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 緋尾国(あかおのくに)において、(あき)姫の破天荒ぶりは有名だ。

 死刑囚であった男を己のものとして連れ帰った話は最たるもので、これにはさすがの大名も度肝を抜かれたという。我が娘ながら愉快と笑い飛ばし、死刑囚もろともあっさり受け入れた大名の豪胆さには逆に八尋が驚かされたが。兎にも角にも朱姫は、淑やかという言葉とは無縁の少女に思われた。

 けれども、そんな彼女も稽古着を脱げば纏う空気を一変させる。結い髪を解いて赤い小袖に身を包み、凛然と背筋を伸ばした姿は、紅玉にも勝ると謳われる。


(水神の愛し子とは、言い得て妙だな)


 うだる暑さの只中で、八尋は縁側の柱に寄りかかって胡坐を組んでいた。じっと注ぐ視線の先には、瀟洒な楽の音にあわせて舞う朱姫の姿がある。障子は開け放たれており、差し込む陽に通り抜ける風に、彼女の美しさが余すところなく晒されていた。


 朱姫が生まれた清夏の日、奇跡が起こった──とは登城してまもない頃に他の家臣から聞いた話だ。

 曰く、領地のあらゆる水が澄んだのだと。城を囲む水堀、子どもたちの遊び場である河川敷、井戸の水、すべて底が見えるほどに透過したらしい。姫の誕生を神が祝福しているようだったと、未だ語る者もいる。

 その日限りの神変であったものの、光り輝く水面は人々の眼裏(まなうら)に鮮明に焼きついた。清らかな水なくして作物は実らない。何よりも水を尊ぶ緋尾国の領民が、朱姫を水神の愛し子と呼び慕うのも頷けた。


 一方、兄君の緋褪(ひさめ)は〈金魚の君〉の異名を冠している。それは豊穣と権力の象たる黄金色、加えて病魔や災厄を退けるとされる赤色に由来した、未来の武将を讃えるものだ。両方の色を持つ金魚が縁起の良いものと信じられていること、また、水に親しむ緋尾の国柄からこのような呼び名が生まれて浸透した。

 沈まぬ太陽たれ、と。大名や家臣が寄せる期待を数多背負う緋褪の強く美しい生き様は、なるほど確かに〈金魚の君〉であるのだろう。


 しかし八尋にはその称号が、朱姫にこそふさわしいもののように思えてならなかった。

 紅を差す必要もないほど血色の良い唇。濡羽色の柳髪は華奢な肩をゆるやかに下って腰まで伸び、夏風と戯れて靡くごとに艶を放つ。木の床を滑る赤い小袖の裾はひらめく尾鰭さながらで、朱姫が粛々と通った道筋には、あたかも水紋の流れが生じるよう。

 何よりもあの、光の加減で黄金に煌めく黒い眼──


「終わったぞ、八尋。稽古をつけてくれ!」


 散歩に行きたくて仕方ない犬もかくやという勢いで飛び出てきた主君に、八尋は眉間を揉んで項垂れた。

 小袖の衿を大胆に広げながら駆けてくるなど、先までの凛然とした麗しさはどこへやら。ほのかに汗ばんだ鎖骨や胸元が陽に白く照るさまを一瞬でも見てしまい、言いようのない後ろめたさに苛まれる。


「何とはしたない」

「だって暑いんじゃもん。溶けてしまう」


 朱姫が慎ましく、控えめな淑女になるのは兄君の前──あるいは密かに想いを寄せている若き軍師、九条の前でだけなのだ。彼らが大名について出征している今、朱姫の行動に制限をかける存在はない。

 つまるところ、やりたい放題なのだった。年頃の娘らしからぬ振舞いが目立ち、悩みの種になっている。


「まあ待っておれ。すぐ稽古着に着替えてこよう」


 意気揚々と背を向ける朱姫を、八尋は呼び止めた。


「休息も大事ですよ。いくらお若いからといっても、そのように根詰めていれば必ず倒れます」

「何じゃ、心配してくれるのか?」

「倒れた貴女の世話をするのが面倒なだけです。いいからいっとき休みなさい。私は逃げませんから」


 朱姫は不服そうに唇をとがらせていたが、やがて渋々頷いた。八尋は一度言い出せば梃子でも動かない。下手に反抗するより素直に従ったほうが賢明であることを、この三年のあいだに学んでいたのだ。


