3章 宿 敵 その1
このところ、ミシェルは、ようやく、カトリーヌ夫人の一件を口にしなくなった。そのことはマレーネをほっとさせた。ミシェルは、ローズ・ノワールがパレ・ロワイヤルの新聞にあるような英雄だと思っている。本当のことを知ったら、ミシェルはどう思うのだろう、私のことを。許されることではない。しかし、マレーネには後悔する気持ちなど微塵もなかった。父さん母さんの仇を討っただけだ。それに、放っておけば罪もない平民がもっと犠牲になったに違いない。
「マレーネ、何やってんの?」後ろからミシェルが声をかけた。
「あんたの服を作ってるのよ。サミュエル小父さんのところから、古着をもらってきたから。」
「この服で大丈夫だよ。」
ミシェルはすっかり丈の短くなった長ズボンを見せた。
「ダメよ。膝がまるだしじゃない。ケガをするわよ。」
「じゃあ、当分、俺が飯を作るよ。」
思わずマレーネは微笑んだ。本当はローズ・ノワールになどならないほうが良いのだ。ミシェルが台所に立っている。シチューを作っているのだろう。良い匂いがしてきた。
「今日はなあに?」
「クリームシチューさ。」
「美味しそうね。」
「全く、マレーネは料理だけは下手だからなあ。」
「言ったわね。」こんな軽口を言い合えるほど、親しくなっていたのだ。
その時、店に飛び込んできたものがいる。サミュエルだった。
「小父さん、どうしたの?」
「大変だ。ピエールが、ピエールが」サミュエルは肩で息をしている。
「ピエールがどうしたのさ?」
「捕まっただ。ヒューゴ・コルベールに。」
「どうして?」
ピエールはルノーの新聞に、事件や下町の近況についての分析を載せていた。当然それは、第3身分に対する圧政の批判となっていた。コルベールはそこに目を付けたのだ。
「ピエールは、誰も傷つけたり、盗んだりしてないじゃないか」ミシェルが叫んだ。
「平民のくせに、生意気だって言いたいんだわ。」マレーネは怒りに震えた。
ルノーの新聞社に行ってみると、ひどい有様になっていた。印刷機械も何もかも、没収され、さながら押し込み強盗にあったような惨状である。
「あいつら、ピエールだけ連れて行きやがった。」ルノーは腫れた片頬をさすりながら言った。
「印刷機も何もかも没収じゃない。酷いわ。」
「大丈夫だ。機械がなければ手で書けばいい。でも、ピエールがいないと・・・ヒューゴ・コルベールの奴。」
「ミシェル、荷馬車の用意をして。」
「パリ警備隊本部はすぐそばじゃんか。わざわざ馬車で行かなくても」
「アンリ・フィリップのところに行くのよ。ラ・フォンテーヌ侯爵家へ」
パリ郊外にあるラ・フォンテーヌ侯爵の館に、マレーネは1年ぶりに戻っていく。幸いにも、アンリ・フィリップは在宅だった。
「どうしたのです?マレーネ。」予告もなしに現れたマレーネに、アンリ・フィリップも緊張した面持ちだ。
マレーネは説明した、ピエールが逮捕されたことを。貴族ではあっても進歩派のアンリ・フィリップに、今は頼るしかない。
「わかりました、マレーネ。ですが、ヒューゴ・コルベールは、我々進歩派貴族のことも、嫌っています。私が頼んでも、おそらく聞き入れないでしょう。その様子だと、近々、バスティーユ送りになりかねません。」
「そんな・・・」マレーネもミシェルも真っ青になった。
「私も、パレ・ロワイヤルでは、何度か、彼に会ったことがあります。貧しく弱い者のことを一番に考えている立派な人物です。何とか、してみましょう。」
「お願いします。アンリ・フィリップ。」
「水臭いことを、私たちは従兄妹通しではないですか。」
アンリ・フィリップは、パレ・ロワイヤルの仲間たちにピエールの脱獄の手引きをさせるようだった。勿論、買収のための金も使う気なのだろう。
「貴族のうちってすごいなあ。」帰り道、ミシェルが話しかけた。「どうしてマレーネ、あそこで暮らさないの?」
「貴族って、見かけのようにきれいじゃないのよ。アンリ・フィリップのような良い人ばかりじゃないわ。」
「うん、そうだね。」
そのまま二人とも黙りこくってしまった。
その夜、ラ・フォンテーヌ侯爵家に影が走った。
影は、そのまま、アンリ・フィリップの部屋に吸い込まれていく。
何かの気配に目を覚ましたアンリ・フィリップは、暗闇の中に影を見た。
「何者です?あなたは?」
「私はローズ・ノワール。」
その言葉にアンリ・フィリップは、剣を取ろうととび起きた。
「慌てないでください。アンリ・フィリップ。」低く若い声だった。
これが、怪盗ローズ・ノワールの声か、アンリ・フィリップは一瞬、恐怖を忘れた。
「私は、今、パリ警備隊本部に捕らわれているピエールを助けたいのです。」ローズ・ノワールは続けた。
「それなら私も同じ考えです。私たちの仲間が、ピエールを助けます。」
「いえ、それでは貴方がたにも、犠牲者が出ます。ヒューゴ・コルベールは、進歩派の貴族にも敵意を持っていると聞きました。」
「では、どうすれば。」
「警備隊がいつピエールを護送するか聞きだしてください。私が馬車を襲い、ピエールを救い出します。その隙にあなた方で、ピエールをかくまってください。」
「わかりました。ローズ・ノワール、やはりあなたは、義賊なのですね。」
「日にちがわかったら、ルノーの新聞社の扉に赤いリボンをまいてください。そうしたら、私はここに参ります。」
気配が消えた。
アンリ・フィリップは、燭台に灯りをともしたが、人影はすでに消えていた。
数日後、ルノーの新聞社の玄関の手すりに赤いリボンがまかれていた。
その夜、中庭を散策しているアンリ・フィリップに声がかけられた。
「明後日の夜、馬車が警備隊本部を出ます。」振り向かずにアンリ・フィリップは答えた。
「そうですか。足の速い馬を用立ててください。」
「はい。」
「馬の所在を気取られないようにしてください。」
「わかりました。」
影は消えた。