、旧国道に戻った。

しばらくすると旧道が少しの区間だけ残っていて、旧国道の左側の旧道を歩いた。地名は横小路。静かで、旧家や地蔵が目に入った。山に近づいた感があった。

山は紅葉が始まっていて、きれいだった。桜かな?

いいところだったことだろう。けれど今や、新しく住むためにやって来る人もそんなにいなくて、寂れていっている雰囲気だった。車がないと不便な感じの立地で、けれど道幅は狭すぎて、車は走りにくそう。自転車だって坂が多くて走らせにくい。なんだか暮らしにくそうなところだった。道路って、大事なんだな。

また旧国道を南下して行き、箕後川を越えたら八尾市だった。

箕後みのご川は、三野郷からきているのかな。流域にはかつて三野郷だったあたりが含まれているみたい。

地名は楽音寺だった。このあたりまでは東に見える山々は里山的だった。それが、このあたりからの生駒山系は神々しく見えるような気がした。

立派な貴島病院があった。前に十三街道を歩いた時、目印になった病院。


また鳥居が現れた。神社自体はもっと東の山のほうにあるのだけれど、鳥居が東高野街道沿いにもあるのがパターンなんだな。十三街道歩きで行った玉祖神社の鳥居だった。その先には車道があった。

十三街道歩きでは、神立の集落を抜けて、細い坂道を上って行ったんだった。あんな山の中にあった素敵な神社だったけれど、ここから車でも行けるんだな。

ここもまた、松の馬場と呼ばれた参道だったそうだ。松並木が500m続いていたのだって。

「1460年、畠山義就が、竜田にいた政長を攻めるためここで出陣し、敗北した」と説明書きされていた。

夏になると長い散歩は暑さでできないし、歴史の勉強をして過ごしていたのだけれど、まだ南北朝時代くらいまでしか進んでいなくて、畠山さんは未知の名だった。

南北朝の時代があり、天皇家は南朝と北朝、2つに分かれて争っていた。北条氏がしきっていた鎌倉時代、後醍醐天皇は昔のように天皇がしきる世の中にするぞと立ち上がった。それで天皇側について活躍したのが楠木正成や北畠顕家、足利尊氏らね。

ついに鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇は政治を行うように(建武の新政)。けれど時代を無視して、武士をないがしろにしていたので、今度は足利尊氏が立ち上がり、後醍醐天皇を幽閉して、新しく別の人を天皇とした(北朝)。けれど後醍醐天皇は逃走。吉野で、我こそが天皇だ、三種の神器も持っているぞと朝廷を開いた(南朝)。

京の北朝を擁する幕府と、吉野の南朝との戦いが始まって、それが南北朝時代。

戦いばかりで、後醍醐天皇の息子たちも次々と戦死していく南朝を尻目に、足利氏による幕府は着々と政治を行い、それが室町幕府。

墾田永年私財法が出てから平安、鎌倉、室町と年月は過ぎ、着々と力をつけてきた者たちが数多くいた。天皇、皇族、貴族、幕府、それだけじゃなく、武士も、寺社も、農民も。

そんな室町時代もだいぶ過ぎたころ、畠山義就って人が生きていた。畠山家は武家の名門で、守護や管領(将軍の次にえらい人)も務めていたような一族。

当主(家の長)が持国さんって人だったとき、正妻との間には男子がいなかったそうだ。愛人との間には義就さんがいたけれど、弟に家督を譲ることに決まっていた。義就は石清水八幡宮の僧になる予定だったみたい。ところが持国さんがそばに置いてみた義就ができる子だったのか、義就に家督を譲ることに変更。

これに家臣団が反発。弟は亡くなってしまったのだけれど、その息子である政久、政久亡き後はその弟の政長を擁立して反抗し続けた。他の武将たちもまきこんで、大規模な争乱となっていったんだって。それが応仁の乱。

義就が竜田で政長に敗れたというのは、応仁の乱の初期の頃みたい。それからもずっと、応仁の乱が終わってからも、54で亡くなるまで義就は政長と戦い続けたのだって。


そのまま南下していくと、地名は千塚ちづかになった。ミキハウスの大きな会社などがあったけれど、ずいぶん田舎だった。

このあたり一帯には古墳時代後期の小規模な古墳が多数あって(高安古墳群)、地名も千塚というらしい。

玉を作る過程のものが出土している遺跡も見つかっているそうで、玉作工房があったのだろうな。玉祖神社にも近い。玉祖神社は高安の神さまだったそうだしな。

古墳時代後期になると、もう大型古墳はあまりつくられなくなり、古墳群になっていったそうだ。大型前方後円墳はもう役目を終え、権力者の力も分散されていった感じかな?

