3章 宿 敵 その3
「どうした?貴族の若僧。もうそれでお終いか。」コルベールは嘲った。
こんな戦法は、ラ・フォンテーヌ侯爵との稽古では、一度も無かった。思わず膝をつく。ヒューゴ・コルベールは、ヘルメットに手をかけると、引きはがした。
豊かな栗色の髪の毛が広がった。
「お前は?」
コルベールに隙ができた。彼女は、コルベールの脇腹を蹴とばすと、銃を構えたマルソーに当て身を食らわせた。
「待て。」
ヒューゴ・コルベールに髪の毛をつかまれ、仰向けに引き倒された。彼は、ローズ・ノワールを押し倒すと、上着を引き裂き、その懐に手を突っ込んだ。
「お、女?」
男のものとは明らかに違う柔らかな感触に、彼はぎょっとなった。ローズ・ノワールは、剣のつかで思い切りコルベールの顎をたたく。男がひるんだ瞬間、彼女は男の腹を蹴とばし、自由になった。
男が剣を一閃する。中途半端な一撃だった。しかし、彼女も交わす力が残ってはいなかった。鎖骨の下を刃がかすめ血がさっと広がった。痛みを感じている暇はなかった。ローズ・ノワールは、コルベールの顔に砂を投げつけると、馬に飛び乗った。
「だ、大丈夫ですか?隊長。」ようやく息を吹き返したマルソー副官が、ふらつきながら駆け寄ってきた。
「俺よりあの女の身のほうを心配してやれ。」
「え?」
「ローズ・ノワールは女だ。」
「そんなばかな?替え玉では?」
「あれだけの腕の怪盗が二人もいるものか。」
斬られた胸から血が流れている。痛みより何より止血が先だった。服を裂いて傷口を縛り、馬を乗り捨てて、屋根を走る。早く家に戻らなければ。一刻も早く・・・
その晩、ミシェルはなかなか寝付けなかった。ピエールを助けに、マレーネがローズ・ノワールの姿で出て行ったのは明らかだった。いつもは腹が立つだけだったが、今日は何か胸騒ぎがする。そのミシェルの耳に天窓の開く音がした。
「マレーネ?」星明りの中、マレーネは倒れ込んでいる。「どうしたの?マレーネ。」
「斬られたのよ。ヒューゴ・コルベールに、包帯を持ってきて。」
「う、うん。」
傷は思ったよりも深かった。血がなかなか止まらない。縫わなければ。ミシェルがブランデーを持ってきた。消毒に使える。焼けつくような痛みだが、化膿するよりましだ。薬を塗り、一先ず、包帯で傷口をきつく縛る。ミシェルも無言で手伝った。
「誰にも言わないで。治るから。」マレーネは眼を閉じた。
体中が痛み、頭が割れそうだ。このまま死ぬのだろうか。嫌だ。死にたくない。マレーネは思う。まだ、私は、何もやっていないのだ。自分の姉さんのことさえも知らない。意識が遠のいていく。死にたくない。
遠くで自分を呼ぶ声がする。父さん母さんだろうか。それとも、ラ・フォンテーヌ侯爵?マレーネは眼を開けた。ミシェルの泣き顔が飛び込んでくる。
「もう、大丈夫ですな。」いつの間にか、ラ・フォンテーヌ侯爵家の侍医の姿があった。
「安心しました。ありがとうございます。」アンリ・フィリップの声もする。
「私?」起き上がろうとするマレーネを皆が押しとどめた。「ミシェル、アンリ・フィリップを呼んだのね。大丈夫と言ったのに。」
「ごめんよ。マレーネ。だって」ミシェルの眼から涙があふれ出した。
「ミシェルのおかげで助かったようなものですよ。マレーネ。」アンリ・フィリップがたしなめた。
「当分、絶対安静ですな。今日は何もしゃべらん方がいいでしょう。」
侍医はミシェルとアンリ・フィリップに何か言づけている。
力がまた抜けていく。マレーネは眼を閉じた、心地よい疲れが彼女を包んだ。
「いったい誰に襲われたのです?マレーネ。」侍医から、もう話してもよいと許可が出てから、アンリ・フィリップが聞いてきた。
「誰だかわかりませんわ。夜、物音がしたので、開けたら急に」マレーネは目を伏せながら言った。何も知らないアンリ・フィリップを騙すのは、さすがに気が咎めたのだ。
「ミシェルもわからないのですか?」
「うん。寝てて。マレーネが倒れてて、俺、俺」
「それで馬を盗んで、私の屋敷に来たのですね。」アンリ・フィリップはため息をついた。
「マレーネ。やはり、ラ・フォンテーヌ侯爵家へ来てください。あなたの身の安全のためにも。」
「いいえ、アンリ・フィリップ。ラ・フォンテーヌ侯爵様が急死した原因がわからない以上、この家でも、ラ・フォンテーヌ侯爵家でも同じだと思いますわ。」
マレーネの言葉遣いに、ミシェルがくすくす笑った。
「それより、ピエールはどうなりましたの?」脱獄の汚名を着てしまったピエールのことが心配だった。
「新大陸に行っていただきました。」
アンリ・フィリップの言葉に、二人は声も出ない。
「海の向こうじゃんか。戻ってこれないかも」少ししてミシェルが叫んだ。
「大丈夫ですよ。ラ・ファイエット将軍と一緒です。ピエールさんには新大陸で人民の政治を勉強してもらおうと送りだしたのです。」アンリ・フィリップは手紙を手渡した。「彼の決心が鈍るとよろしくないと思いましたので、マレーネ、あなたのケガのことは伏せておきました。」
「ありがとうございます。アンリ・フィリップ。」
「なんて書いてあるの?」ミシェルが覗き込んだ。
「読んでいいわよ。ミシェル。」
「ええっと。親愛なるマレーネ・・・僕は、アメリカに行って、自由と平等を自分の眼で見てくるつもりだ。そして、この国の貧しい人が幸せになれる手がかりが、アメリカにはあると思う。必ず帰ってくるから、心配しないでほしい。君の友、ピエールより・・・これでいいの?」
「素晴らしい。良く読めるようになりましたね。」アンリ・フィリップが感心している。




