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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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大阪は面白いな

雨続きの日々も終わって、しばらくは晴れるのかな。

久しぶりに散歩に行った。とりあえず大阪市内に。コースは越中井と玉造稲荷、今里と産湯稲荷あたり。

地下鉄森ノ宮駅で降りて、まずはすぐの大阪城公園へ。

もう何度目かの大阪城公園だった。まだ地面が少し濡れているようで、観光客もいつもより少ないように思った。

それから難波宮跡公園に向かうべく、中央大通りの森之宮入路交差点を南下。

中央大通りを西に行けば阿波座、東に行けば新石切で、地下鉄中央線って、この中央大通りの下を走っている。森之宮入路交差点は、元々は府立青少年会館前交差点という名だったみたい。今はマンションになっているけれど、大阪府立青少年会館が同和対策施設としてここにあったみたい。けれど廃止になり、解体された。

交差点からはずっと、玉造筋に出るまで歴史の散歩道の舗装がされていて、それに沿って歩いて行った。広い道で、特に歩道がかなり広くて歩きやすかった。

その広い歩道の中に、「越中井」が現れた。玉造は秀吉さんの時代から、大阪城の三の丸にあたり、大名たちの屋敷があったところだそうだ。

細川忠興さんの屋敷もこのあたりにあった。前田利家の屋敷もあって、ご近所さんとして夫妻で付き合いがあったらしい。他、宇喜多秀家、島津家久、浅野長政、千利休らの屋敷もあったそうだ。すごい町内だな。

越中井は、その細川さんの屋敷の中にあった井戸だと言われている。細川さんが越中守だったから「越中井」なのかな。

左手に越中公園が現れて、その南側には大きな建物があった。横を歩いていくと、窓から時々、ステンドグラスが見えていた。どうやらこれが大阪カテドラル。カトリック玉造教会だった。明治時代に細川さんの屋敷跡に創立(今の建物は昭和のもの)。

南側の正面まで歩いていくと、マリアの像があって、その左右には細川ガラシアと高山右近の像。全部白い色で並んでいた。教会に立つ着物姿の人って不思議な感じだった。

そして細川忠興の妻だったガラシアと、高山右近について説明が書かれていた。


ガラシアことたまこさんのことは知っていた。

明智光秀の娘で、細川忠興の妻。明智光秀が主君だった織田信長を裏切って、信長は本能寺で自害。その後すぐに明智光秀は秀吉によって討たれ、たまこさんは謀反人の娘という立場になってしまった。夫、忠興さんは幽閉という形でたまこを守った。

従者がクリスチャンだったこともあって、信仰心をもつようになったたまこ。秀吉はバテレン禁止令を出すけれど、たまこさんは密かに洗礼を受け、ガラシアという洗礼名を授かった。

その後、秀吉が亡くなり、関が原の戦いを前にして、大名の妻を人質に取って味方に付ける策に出た石田三成。ガラシアは人質になることを拒み、自害。

じいや的な人が介錯し、自らをも斬った。その前に屋敷を爆破して、全部を燃やしたんだそうだ。

それが玉造の細川家で起きたこと。


高山右近のことはあまり知らなかった。知っていたのは、キリシタン大名だってことくらい。

説明板にあった「ユスト高山右近」のユストが洗礼名。まだキリスト教が禁止されていなかった頃、父も母もキリシタンで、10歳で洗礼を受けたそうだ。影響を受けて、蒲生氏郷などもクリスチャンになったのだって。たまこさんの夫、細川忠興も高山右近から聞いた話をたまこさんにしていたそうだ。たまこさんがクリスチャンになる前のこと。

高山右近の領地だった高槻にはクリスチャンが増えて、寺社が激減したらしい。けれどその後、秀吉のバテレン追放令が出た。高山右近は信仰を捨てずに追放処分に。とはいっても、いろんな大名たちと懇意だったから、陰ながら大名として生きていたみたい。

そして家康はキリシタン国外追放令を発令。高山右近はマニラに追放となった。そしてその一ヶ月後、マニラにて病死(63歳)。

高山右近は玉造にはそんなに関係ないみたいだった。代表的なキリシタン大名ってことで像がたてられているのかな? 白い、ちょんまげ姿のキリシタン大名の像だった。


玉造2丁目交差点からは下り坂を東に進んでいった。細川家の屋敷は高台にあったんだな。

道道、キリスト教系の学校とか、クリスチャンを思わせる名前の看板とかが多かった。

前に行った川口で知ったことには、明治になって港が開かれた川口には海外から商社や教会なんかがやってきて、その後、教会の多くが、大名屋敷がなくなって空いた玉造に移っていったんだって。それで今でも玉造には教会が多いのだそうだ。