十三街道(玉祖道)歩きで行った心合寺古墳はもっと早い時代のもので、中河内最大の前方後円墳だった。その被葬者は不明で、千塚につながる勢力だったのかどうかも分かっていないのだって。


立石越への道標があった。前に迷子になって、山中で立石越あたりを歩いていたことがあったな。

河内から大和への山越え道には、辻子峠越や立石越もあるんだな。

近鉄信貴線の高架下を通った。服部川駅が近いようだった。

このあたりから「高安」の文字が目立った。高安って、少々ミステリアスだな。高安城とか、等乃伎神社は高安山に太陽が云々とか、新羅系云々とか、玉造工房が云々とか。

田舎なだけに造園関係の施設が目立った。右手に見える道(外環)あたりは都会の様相だったけれど。

郡川交差点では、「信貴山口1km」の道標があった。交差する府道177号東高安停車場線を南東に進めば信貴山口駅にたどりつくみたい。信貴山口駅は昔、東高安停車場といったのだって。

川を越えると、地名は教興寺になった。左手に大きな寺あって、これが教興寺?と思ったら、天理教高安教会だった。

そしてその更に奥にお寺が見えていた。たぶん、あれが教興寺。けれど、そのうちまた信貴道なんかを歩いて通るんじゃないかとスルー。もう疲れてきちゃってた。

北信貴街道と交差。左手の山の上の方に、町らしきものが見えていた。けっこうカラフルで、遊園地っぽくもある。ケーブル高安山駅あたりなのかな?

ここまで、いろんな道と交差して、今では随分田舎に思えるけれど、かつては交通の要所だったというのがよく分かった。

垣内村一里塚の松が現れた。善根寺、四条、楽音寺にもあったけれど、残っているのはここだけだと説明書きされていた。

そして元善光寺の道標が左側を指していた。元善光寺?と気にはなった。善光寺もミステリアスだからなあ。

昔、仏教肯定派の蘇我さんに対し、否定派だったと言われる物部守屋は、蘇我さんの仏像を海に投げ捨てた。難波は堀江のあみだ池あたり(とも言われている)。聖徳太子のおじいさんが百済の聖王からプレゼントされ(これが公的な仏教伝来のときだとされている)、とりあえず蘇我さんに預けていた仏像だった。

推古天皇(聖徳太子のおばさん)の時代、それを難波の海辺で拾ったのが本田善光。仏像を赴任先の信州に持ち帰り、善光寺を建てた(と言われている)のだけれど、途中立ち寄ったという元善光寺が、古市街道で歩いた藤井寺にあった。小山善光寺ね。立ち寄ったところの主人と一緒に一晩祈っていたら、仏像が2つに増えたので、一体は藤井寺小山に祀り、小山善光寺となったのだって。

善光さんはここ八尾にも立ち寄り、ここでも一泊したらしい。そして翌年にも再訪して、ここにも善光寺をたてたんだって。それがここの元善光寺。なにがどこまで本当なのかなあ。

けれど疲れていて、ここもそのうちにとスルー。

このあたりには天照大神高座神社とか岩戸神社とかもあったみたい。またそのうち行きたいな、と思った。


さらに南下して行った。

恩智おんぢ神社も近かった。けれど、ここも恩智街道で来るはずだからとスルー。

それから左手に急な階段が現れて、恩智左近旧跡と書かれてあった。ここはもう来ないかもしれないし、と、上っていってみた。

見晴らしのいい場所で、階段を上っただけなのに、別世界のようだった。恩智左近の墓があった。

初めて聞く名だったけれど、楠木正成八臣の一人なんだって。この地の豪族で、恩智城をたて、正成のために戦った。息子の正行にも尽くし、けれど熱病で亡くなったそうだ。横には西南戦争に従軍した16人の墓もあった。

南北朝時代、幕末の頃、そして現代が、地域って糸でつながっている土地なんだなあという感じがした。

恩智は、アチからきていると思われるそうだ。アチって、応神天皇のとき、大勢を引きつれてやって来たという渡来人、阿智使主アチノオミのアチ。漢からやってきた人らしい。末裔に坂上田村麻呂がいるのだって。坂上田村麻呂は桓武天皇の時代の征夷大将軍だ。恩智とアチノオミはなにか関係があるのかな?

恩智左近の墓から道を戻り、東高野街道の続きを歩いていくと、すぐに左にシュミィ地蔵が現れ(名前の由来は不明らしい)、そこから階段を登っていくと、恩智城跡公園だった。

恩智城跡ということは、恩智左近の城があったのね。高台で、見晴らしがよかった。このあたりは地形も複雑で、散歩すると楽しそうだった。


山側にはやっぱりいろんな寺社が点在しているみたいで、八王子神社の道標が現れた。正式名は常世岐姫とこよきひめ神社だって(スルー)。

ここもまた渡来人由来の神社であるらしかった。

燕の国王、公孫淵の子孫と称する赤染氏が、後には常世氏となって住んでいたらしくて、その神社なんだって。

卑弥呼の時代、中国は三国時代だった。3つの国に分かれていて、そのうちの1つが「魏志倭人伝」の魏。公孫淵はその魏から独立しようと自ら王を名乗り、「燕」という国をたてて敵を次々殺し、一族もろとも処刑されて滅んだそうだ。


もう少し歩いたら、柏原市だった。

JR柏原駅から帰途についた。一日で東大阪市、八尾市、柏原市と歩いたわけだった。

東高野街道って、古代、河内湾の湾岸あたりだったらしいけれど、そんな時代、今の東大阪市、八尾市、柏原市って、船で簡単に行き来できるご近所さんだったんだなあと思った。

その後、湾じゃなくて池となっても、上町台地(難波津)から川や池を船で進めば、東大阪だろうと、八尾だろうと、近かったのだろうな。

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