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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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東高野街道を忍ヶ丘から

秋になって、近くの公園を散歩していても、葉っぱの色が「なにこれ!」というくらいきれいだった。都会でも秋と春は楽しめる。春は桜がそこかしこで咲くし、秋は紅葉してきれい。

春に桜が花を咲かせていたけれど、秋になると同じ場所で秋色になった葉っぱを散らしていく。最初、わたしは木を植え替えているのかと思った。わたしが知らない間に木を植え替えているのかなあ。都会の人にも春と秋を楽しませるために? 人間はすごいことをするからなあ。

ところが同じ木だというじゃないの。自然もすごいことをするなあ。


気にはなっていたけれど、ずっと東高野街道は歩かずにとっておいた。心合寺とか、神立とか、枚岡とか、生駒の山麓部はどこも美しかった。山裾を歩くという東高野街道は、それは美しいことだろうと思っていた。

ついに東高野街道を歩くべき時がきた!・・・と、泉北や、近くの公園の紅葉を見て思った。

そしてJR忍ヶ丘駅(学研都市線)へ。東高野街道の始点は京都の八幡市あたりのようだったけれど、とりあえず秋に美しそうなところからだ!と、忍ヶ丘へ。

北新地から乗った学研都市線(長尾行き)は京橋までは地下を走った。それから地上に出ていった。

京橋駅まで地下鉄で、京橋から学研都市線に乗るというのもありだったな、と思った。大阪中心部は電車が交錯していてすごい。

いつか、「このあたりにも地下鉄の遺構が見つかっている。線路が網の目のように行き渡っていたのではないかと言う専門家もいる。この大阪市と呼ばれたらしき都市の人口は、200万人以上だったのではないかとも言われている」なんて書かれる日がくるのかも。

そして200万人以上って!と驚きながら歩く未来の犬くん。


四条畷駅で、いきなり田舎の駅のような雰囲気になった。立派な大きな駅なのだけれど、後ろの山と電車を持つ人たちの年齢層(高い!)と服装(昭和!)のせいなんだろうか。列車のドアは横のボタンで開閉するシステムに突然なった。

近くの史跡として、小楠公の墓、和田賢秀の墓、四條畷神社などが案内されていた。


忍ヶ丘駅で東口から出ていくと、いきなり道が分からなくなった。

東高野街道を南下して行くつもりだったのだけれど、どこから歩けばいいのやら。案内図もあったけれど、いまいち分かりにい、というか、余計に分からなくなってしまった。

適当に南の方向に進んでいくと、蜻蛉池公園。東高野街道の大きな説明板も設置されていて、ここが東高野街道とされているようだった。

816年に空海によって金剛峯寺が、823年に勅命によって東寺が建てられ(その後、空海に与えられた)、それを結ぶのが東高野街道だったそうだ。平安時代に整備されたのだって。

蜻蛉池公園は小さな公園だったけれど、舗装された小道があり、その小道を公園の外に出て行って続きを歩くと、それが東高野街道だった。

周辺は新しい家でいっぱいだった。そのまま突き当たりまで道なりに進んでいった。交差する道々が、ほぼ全て旧道らしくカーブした細い道だった。高低差のある地形で、東側は上り道になっている。生駒山地だからな。

三徳稲荷なる祠が現れて、つきあたりを右折。

農村だったんだなあと思わされる古い感じが残っていた。旧家とたんぼ。蜻蛉池公園の周辺が新しいのは、たんぼだった駅近の土地が最近売られて、家がいっぱい建ったからかな。

やや広めの道(JAのあるところ)に出たら、左折。すぐに古い道標があった。ここが東高野街道と清滝街道(竜田越道)との交点らしい。清滝街道は守口の文禄堤の北側を通っていた道で、ここを通る、東の清滝峠を越えていくみたい。

すぐの三坪橋は渡らずに、その手前の道を右に入っていった。交番が右手にあって、ここを左折。橋を渡って南下。渡った川は清滝川だった。

このあたりも古い家もいっぱいだった。でもそれよりも、細い道なのに人通り、車通りが多くて、それに気を取られて、あまり見ている余裕がなかった。

そのまま道なりに進んでいき、清滝生駒道路の下を通り、四ツ辻(さつき園のあるところ)を左折。少し行くと中野共同墓地があった。ここは墓の堂古墳なる古墳があったところなんだって。5世紀後半の前方後円墳で、後円部分が共同墓地になっているらしい。前方部分はもうなくて、住宅地になっているそうだ。