左手に玉造稲荷神社への上り階段が現れた。

まあまあ広い境内だけれど、そこにいろんな神社がいっしょになって、アパートメントみたいになっていた。

垂仁天皇の頃の創立で、元は比売社であったらしい。古すぎて、詳しいことはよく分かっていないようだったけれど。稲荷神を祭神とするけれど、伏見稲荷の稲荷神とは違うそうだ。また別の、古い稲荷神信仰があったのかもということで、「もと稲荷」とも称しているそうだ。

説明には、古代(4世紀の頃)、このあたりは玉造部(勾玉などを作る人たち)の住むところであったと書かれてあった。「朝鮮半島との勾玉文化の交流地」だったって。

初めて玉作りのことを聞いた時にはおとぎ話かと思った。勾玉ってまさかそんな、物語みたいな・・・って。

けれど日本では、弥生時代どころか、縄文時代の玉作りの工房跡も見つかっているらしかった。そして縄文時代にはすでに広く交易されていたらしく、遠い地方で採れた石を使った玉が、各地で見つかっているそうだ。

前に歩いた十三街道は、古くは玉祖道と呼ばれたらしく、玉造から神立の玉祖神社に至る道だった。玉祖神社は高麗からの渡来人の住んだところと言われている高安の村々の氏神で、祭神は三種の神器である八尺瓊やさかに勾玉を作った人。道々にも玉作の工房跡が見つかっているということだった。

そして守口の八雲には、弥生時代の玉作りの工房がみつかっているそうで、八坂瓊やさかに神社が鎮座していた。

玉造部はノンフィクションなのだ。


神社には他にもいろいろ説明がされていた。

当時は清水が湧いていて、利休はその水でも茶をたてていたらしい。江戸時代にはその水で酒造りも行われていたんだって。

以前は、大阪の町に時々ある「ここには清水がわき」「名水と呼ばれ」とかいう説明が全くぴんとこなかった。けれどだんだん想像できるようになってきた。

高低差のあるこのあたりは、山あり、谷あり、緑豊かで、鳥がさざめき、清水がわいて、泉もできる、そんな素敵なところだったのだろう。


胞衣よな塚大明神なる摂社もあって、そこには胞衣が納められているらしかった。胞衣って、胎盤などの出産で出る諸々のもののことだそうだ。

ここにあるとされるのは、豊臣秀頼を産んだときの淀君の胞衣なんだって。当時胞衣は神聖なものだったらしく、豊臣家が滅んだ後も密かに守られ、ここに納められるに至ったそうだ。

神社は秀頼さんが幼い頃に、秀頼さんの名で改修が行われているそう。

他に「秋田實笑魂碑」なる碑があった。

秋田實って人は「上片笑いの父」だって。大阪城公園が大阪砲兵工廠だった頃、多くの工員たちが玉造に住んでいた。一時は何万人と働いていたという。そんな一人が秋田さんの父で、秋田さんはここ玉造で生まれ育った。

そして玉造の舞台でデビューしたエンタツ・アチャコっていう超有名になる漫才師と出会い、タッグを組み、秋田さんは有名な漫才作家になっていった。

雑誌「ヨシモト」編集、「漫才学校」校長、そして戦争、終戦。そして再び漫才へ。


玉造が以前は玉造禰宜町であったってこととかも書かれていた。

禰宜ねぎって神職の名称のようだから、玉造稲荷神社の禰宜さんたちが住んでいて名付けられたのかな?

神社を下りて元の道に戻り、東の玉造筋に下っていくと、歴史の散歩道は北に続いていた。そっちに進めば大阪城公園に戻る。ここを右折して南下していった。

今里方面へ。


京セラの大きな建物があって、その向かいには「玉造温泉前」とあった。けれど温泉なんてなかったから、このあたりも最近、化けたあたりなのかな。

通り沿いは温泉や銭湯の似合わないひらけ方だった。けれど玉造筋から中に入ると、たちまち下町の感じだった。銭湯も似合う。工員たちの町だった名残なのかな。

地下鉄玉造駅に出たら、そこは長堀通との交差点で、ここを左折して東に玉造商店街を歩いて行った。

JR環状線の高架下を過ぎたら東成区で、地名は東小橋。「二軒茶屋跡」の碑があった。

ここは暗越奈良街道で歩いたところで、記憶をたどりつつ歩いた。右手に歴史の散歩道の舗装がされた道が分岐して、この歴史の散歩道の道をずっと歩いていくのが暗越奈良街道。江戸中期には伊勢参りが流行して、伊勢道として賑わったという道ね。

