14章 ヴァレンヌ その1
ミラボー伯の突然の死は、民衆を深い悲しみの淵に沈ませた。パリでは葬列に全市民が参加し、深い哀悼の意を表した。マレーネも参加者たちに、白い花を持たせた。あの時、辻馬車を止めて、娼館になど行かさなければ良かったのか。マレーネは思い悩む。しかし、人の寿命など、神のみぞ知ることなのだ。
国民議会の議事堂に花を飾る。しめやかな雰囲気にふさわしい白ユリと紫のスミレをあしらった。
「ご苦労だね。マレーネ。」ピエールが声をかけた。「忙しいのに着てもらって」
マレーネは首を振った。
「忙しいのは、皆さんなんじゃ。これから大変でしょう。」
「うん。ミラボー伯の代わりは、誰もなれない。でも、代わりを見つけなければならないんだ。」
「どなたがなるの?あ、聞いたらまずいことだったかしら」マレーネは慌てて付け足した。
「タレーラン・ペリゴール殿さ。名門中の名門なら、王室とも釣り合いが取れるからね。」ピエールは、落ち着いた声でつけ足した。
誠実で優しい雰囲気は革命前と同じだ、マレーネは安堵した。
サン・ジュスト私設秘書が入ってきたので、マレーネは控室の外に出た。ドアの外で彼女は耳をそばだてる。部屋のなかの声が聞こえてきた。
「なぜ、ミラボー伯の収賄を明るみにしないんですか?ロベスピエール議員。我々を裏切っていた罪は白日の下にさらすべきです。」
「君の調査は素晴らしかったよ。サン・ジュスト君。だが、収賄はともかく、彼のおかげで国王とはうまくやれていた。今暴くのは得策ではない。」
「なぜですか?」
「国民議会の内輪もめが明らかになれば、議会は国民の信用を失ってしまう。そうすれば」
「反動貴族やマリー・アントワネットの思うつぼですか」
「そうだ。それに」
「それに?」
「ミラボー伯を失ったことは、我々より国王に不利になるだろう、そうすれば」
「そうすれば?」
「国王も王妃もいずれぼろを出す。我々は待てばいい」
人の心を芯から凍らせるような冷たい声だった。
マレーネは昔を思い出した。遠い昔、私の両親の葬儀の時に、警備隊に向かって行った少年。ヒューゴ・コルベールの平手打ちを食らいながら、貴族を絶対に許さないと叫んでいた少年。そして、下町の見習い弁護士として、貧しい人のために奔走したころ。ルノーの新聞に王政批判を書いた理想主義の青年。そんなピエールはもうどこにもいないのだ。
王宮に入ろうとしたマレーネをスイス傭兵が押し止めた。国王夫妻は誰も中に入れるなということだった。きっと、ミラボー伯が亡くなって、ショックを受けているのだろう。兵士と話しているうちに、王宮から一人の貴族が出てきた。フェルセン伯だった。きっと、マリー・アントワネット王妃を慰めに来たのだろう。しかし、フェルセン伯は、なぜか、マレーネを一瞬だけ見詰めた。フェルセン伯のような身分の貴族が平民を見るなど殆ど無いことであった。王妃から、自分の仕事ぶりついて聞いているのかもしれない。
ミラボー伯の死は、王室と議会の亀裂を深めた。新しく調整役となったタレーラン・ペリゴールに対し、国王も王妃も会おうとさえしなかった。やむなく議会は、ラ・ファイエット侯を同道させたが、ヴェルサイユ行進以降、ラ・ファイエットを疑っている王妃は会うことを拒んだ。
その影響は随所に表れ始めた。革命の歩みが止まった。人々はいらだち始めた。さらに、メートル法の測量まで、延期のうわさが流れた。
「なんでえ、何でもかんでも、拒否りやがってよ。」「噂じゃ、アントワネットは、タレーラン・ペリゴール議員が名門中の名門なんで妬んで、反対しやがるんだと」「俺もその話聞いたぞ。ハプスブルグ家より、ペリゴール家の方が古いもんだから、ヒステリー起こしたって」「キーキー喚いたんで、ルイ16世も逃げたしたんだと」「あんな悪妻貰って、天下の不作だぜ、俺らも飛んだとばっちりよ。」