このあたりには他にもあちこちに古墳や遺跡があったようだった。南山下みなみさげ遺跡、奈良井遺跡など。

南山下遺跡からはいろいろな馬具をつけたずんぐりかわいい馬の埴輪も見つかっていて、奈良井遺跡からは馬をいけにえにした儀式を行った跡や製塩土器、馬の歯などが見つかっているそうだ。

ここ四條畷には、5世紀ころ、河内馬飼の集落があったのだって。応神天皇の頃に朝鮮半島からやってきた馬飼いの人々の集落で、百済系だったろうと言われているみたい。

馬を飼うには塩が不可欠らしくて、製塩に適していて、放牧できる牧草地もある淀川から河内湖(河内湾が土砂の堆積などでやがて湖になった)にかけてが集落だったそうだ。

その後、馬飼を統べる人物が、大伴金村らが26代天皇に継体天皇を推したときにも活躍したんだそうだ。大伴金村らを信じていいのか案じていた後の継体天皇ヲホドに対して、知人だった馬飼さんが説得をしたのだって。河内馬飼おびと荒籠あらこなる人だったそう。

荒籠さんはヲホドにも馬を提供したりしていて知人だったのかな?


左手に中村診療所なる医院が現れた。白く塗られているけれど、もともとは古い洋館だったのかな?と思った。

それから右手に市立歴史民俗資料館。「うののさららのひめみこ特別展」の案内がされていて、うののさららのひめみこって、持統天皇のことらしかった。

持統天皇って、天智天皇の娘で、叔父にあたる天武天皇の皇后となった人。息子に草壁皇子がいる。

この息子を次期天皇にしたかったんだけれど、若くして病死。次は孫を天皇(文武天皇)にしたくて、夫亡き後は、孫までのつなぎとして自らが天皇となった。

うののさららの「さらら」は、当時のこのあたり(四條畷界隈)の地名の讃良ささら郡からきていて、持統天皇は四条畷になんらかの関係があった人と思われるのだって。

地名は脇塚町だった。古墳(墓の堂古墳かな)の脇の町だったからかな。

つきあたって左折。すぐ170号線に出て、四條畷神社の管轄らしき神域があった。和田賢秀にぎたけんしゅうの墓だった。

楠木正成の甥っ子で、正成の嫡男、正行と共に戦い、四條畷の戦いで正行共々亡くなったそうだ。それまでの戦いでも常に正行に付き従い、武勇の誉れ高く、正行が敗色濃く自害した後で高師直の陣営に潜り込んで殺された。殺されたとき、相手の首にかみついて、そのまま離れなかったのだって・・・。敵方の北朝軍は大軍で、惨敗した戦いだった。

和田にぎたって、泉北を散歩した時に通った和田にぎたからきていて、楠木さんの親戚の名前になっている。ニギタケンシュウ、今でもいそうな名前だな。


楠木同族会副会長の静岡県の和田さんなる人の名が入った碑があった。

ここは地名も「楠公」。一般的には楠公といえば楠木正成だけれど、四條畷界隈では楠公といえば楠木正行なんだって。四條畷神社は楠木正行を祀る神社らしかった。

和田賢秀のお墓からは170号線を南下していった。170号線って国道らしいのだけれど、道は狭いわ歩道はないわ、犬の散歩に向いていないこと甚だしかった。わたしはほとんどだっこされていた。

これより西側に新道バイパスの170号線がつくられ、そちらはとっても立派な道であるらしい。別名、外環状線。国道として残されているこちらは「旧国道170号線」とか呼ばれているみたい。

秋に素敵な東高野街道を歩くつもりが、車がすぐそばを通る排気ガスたっぷりの狭い道を重い荷物わたしを抱えて歩くことになるなんてな、とおかあさん。

11月上旬のその日、紅葉はまだのようだった。公園などの桜は、山の木々より早くに紅葉するみたい。山は全く紅葉している感じはなかった。

まだ稲刈りされていない田んぼもあって、稲穂と山の光景は素敵だった。これが、かつては日本のどこででも見られた光景なんだろうな。


このあたりを東の山裾に向かっていけば、龍尾寺、弥勒寺、御机神社、住吉平田神社などがあるようだった。

旧国道170号線は少々山から離れていて、山に入るくらい近づいて東にいくと、神社やお寺が並んでいるみたい。生駒山の西麓に寺社が並び、それよりも西側を旧国道170号線が走っていて、これが東高野街道。寺社をつなぐ南北の道はなく、西麓の寺社を巡るには、東高野街道→寺社→東高野街道→次の寺社→東高野街道→次の寺社→東高野街道、と、短くはない東高野街道との往復を繰り返さないといけないようだった。それもたいへんそうだったので、寺社はほぼスルーして、170号線をただ南下していくことにした。

