恋愛小説のすすめ
私は恋愛小説家という仕事に就いている。なんとなく新人賞に送った小説が高評価を受け、恋愛小説家として華々しいデビューを飾ることになった。
現在は三冊もの恋愛小説を書き上げ、いずれも何十万部という売れ行きを叩き出している。最新作も好調であり『売れっ子』のレールの上を走っている最中である。
私は世間から純愛小説作家と称されているらしい。基本的に愛し合う二人がいて、何らかの問題が起こり、別れ、最終的に元の鞘に収まる。私書く小説は実に単純な物語ばかりだ。純愛の純は単純の純を指しているのではないだろうか。
最初は才能が認められたようで嬉しかった。ジャンルは違えども、何かを生み出す仕事をしたいと考えていたからだ。
だが、今はこの仕事をやめてしまいたい。
私は嘘を繋いでいるだけだ。小説の中ではどんなに喧嘩をしても仲直りすることが出来る。たった数行の空白で何年もの月日を過ごすことが出来る。
小説内の主人公は思った通りの言葉を理想的なシチュエーションで発してくれる。そして対象となる恋人はそれに応える感情を抱き、私の意図した通りの答えを返してくれる。その後、彼らは当たり前のように手を繋ぎ唇を重ね身体を繋ぐ。
しかし実際は彼のように上手くはいかない。私が話をする時はいつもタイミングが最悪で、伝えようと思ったことが正しく伝わりはしない。そして勿論、あの人は理想的な感情を抱いてくれることはなく、私の望んだ返答をしてくれることもない。
こうなればどんなにいいものかと思った物語を私は出版社に提出する。そしてそれらの話を編集者と推敲し、雑誌に掲載されて書籍となる。
一連の流れに乗って販売された作品が、編集者を含め多くの人に評価される。私はそれがたまらなく嫌だ。全て嘘で嘘を固めた物語だというのに。
ある日、インタビューの仕事が入った。この間発表した作品がヒットしたため、雑誌の企画の一部として載せるらしい。
是非とも断りたかったが、編集側が首を縦に振ってくれなかった。
「これも仕事の一つか」小説に出てくる主人公のように溜め息を吐く。こんなことだけが上手くなる。
席に着きインタビュアーと向き合う。一通り挨拶をしてインタビューが始まる。 デビューのきっかけは? 僕が小説を書いて、どこまで行けるか試してみたかったからです。
恋愛小説を書いている理由は? 人を愛することとはどういったことか色々な人に少しでも知って貰いたかったからです。
あなたにとって恋愛とは? 人が出来る最高の行いです。
ここでも嘘を吐く。当たり前だ。嘘の物語しか書いていないのだから。
本当は――。
デビューしたきっかけはあの人に拒絶されて何かしないと気が保てなかったからだ。一冊分を書き終わった頃には原稿を出版社に送っていた。偽りの物語が出来た時の、一瞬の達成感に身を任せたような感じだったと思う。
恋愛小説を書いている理由。独りよがりの延長戦だ。あの人を忘れることが出来ないだけだ。
私にとって恋愛なんてただのトラウマに過ぎない。
他の様々な質問にも適当にそれらしい解答をした。心はこもっていない。
「では最後に。男女問わず若者に絶大な支持を受けているあなたの作品ですが、今のお気持ちを誰に伝えたいですか?」
「私は……」
自宅に戻り、すぐに冷蔵庫からビールを取り出しプルタブを空ける。
ぷしゅ。
缶から炭酸の弾ける音が放出される。その音が私しかいない薄暗い部屋に染み渡る。私はこの気の抜けたような音が好きだ。肩の力が抜けていくような気がする。
結局あのインタビューには正直に答えられなかった。
「昔の恋人」と答えるのは変わった解答ではない。むしろ解答として限りなくベストに近い答えだと思える。
しかし私はここでも嘘を固め、適当に、
「幼なじみ」と答えた。
怖いのだ。虚像の物語を書いていくうちに、あの人と作ったほんのわずかな思い出を忘れてしまうのが。
ほっそりとした身体のライン。料理の邪魔になるからと言って短く切った黒髪。スカートから覗かせる白い足。時折見せる笑顔。初めて作ってくれたパウンドケーキの味。
今でも鮮明に思い出すことが出来る。これらを、あの人を、虚像の物語などと一緒にしたくない。あの人はただ一人しかいなくて、私の思い通りに動いてくれるわけがなくて、もう、私の隣で笑ってくれはしないのだから。
私は一口、ビールを飲み込み、二口目を一気に流し込んだ。
二缶目を開ける。また気の抜ける炭酸の音が鳴る。今度は部屋に響くように聞こえた気がした。
彼女がそばにいてくれるなら悪魔に五体の一つを差し出すことすら容易く思える。僕はそれほど彼女を愛している。三年経った今でも。
僕が彼女に向ける愛は異常とも言えるほど固執したものだった。自分でも固執、依存していた自覚がある。その僕の愛し方に、彼女は嫌気が差してしまったらしい。
しかし、僕は小説の主人公のように、以前失敗した行いを次の恋愛の糧にしようとは思わない。
僕は彼女とやり直したい。僕の悪いところを全て直して、また彼女の隣に座りたい。
僕はあの頃より少しは成長出来たのだろうか。
喉が渇く。ビールを流し込む。
たぶん、出来ていないだろう。僕は小説に出てくる主人公のように前に進もうとしていない。僕は今もあの頃のままだ。それは悪いことなのだろうか。変わらないものなんてないというのだけど、この感情くらいは形を保ち続けてもいいじゃないか。
本棚から適当に小説を引き抜く。カーテンと窓を開け、暗い部屋に夜風を送り込む。少し酔いが覚めた。外を見ると夜空にほんの少し欠けた月が浮かんでいる。今まで二十数年間生きてきたが、初めて月が眩しいと思えた。
窓際に座り込み、自分が書いた小説のページをめくる。淡い月の光が僕と小説の一ページを照らす。
当たり前のことだが、そこには自分の構成した文章が載っていた。まだ文に青臭さが残っている。ああ、デビュー作なのかこれは。
小説の主人公は僕の理想的な恋愛を繰り広げている。当然だ。そう意図したのだから。僕と彼は違う。
彼は彼女に振られ、気持ちの整理がつかなくても前に進もうとしている。本当に僕とは大違いだ。僕はあの頃から一歩も前に進んでいない。
そして彼は何年経っても彼女のことを愛している。僕と……。
――僕と同じなのか。
それでも都合よく動いてくれる小説の彼女とあの人は違う。あの人が都合よく動いてくれるはずがない。
僕は小説にすればたった数行の空白で流せる年月を過ごしてきたのだけれど、今の僕は彼女の隣に座ることは出来ないだろう。
でも、もしかすると。なんて考えはしない。何も変わっていない僕が彼女を振り向かせることなんて出来るわけがないじゃないか。
前に進むのは今からでも遅くないのだろうか。今からでも、彼女を振り向かせることが出来るのだろうか。
虚像の物語とは全く違う展開になるだろうけど、彼と僕の抱いている感情は同じだ。彼女は恐らく変わりはしない。なら、僕が変わるしかない。 そのためには数行の空白で表すことなんて出来ない、中身の濃い年月を過ごさなければならない。
僕は前に進むことが出来るのだろうか。
今のまま彼女を思い返すだけの生活を続けるのは。僕は――。
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これから二年後、彼は直筆で一冊の本を書いた。内容に嘘はなく、真実を全てを綴った。
一冊しかないその本はひっそりと彼の本棚に収まっている。
話の結末は彼らしか知らない。