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 常であれば美しい風鈴の音だが、この時ばかりは疎ましくなるほど空虚だった。たなびく音が冴え冴えとうら寂しいせいか、障子越しに呼びかける八尋の声も幾分ひそりと静まったものになる。


「姫。お聞きになっていましたね」


 咎める口調ではなかった。いっそ優しい──出来の悪い教え子を慰める師さながらの声色。

 八尋は(あき)姫の私室に踏み込もうとすることもなく、障子に手をかけることもない。ただ廊に両膝をつき、紙一枚の壁を隔てた向こうから、彼女が自らの意思で現れてくれるのを待つ。


「単刀直入に申し上げます。逃げたくばご命令を。私には貴女を連れ去る覚悟があります」


 そっと語りかける障子越しに、朱姫が身じろいだ。


「貴女は緋尾国(あかおのくに)の姫。水神の愛し子ではあらせられますが、〈金魚の君〉ではありません。兄君の代わりとして最前線に立たねばならぬ義務などないのですよ。……たとえ、他ならぬ緋褪(ひさめ)様が遺された願いでも」


 滔々とこぼれ落ちるのは嘘偽りない本心だった。

 敗軍側にある姫の末路など、口に出すのも憚られるほど惨い。仮に温情で生かされたとしても、蹂躙される地獄のような日々が続くだけ。しかし戦火の及んでいない今ならば逃げきれる可能性は高い。


「……逃げよと申すか、八尋。わらわに兄上の後釜は務まらぬと」

いいえ(・・・)

「わからぬ。そなたの言葉は無茶苦茶じゃ……!」


 くしゃりと乱れた高い声で朱姫は噛みついた。その小さな叫びが(きり)のように胸を刺し、八尋もまた表情を歪ませる。けれど強く瞑目した一瞬のあいだに迷いを捨て去ると、壁を隔てた先の彼女をひたと見据えた。


「どちらも苦しい道です。逃げれば仮初の平穏を得られるやもしれませんが、後悔が付き纏う。そして戦いに身を投じれば、常に死の危険が貴女を襲います」


 ──ですから、朱姫様。

 八尋は告げなければならなかった。誰より姫に近しい側近なればこそ、酷な言葉を。


「貴女は今、決めねばなりません。どちらの苦しみを背負って生きていくのか」


 刀を背に隠した死刑執行人、逃亡を促しに来た仲間たち。彼らは皆、朱姫を庇護するべきか弱い少女として扱ったが。八尋は甘えを許さない。手心のない仕打ちになろうとも、それが、ひとりの武士たらんとして稽古を重ねた彼女に対する敬意だからだ。

 朱姫が逃げると決めたならその手を取り、ともに遠い旅路を踏んで落ち延びる。戦うと決めたなら武器を取り、ともに血に染まってみせる。毅然と述べたように、八尋には覚悟が──いかな運命も主とともにするという確固たる意思があるのだった。

 朱姫はもう幼くない。誰かが手を引いてくれる頃はとうに過ぎた。己の道は、己で選ばなければならぬ。


「……八尋」


 永遠にも思えた長い沈黙の後。普段の豪胆さからは想像もできない、弱々しい声で朱姫が囁いた。


「一度で構わぬ。ぎゅっと、してくれ。わらわの弱い心を、そなたが殺してくれ」


 それは三年という、短くも長い月日のなかで初めて耳にした、朱姫の弱音だった。木刀を打ちあう時も、並んで削り氷を食べる時も、この瞬間ほど彼女の心の在り処に触れられたことはない。気丈な笑顔の裏に隠されていた一面を明かされて、どうして退(しりぞ)けるなどできようか。──応える声が滑らかに口を突く。


「貴女がこの先を歩んでいく為の、力になれるなら」


 八尋が立ち上がるのと、朱姫が障子を開け放つのは同時だった。胸に飛び込んできたその小さな身体を、優しく、しかし掻き抱くように迎え入れる。

 殺める以外には何もできなかった武骨な手。罪深く愚かな指先でも、必要としてくれる存在があることを思い知った。初めて抱き寄せた人のぬくもり、そして心から誰かを愛おしいと思う感情も。


「ついて来てくれるか。どの道をゆこうと」

「ええ」

「どれほど無謀でも?」

「ええ。貴女のお傍に」


 八尋の胸に頬を寄せていた朱姫が、(おもむろ)に視線を上げる。濡れていると思われた眼に涙はなく、ただ途方に暮れたまなざしだけがあった。

 鼻先が触れあいそうなほど近い距離で、彼女の血の気の失せた唇が微笑みをかたちづくる。


「……やはり、そなたの赤は、」


 包帯に巻かれた手が八尋の輪郭に添えられた。その眦から頬を流れ、首筋、腕へと連なる赤の入れ墨を、たおやかな指先がなぞりゆく。愛おしむように。


「金魚が連なって、泳いでいるようじゃの……」


 風鈴がひと際高く鳴いた。百日紅の花弁を巻き上げながら一陣の風が吹き(すさ)び、寄り添うふたりを甘やかに嬲る。八尋は朱姫を抱きしめる腕に力を込めようとしたが、優しく胸を押し返されて半歩下がった。

 そして息を呑む。

 凛然と背筋を伸ばした朱姫のまなざしは、見る者を圧倒する強さをすでに湛えていたのだ。まるで夏風が荒れた一瞬、緋褪の魂が彼女に宿ったかのような──

 暮れゆく日に照らされて、黒い眼は黄金を纏う。


「ついて参れ。ただちに援軍の再要請に向かう」


 待ち望んでいた言葉が胸を打った。

 八尋は右膝をつき、深く(こうべ)を垂れた。


「──仰せの通りに。朱姫様」




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