国道170号線は、今やそう山に近いわけでもなくて、わざわざ秋に来るようなところでもなかったな・・・。今や住宅地が山のほうにまで広がっていて、山は遠かった。


しばらく行くと、川崎池公園。

四條畷神社の鳥居も現れたけれど、神社の姿はなく、ここから600m山に向かって行かないといけないんだって(スルー)。

それから北條神社の案内が現れた。山に向かって400mだって(スルー)。

地名は大東市北条だった。このあたりから大東市で、四条畷駅があるのも大東市らしい。元々は四条畷って、このあたり一帯を指す呼び名だったそうだ。

北条というのは条里制の名残の地名。奈良時代、このあたりは西大寺の荘園で、条里制によって開発されていたのだって。

古くは大宝律令などによって班田収授法なる法律が定められていたそうだ。広い土地を平らにならして、それをきれいに区画に分け、戸籍を持つ国民に与える。与えられた者はそれを耕し、税金を納めなければならない。

その区画分けを条里制と言い、条里制によって分けられた土地の北側を北条と呼んだそうだ。

税金は重く、負担は大きかったらしい。土地を放棄して逃げる者も多かった。そこで政府は税収を上げるためもあって、三世一身法を出した。開墾した土地は孫の代まで私有地としていいという法律で、税金を払わないといけないのは同じだったけれど、がんばれば土地を大きくできるというので人々はやる気を出した。

それでもだんだん「そうはいっても3代で終わりでしょ~」という空気になってきて、ついに政府(聖武天皇)は墾田永年私財法を出すに至った。開墾した土地は、ず~っと私有地としていいですよという法律。

寺社や豪族などは、自分の土地を手放した農民などを集め、その人たちを使って土地を開墾し、どんどん条里制による土地を増やしていった。それが荘園。そうしてどんどん力を増していく者が増えていったのね。

その条里制による荘園を例えば南北に3つに分けて相続した場合などには、それぞれ「北条、中条、南条」とか呼んだみたい。


左手に十念寺が現れた。このあたりは古かった。豪農って感じの旧家なんかも残っていた。

十念寺は、四條畷の戦いで大勢が死んでしまった後、それを地域の人達が融通念仏宗で弔い、お寺も建てたことに始まるのだって。当時、このあたりでは融通念仏宗が主流だったそうだ。

十念寺を過ぎたら、左手の道に入っていった。しばらく170号線から離れてこの道を進む。茶色のカラー舗装がされていた。しばらくすると左手に野崎まいり公園が現れて、その奥が野崎観音と南條神社だった。

野崎観音(慈眼寺)は姿が見えていたので、行ってみることにした。行基が自ら彫った十一面観音を安置したのが始まりなんだって。

江戸時代、八軒屋浜などから船で川をさかのぼって深野池までやって来て、野崎観音参りするのが大流行したんだそうだ。深野池は、河内湾の名残の大きな池。大昔には河内湾だったのが、半島だった上町台地で塞がれていったりで河内湖に、土砂の堆積などでだんだん小さくなり、古墳時代には草香江に、それから深野ふこの池と新開池とになったのだって。池に流れこんでいた大和川が付け替えられ、新田開発されてますます小さくなり、今はこの南西にある深北緑地に一部が残っているのみだそうだ。

野崎観音には、江戸時代ほどではないのだろうけれど、今もけっこうハイキングがてらと思われる参拝客がいた。大きなお寺で、高台にあって素敵だった。

すぐ傍らにある南條神社は、北条と同じ条里制の名残ってやつね。かつては牛頭天王社であったらしい。

そして、ここでも左の狛犬に角があった。前に阿遅速雄神社で見た角はちょんまげみたいだったけれど、ここでは角って感じ。狛犬の角って何だろうと、時々見ているうち、ちょっと気になり始めた頃だった。