暗越奈良街道は玉造稲荷神社スタートでもよかったけれど、前回、二軒茶屋跡から歩いていた。暗越奈良街道を行くと今里あたりを通った。


歴史の散歩道に入ってすぐのポリボックスが懐かしかった。となりには「パンや」なる小さなパン屋があって、行列ができていた。気になったけれど、その直前に見つけたパン屋でもうパンは買っていたので、またの機会に。

矢田地蔵を過ぎ、大きな通り(長堀通り)に出た。ここで一旦、歴史の散歩道の舗装が消えてしまうけれど、ここは素直にまっすぐ前方の道に。

玉津橋で平野川を渡る前に、左手に見える八阪神社に寄ってみた。鳥居をくぐると参道にアパートや八坂湯なる銭湯があった。

このあたりは静かで、古い屋敷などもそこここにあった。地名は中道で、ここって、大阪市内よねえ?と思うような一帯だった。

藤原道真が中道に別邸を建て、牛頭天王を祀ったのが、ここ八阪神社の始まりらしい。

牛頭天王って、古くは朝鮮半島に由来するんじゃないかともいわれている神様だ。このあたりも、玉津というだけあって津だったところで、飛鳥時代や奈良時代には外交施設があり、朝鮮半島の人々も多く住んでいたとされているところ。

そして藤原道真の頃には、牛頭天王は祟りを抑える神様として信仰されていたみたい。

藤原道真がここに、って唐突な気もするけれど、祖先である大小橋命が産まれたとき産湯をつかったという産湯稲荷神社に遠くない。縁の地だったんだろうな。


玉津橋を渡って進んでいくと、右手に中本墓地と大今里墓地。常善寺への道標があるあたり。

それから「ようこそシルクロードへ 暗峠まで三里」と大きな看板が現れた。

暗越奈良街道は「シルクロードの終着点」とも言われているけれど、それでもシルクロードを名乗るなんてすごいな、という、こてこての下町あたり。

少し北には新道ロード商店街があって、そこも少し歩いてみた。なかなか長い商店街で、シャッターのおりているお店もあったけれど、にぎわっていた。そして、すごい昭和。

昭和ぶりがけっこうハイレベルなのに、あくまでもさりげなく、当たり前のように存在していた。


南の暗越奈良街道に戻り、大今里あたりを散策した。ここも面白いところだった。古いを通り過ぎて、朽ちていこうとしている家々もあった。

観光寺などお寺も多くて、道は迷路のようで、スプロール地区ってやつだな。熊野神社にも寄って、千日前通りに出たら、暗越奈良街道は東に向かう。

南にそのまま進むのは北八尾街道。わたしたちは北八尾街道の一本西側の道を南下していった。前に松島新地を見てきたので、今度は今里新地も見てこようと思って。

今の新今里3丁目、5丁目あたりが昭和初期にあった今里遊郭の跡らしく、熊野神社を南下したあたりのようだった。

近鉄電車を越えると、いつみ商店街があり、それから更に南下していくと、今里新地本町通になって、新今里5丁目だった。天理教の大きなお寺(教会)があった。

でも、松島新地とは違っていた。「十八歳未満立入禁止」の札が並んでいるじゃなく、普通の焼肉屋なんかのお店が多かった。普通のおばさんも自転車で通っていた。

夜のお店が多いけれど、ただそれだけ、という感じ。韓国系のお店がやたらとあった。ここは「裏コリアンタウン」とも呼ばれているんだって。


そこから西に歩いていくと、みゆき橋で平野川を越え、百済門があって、御幸通商店街だった。いわゆるコリアンタウン。

左手には御幸森天神宮も現れた。ここには仁徳天皇が通っていたという桑津街道を歩いた時にやって来たことがある。

つき当たりまで進んで行くと、何度目かの彌榮神社だった。あいかわらず古くて素敵だった。

熊野神社近辺や、大今里あたりも古いけれど、この一帯は別格かな。新しいものがまだ入り込んできていない、古いものが現役でいる場所。大阪市内なのに。

地名は桃谷だった。

神社の東側を北上していくと、鶴橋本通商店街だった。扱っているものはほぼ韓国のもの。話される言葉は普通に韓国語。

アーケードというか、なんだか大きな屋根の下に商店街が入っているようなところだった。途中で何度か他の道と交差していたけれど、その道もぜんぶ、商店街になっている。巨大な屋根付きの迷路商店街のようだった。

