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 木刀と木刀の打ちあう音が、青空高く鳴り(とよ)んだ。

 (あき)姫の手から得物が弾かれ地面に転がる。反動でよろめき倒れそうになった彼女の腰を、八尋は咄嗟に抱いて支えた。容赦なく照りつける日射しに晒されて、息を弾ませるふたりの肌には珠の汗が浮かんでいる。


「は、……腕を上げましたね、姫。私が息を乱すほどになるとは」


 四方を廊に囲まれた中庭の中心。千百二十五回目の手合わせも八尋の勝利で終わったが、槍を模した木刀を持つだけでふらついていた当初を顧みれば、朱姫の成長は目覚ましいと言えた。身長に勝る長さの得物を立派に振るい、今では八尋とほぼ互角に戦えるまでになっている。一本取られる日も近いだろう。

 朱姫の側仕えになってから、三年の月日が経った。課せられた役目と言えば槍術の師範が専らで、戦のために城を空けがちな父君や兄君に代わり、朱姫の無聊(ぶりょう)を慰める日々。大名の娘ともあろう彼女が槍の稽古に励むなど普通は許されないものの、れっきとした経緯があるので黙認されている。


 ふと(あげは)蝶が鼻先を掠め、八尋の視線がうつろった。ひらひらと青空に飛び立っていく優美な極彩色を見送りながら、夏の盛りを実感する──も束の間、脳天に響く痛烈な手刀を額に喰らって悶絶する。

 うずくまる八尋の腕から抜け出した朱姫が、したり顔で白い歯を覗かせた。


「まぬけめ。よい眺めじゃの」

「……姫。今のはあまりに……卑怯では?」

「何を申すかこのうつけ。そなたは戦場でも余所見をするのか」


 白砂に(うず)もれた長い木刀を拾い、朱姫はにんまりと笑う。額をさすりながら立ち上がった八尋に向けて、木製の槍の先端が突きつけられた。


「さて、もう一戦願うぞ。先程は負けてしまったが、あと少しで何か掴めそうなのじゃ」


 八尋はこれ見よがしに溜息を吐いた。

 こめかみに滲んだ汗が赤い入れ墨をなぞるように伝い落ちる。濡れた頤をぐいと手の甲で拭い、木刀を担ぐだけの仕草にも、身体の節々が軋むのを感じた。

 大の男がこれだけ消耗しているのだ。八尋よりずっと小柄な朱姫はとうに動けなくなっていて然るべきだろう。けれども彼女は、八尋と同じ大きさの得物を扱ってなお疲労の影を見せない。潤いのある唇で息を弾ませ、爛々とした黒い眼でこちらを見据えている。


「貴女の体力は底なしですか?」

「まだ三戦目じゃろうが。じじいみたいじゃな」


 ──朱姫がこうして、武術を会得しようとひたむきになっている背景にはひとりの青年がいる。

 二つ歳上の兄、緋褪(ひさめ)だ。

 朱姫は常に彼の後ろをついて回り、二言目には「あにうえ、あにうえ」と笑みをほころばせる童女だったという。いついかなる時も心優しく、絶対の味方である兄の存在は、何ものにも代え難い幸福の象徴だったのだろう。ゆえに彼が〈金魚の君(・・・・)〉──いずれ家督を継ぎ将となる若者として戦に駆り出されるようになった時、朱姫も自ら武器を取ることを選んだ。

 すべては、最愛の兄とともに戦場を駆けるため。晴れて彼が将となった暁に同じ軍勢で戦うべく、乙女の身で武士を志し、その背中を追い続けているのだ。


 しかし、百日紅(さるすべり)の花弁が薫風に美しく舞おうとも、世は戦乱のさなか。

 各国の姫君は、近隣国との関係が緊迫した際に、花嫁という名の人質になる役目を担う。同盟を結ぶ手立てとして無理やりにでも嫁がされるのだが、無論、教養がなくてはいけない。したがって芸事を身につけることは、大名の娘に生まれた者の責務だった。

 朱姫とて例外ではなく、礼法に始まり和歌、箏、書画、舞踊……様々な稽古が課せられている。それらをすべて手抜かりなく(こな)すことを条件に、大名は朱姫が武器を取るのを黙認したのだった。

 そんなわけでこの快活すぎる姫君は、一日の大半をあらゆる稽古で過ごしていた。


「……何じゃ、ぼおっとして。そんなに効いたか?」


 和歌を詠み、箏を奏でた後とは思えない元気ぶり。だが八尋は気づいている。彼女が木刀を取り落としたあの一瞬、目にしたのだ──白い手のひらに血豆ができているのを。構えるだけでも痛むはずだ。

 訝るような視線を寄越す朱姫を前に、八尋はわざとらしく額を撫でた。くるりと踵を返して歩き出す。


「本日の稽古は終いです。貴女のおかげで興が醒めたので、(けず)()でも食べることにします」

「削り氷! わらわも食いたい!」


 ぱあっと頬を紅潮させた朱姫が小走りで隣に並ぶ。男のように高く結い上げた濡羽色の髪が、彼女の背をご機嫌に打った。


「うんと甘葛(あまづら)かけてくれ。あれは絶品じゃ」

「はいはい。お子様には馬鹿みたいに甘いのを作って差し上げましょうね」

「おん!? なんじゃその言い草は! わらわはもう十八じゃ、幼いものか!」


 喜怒哀楽が激しい朱姫の表情は見ていて飽きない。つい揶揄(からか)ってしまうのが八尋の悪い癖でもあるが、何せ姫君の二倍生きている己が身。十八なんぞまだまだお子様に感じるのは本当だ。稚魚と言ってもいい。


「……何かまた失礼なことを考えたな? わかるぞ。そなたには主への敬意というものが欠けておる!」

「おや、つれないことを仰いますね。私はこんなにも姫をお慕いしているのに」

「だああっ、言葉が軽いんじゃ!」


 いつもの応酬を続けながら木刀を片付け、城内に上がったところで、行き会った女中に「相変わらず仲がよろしいですね」と微笑みかけられる。

 朱姫は頬をふくらませて否定していたが、八尋が女中に包帯を持ってきてほしいと頼むのを聞くや否や、さっと袖のなかに手を隠そうとした。けれども、八尋が捕まえるほうが早い。


「黙っているつもりだったのでしょうが、させませんよ。大人しく手当てを受けてくださいね」

「…………」

「姫? お返事が聞こえないのですが」

「…………相わかった」


 ぶすっとして朱姫は答えた。




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