野崎観音から見はらし台(無料休憩所)へ行ってみた。ベンチに座って大阪平野が見られるようになっていた。

途中には、飯盛山ハイキングコースと書かれた山道もあって、少しだけ登って行ってみると、「石造九重層塔」なるものがあった。

1294年のもので、沙弥入蓮しゃみにゅうれんなる人と、とある秦氏が、主君と両親の供養のために建てたものだそうだ。これまで秦氏は名を聞くだけのミステリアスな一族って感じだったから、鎌倉時代に実在した秦氏に関わる塔を見られて、うれしかった。

ハイキングコースをもっと進んでいくと、野崎城跡もあるようだった。けれど深入りはせずに、東高野街道に戻った。


しばし歩いていると、新しい道標があって、「メノコ橋(集落跡の遺跡) 瓦堂跡(寺社跡の遺跡) 法妙寺 十林寺」なんて書いてあったのだけれど、気がつけばみんな通り過ぎていたみたい。

東の山の方向に歩いていけば、臍の王神社(昭和にできた新興宗教みたい)、婦婢不動院、宝塔神社なんていう気になる名前の寺社があるようだった(スルー)。

七橋地蔵を過ぎて、地名は野崎から寺川に。

寺川なんて初耳だったし、通り過ぎるだけの町かと歩いていたんだけれど、野崎より古いくらいの旧家、旧道で、ただものじゃなさが半端じゃなかった。浜田姓の旧家が多かった。

なんでも中垣内越なる道(古堤街道)との交点で、かつて賑わっていたあたりらしい。

飯盛山の西麓に堂山古墳群があるのも寺川で、5世紀前半の円墳1基と、後期のものがいくつか見つかっているそうだ。それどころではなく、寺川や北条、この南の中垣内などでは縄文時代のものも見つかっているし、弥生時代には集落があったそうだ。

やや広い道に出て、信号を渡ってもそのまま進んでいった。右手に見えている170号線(旧国道)が近づいてきて、合流。大阪産業大学があった。

少し前から「産大諸君、近隣の迷惑になる駐車は禁止」と呼びかける札を何度も見たけれど、その産大諸君の通う学校ね。

地名は中垣内なかがいちだった。ここも古い町なのだろうけれど、170号線を歩いていると気付かなかった。ほとんど何もなかったところに学校や工場など大きな施設が最近やってきたという印象だった。

府道701号中垣内南田原線と交差した。道標があって、この交差する道が中垣内越道らしかった。大阪と奈良を結ぶ道はいくつかあって、それが清滝街道や、もう少し南の中垣内越道、もっと南に暗越奈良街道、十三街道、竜田越奈良街道。


須波麻すはま神社への案内が現れた。山方向に進めば須波麻神社があるらしかったけれど姿は見えなかった(スルー)。

古くて詳細は分からないものの、讃良郡の式内社なのだって。祭神は大国主ということになっているけれど、疑わしくもあり、水の神のようでもあり、木の神のようでもあり、古くは5世紀頃からの祭祀場で、出雲大社と深く関わるとも言われるんだとか。

スハマはこの辺りの古い地名らしい。州浜すはまからきているのかな。

寺川には須濱すはま大明神こと大谷神社もあるんだって。祀られているのは大己貴命。大国主の若い時の名前。けれど詳細は不明。

寺川のただものでない感からして、なにかあると思うのだけれど、「詳細は不明」が多いんだな。


中垣内交差点と象印を過ぎたら東大阪市だった。

しかし、見所がいっぱいの面白いところなのに、旧国道170号線は道幅が狭すぎる。そんな狭さなのに、バスもトラックも通る。抱っこしてもらっていても、車がすぐ近くを通ってこわいくらいだった。一本奥に道でもあれば、そっちを通るのに、南下し続けられる道がこの旧国道しかないなんてな・・・。

そして盾津浜の碑が現れた。神武天皇縁の、あの?と、びっくりした。

こんな狭い旧国道の脇で、唐突に現れるんだな・・・。「古くて詳細は不明」という式内社に、狭い国道沿いに建てた碑。なんというか、歴史の扱いの雑な、けれど歴史の凄いところだな・・・。