「むう。では休憩がてら、削り氷を食おうかの」

「本当にお好きですね」


 当たり前じゃ、と笑顔を残して朱姫は立ち去った。衣擦れの音とともに赤い小袖の裾が遠ざかっていく。優美な金魚を思わせる後ろ姿を見送る八尋の表情は、明るい空模様に反して晴れなかった。

 兄とともに戦場を駆ける。それが叶わぬ夢であることを、彼女自身が一番理解しているのだろう。近頃の朱姫にどこか生き急ぐような気があるのは思い違いではないはずだ。一見お気楽な姫だが、その実、聡い。遠からず政略結婚の厳命が下ることを予見している。

 槍を振るうことが許されても、やはり武士としての生き方まで許されるのは難しい。ままならない現実を振り払おうとするかのように稽古に打ち込む朱姫を、どうにか救えないかと考えるものの……連日の暑さに虚脱する頭は鈍く、まったく役に立たない。


 軒下に吊られた砂張(さはり)──錫と銅をあわせた金属──の風鈴が青空を背景に泳いでいた。振り管が小さな鐘を打つたびに、尾を引く涼やかな音が辺りに満ちる。それを楽の音に百日紅の枝を離れた花弁が舞う。


 だがこの日。吹き渡る風が齎したものは、夏の風情だけに留まらなかった。


「八尋殿!」


 ただならぬ様子で詰めかける幾人かの大声、そして興奮した馬の嘶きが風鈴の音を切り裂いた。大地を蹴る蹄の振動を風のなかに捉えていた八尋は、己が名を呼ばれる頃にはすでに城門に駆けつけていた。

 そこには、三名の武士の姿があった。いずれも深手を負って顔や肩から流血しているが、城の者だと即座にわかる。領土の拡張を目論んで呉須国(ごすのくに)に攻め入ると決めた大名が、従えていった軍勢の者たちだ。

 八尋の虹彩が引き絞られる。武士のひとりが手にしていた柄の赤い槍には、ひどく見覚えがあった。


「それは、緋褪様の」


 朱姫が愛する兄君の、〈金魚の君〉の槍。

 血に濡れたそれがなぜ、眼前にあるのか。


「九条が──九条が裏切りました」

「密書で呉須の者と通じていたのです」


 馬上から飛び降りた彼らの剣幕で何が起きたのかを悟り、八尋は歯噛みする。

 生き馬の目を抜くようなこの時代、裏切り行為は当たり前に起こる。度重なる謀反すら含めて、戦に勝ち続けることが大名の宿命なのだ。篤い忠誠心を持っているかに見えた九条が寝返るなど予想外の事態だが、その背景に何があろうと関係ない。緋尾国の元軍師が敵方についた──それだけが真実である。

 八尋の思考は素早く切り替わった。もっと重要な、戦況を左右する問題へ。


「援軍はどれほど集まりそうか」


 大名の軍勢は、呉須国を攻めるために建てた城へと発っていた。おそらくは仕掛けるより先に、九条の手引きで仕掛けられたのだろう。つまり今、緋尾の軍は籠城戦を強いられている。援軍なしに勝ち目はない。


「それが、色好い返事をもらえておりません。劣勢に立たされた我々は見切られたのでしょう」

「緋褪様は、朱姫様に託せと遺されました。必ずや、この戦況を覆してくださると。しかし──」


 緋褪の槍を持つ武士が縋るようにそれを見る。が、沈痛な面持ちで首を振った。


「もはやこの城も危ない。せめて朱姫様だけでも逃げおおせられるように、我々は」


 がしゃん、と背後で何かが割れる音がした。

 武士たちがはっと眼を向ける。一早く動いた八尋が音のあった物陰を覗くと、土の上で陶器の皿が無残に砕け散り、甘葛のたっぷりかかった削り氷が散乱していた。冷たい蜜の山を食い尽くさんと群がる蟻の他には何もいなかったが、今しがたまで盗み聞きしていたであろう少女の顔が脳裏に浮かぶ。

 八尋は駆け出した。己を呼ぶ武士たちの声にも振り向かず、朱姫の私室へと。




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