食堂で常連たちが罵っている。
また、元に戻ってしまった。マレーネは、花をいけながらため息をついた。
「どうしました?マレーネ。」ラヴォアジエが入ってきた。「疲れているのですか?」
マレーネは首を振った。疲れているのはラヴォアジエの方だった。顔色もさえない。
「よう、ラヴォアジエ先生。しけた顔してよ。どうした?え?」一人がラヴォアジエにワインを注いだ。
「どうも、測量が延期になりそうなんです。」
「なんでだよ?」
「予算が下りないのです。」
食堂は険悪な空気に包まれた。
「国王陛下が、認めてくれ無いようで・・・」
やっぱり、アントワネットの嫌がらせか、常連たちが口々に喚く。
「少し静かにできねえだか。酒は楽しく飲むだ」サミュエルが仲裁した。
「みんな。お花をどうぞ。」マレーネは淡い色のスイートビーや、ヒナゲシを配った。
皆胸のポケットや、ボタン穴に花を挿した。空気が和む。マレーネはほっとした。
「悪かっただ。マレーネ。後で、払わせるだ。」「原価でいいわよ。小父さん。」
「なんで、国王陛下がうんと言ってくれねえんだよ?」落ち着きを取り戻した常連たちがラヴォアジエに尋ねている。
「詳しいことは、ルノーさんの新聞に載るでしようが、測りが決まれば、税金のごまかしはもうできなくなります。それで反対するものも多いでしょうね」ラヴォアジエはため息をついた。「バルナーヴ議員やタレーラン・ペリゴール殿も支援者を探してくれてます。」
「でもよう、」一人がぼやいた。「ミラボー伯がいてくれりゃ、こんなことにはならないだろうによ。」
本当にその通りだった。
誰もその時は気づかなかったが、議会の要だったミラボー伯の死によって、革命は迷走し始めたのだ。
下町の食堂で皆がぼやいていたまさにその時、テュイルリー宮の一室でも一つの密談が進みつつあった。
「逃亡計画はどうなっているのですか?フェルセン伯?」
その日、マリー・アントワネットは、寵臣のフェルセン伯に尋ねていた。顔色がやや青ざめている。
「ご安心下さい。王后陛下」
フェルセン伯は、声を潜め、逃亡計画を語りだした。
フェルセン伯の計画は、次のようなものであった。王と王妃は別々の辻馬車に乗り、王子は国王と、王女は王妃と同乗する。馬車には護衛のためのスイス傭兵を従僕の変装で同行させる。最短距離でパリを脱出して、遅くとも夜明けにはブイエ将軍の駐屯地近くまで行き、軍隊と共にオーストリアに脱出する。それは完璧な計画だった。しかし、この案には、マリー・アントワネットが反対した。子供たちと共に逃げることを望んだのだった。王室全員が乗るためには辻馬車ではなく、8頭立ての大型のベルリン馬車が必要になる。そのような馬車が通りを走れば、平民たちの耳目を集めるだろう。それに、大型であればあるほど速力は当然のことながら落ちてくる。一刻を争う逃亡計画に置いて、それは致命的だ。フェルセンは悩んだ。
平民の駆け落ちであれば、男は女に有無を言わせず、担いででも攫って行くだろう。しかし、彼は貴族中の貴族であった。平民のような粗雑な考えは、頭の隅にも浮かばないのであった。
いかにして時間を稼ぐか。これがフェルセンに与えられた難問であった。
そんな時、フェルセンは、テュイルリー宮の玄関で出会った花屋の女を思い出した。似ている。顔立ちではなく、姿形が、マリー・アントワネット王妃によく似ているのだ。フェルセンの心にある考えが浮かんだ。