迷路を抜けると、千日前通り。熊野神社の西のほう。


生野区って、人口の25%が外国籍の人で、大阪でもNo.1の高率らしい。さもありなん。これだけ大きい商店街にかなりの確率で韓国籍、朝鮮籍の人が住んでいるのだろうから。

玉津あたりに朝鮮半島などからいろんな人が渡ってきて、近辺にも住んでいたと思われる飛鳥時代や奈良時代。それを踏襲するみたいに、今も生野区には朝鮮半島の人々がいっぱい住んでいるんだな。

そして今でも「百済門」なのはどうしてなんだろう?

平野区には百済駅もあったし、平野川は百済川とも呼ばれていた。

飛鳥時代、滅亡した百済の最後の王の息子たちは日本にやってきていた。兄は滅亡しようとしている祖国に戻り、どさくさの中で最後には行方も分からなくなってしまった。けれど弟の善光さんは日本に残り、難波に住み、高い位について、子孫たちは百済王くだらのこにきし氏として交野のあたりに移転。そこに百済王神社や百済寺を建てている。

最初に住んでいた難波にも百済寺や百済尼寺を建てていて、それが堂ヶ辻廃寺(天王寺区)や今の舎利尊勝寺(生野区)ではないかとも言われている。

情勢が不安だった百済からは、人々が続々と亡命してきたそうだ。自分の国が滅亡しようとしているとき、人々はどうするんだろう。祖国をいたみ、再生を願い、生き残った王の息子を希望にして生きるのかな。皇子がいるところ、そこが百済だ、って。

そして今、百済門のあるコリアタウンがあり、これからもあるのだろうな。


千日前通りを越えて再び東成区に入り、少し東に行くと、比売許曽神社の鳥居が見えた。

小さな神社だった。

垂仁天皇の時、東高津あたり(小橋)にシタテルヒメが祀られ、その後、この地に移ってきたともいわれているらしい。ここは元は牛頭天王社だったのだって。

記紀には「新羅のアカルヒメが難波に祀られた」とあって、シタテルヒメ=アカルヒメで、比売許曽神社がその祀られたところなんじゃないかとも言われているそうだ。

アカルヒメって、新羅の王子アメノヒボコに嫁いだものの、難波に里帰りしてきた人ね。

平野公園にはアカルヒメ(赤留比売命)神社があったし、姫嶋神社や姫嶋龍神社にもアカルヒメが祀られていた。そんな中、シタテルヒメ=アカルヒメ説はこじつけに思える。

シタテルヒメ(下照比売)って、大国主の娘(アヂスキタカヒコネの妹)と言われている人だ。アカルヒメとは別人だろう。


神社では、カラスがカカカカと乾いた音で鳴いていて、見上げると、高い位置に大きな巣を作っていた。

所々の部品が針金ハンガーなのが見てとれた。鉄筋コンクリートならぬ鉄筋巣ね。

神社を出ると、千日前通りを西に向かっていった。下味原交差点を過ぎて、このあたりは高低差も面白い。

地名は小橋だった。右手に緑が見えて、公園と産湯稲荷神社だった。

ここが11代垂仁天皇の時、比売許曽神社が祀られた地だと言われているそうだ。そしてその境内にあった井戸で、大小橋命(神功皇后の頃の人で、中臣鎌足の祖先)が産湯を使ったとかで、地名が産湯になっていたこともあったらしい。

横の小橋公園の一角のように小さい神社だったけれど、都会の神社の割にはなんだか雰囲気があった。小橋公園は少し北東に行ったところにある真田山公園などと同じく、高低差の激しい公園だった。

桃山跡という碑もあって、このあたりは明治時代までは桃の茂る山であったらしい。大正時代に埋めたてられた味原池もあって、景勝地だったんだって。


そんなに距離を歩いたわけではないのに、今日もまた面白かったな、と地下鉄谷九駅から帰途についた。

駅までの間に東高津公園や東高津宮があったけれど、ここは何なのか、よく分からなかった。その時はまだ。

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