神武天皇は弥生時代とかの時代の初代天皇。九州にいたけれど、大和を目指して東征してきた。

けれど大阪湾からやって来た時、大和のラスボス的なナガスネヒコ(トミヒコ)に撃退された。孔舎衙くさかの盾津浜において。ここはその伝承地らしかった。

けれど今やただの狭いのに車のぶんぶん通る道なのだ。南下を続けると、東方面に今度は善根寺春日神社が案内され、右手の建物には「一里塚の跡」ってプレート(スルー)。

今度は金比羅の道標があって、道沿いには浜地蔵スルー

「孔舎衙」という名称が目立つようになって、地名は日下くさかだった。

日下リージョンセンターなる小さな施設があって、そこに「地域文化財案内図」が掲げられていた。興味を引く案内が多々あった。

向井家とむくの木、稲荷山遊園地跡、池之端春日神社、イノラムキ古墳、日下のかやの木、クジラの骨出土地、布市春日神社、旧大阪市電。

東大阪市って、相当面白いところなんじゃないの?と思った。

工業地帯だとしか思っていなかったのだけれど、十三街道や暗越奈良街道を歩いて、相当に歴史があるのは分かった。でももっともっと、まだまだ知らない面白さのあるところみたい。

そして、やけに春日神社(中臣系)が多いみたい。これは、元春日と言われる枚岡神社に近いことと関係しているらしかった。

アメノコヤネの子孫である中臣氏の家系である枚岡さんたちがこの地を開発。その後、水走氏となって、大江御厨なる天皇へ魚などを納める皇室領だったこの地を任されていたのだって。そして水走氏は、武士が台頭していく中、武士団となっていったみたい。


石材店がそこかしこにあった。そういえば石切に近いけれど、それと関係あるのかな?

旧国道は石切中学校の手前あたりで右寄りに進んでいく。けれど東高野街道はここを直進。やっと旧国道を離れ、いきなり古い雰囲気だった。というか、国道沿いだけが近代化してしまっているのだろうな。

石切小学校の手前には辻子峠越の道もあった。生駒山系を越えるいろんな道があるんだな。

慈悲院とかのある辻で、左に石切神社の鳥居が現れて、いってみた。 どうもここは裏参道だったのかな? 静かで、いい雰囲気だった。

神社にたどり着いてみれば、なんだか観光地化していた。石切神社こと石切劔箭つるぎや神社は、立派で、ニギハヤヒの神社でありながら、「でんぼ(できもの)の神様」として有名なのかな? でんぼには癌も含まれるそうだ。地元の人というより観光客然とした人たちが大勢いた。

にぎやかな参道商店街が、なぜか山に向かって続いていた。

こんなにまだまだ元気な参道商店街って、あまりないんじゃないかな。神社の周辺のかつては参道商店街として賑わっていたのだろう、けれどすっかり寂れたところばかりを見てきたけれど、ここは神社と参道商店街が一体になった、今も元気な観光地みたいだった。

歩いてみると、商店街が終わっても、まだまだ上り道は続いていて、どうやら辻子峠越の道と合流するみたいだった。

そして辻子峠越の途中の通称宮山に、上之宮があるみたい。元々、石切劔箭神社は上之宮の地にあったのだって。だから参道が山に向かっているのかな。参るのに不便だし、神社が下に降りていったみたい。

神社には、ニギハヤヒ(物部氏の祖)とその息子のウマシマジが祀られていると言われている。ウマシマジが父を祀ったのが始まりなんだって。

神社の説明によると、ニギハヤヒはニニギ(アマテラスの孫で、九州に天下った人)の兄ということになっていた。それで神武東征のとき、同族だということで和睦したというわけだな(神武天皇はニニギの子孫)。

ニギハヤヒの妻の兄がナガスネヒコで、ウマシマジにはナガスネヒコは伯父さん。一帯を治めていたトミ一族の長だったナガスネヒコは、いったんはクサカにやってきた神武天皇を撃退したけれど、最後には敗北(もしくは和睦)。

そのへんのことはよく分からない。書物によって記載が違っていたりして、ボスだったナガスネヒコがニギハヤヒ、もしくはウマシマジの裏切りで殺されたとか、ニギハヤヒこそがボスで、そのボスが神武天皇と和睦したとか、いろいろな説があるみたい。

「イシキリ」って、アイヌの言葉で、ナガスネヒコを指すという説もあるそうだ。


この日の東高野街道歩きはここまでにして、近くの新石切駅から帰ることにした。

まだ時間には余裕があったけれど、今回の「すごい歴史を持つのに雑に扱われている東高野街道」歩きのラストを飾るのに、「すごい歴史を持つのにでんぼの神様になっている石切劔箭神社」がふさわしく思えた。

駅に向かう途中、石切藤地蔵があった。その横にはシェ・アオタニ。魅力的なケーキ屋さんで、おかあさんはブッセをゲット。

初めてのブッセ! 一口だったけれど、美味しかった! 今も夢にみるくらいだ。

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