13章 メートル法 その1
サン・ジュストの筆によるものか、ジャコバン・クラブの「革命通信」は、ローズ・ノワールの直訴をトップ記事にした。革命通信は売れに売れた。パリ市民の期待も日々高まっている。誰もが明るい未来を思い描いた。
「相変わらず、ルノーの新聞は地味だ。また金欠になるだ。」食堂でサミュエルがルノーをからかった。
マレーネは安堵している。ルノーの新聞だけだった、ローズ・ノワールの話が出ていないのは。
「何で書いてやらねえんだよ。」常連が尋ねる。
「ローズ・ノワールが直にピエールに言った話だとしても、証人がいない。」
「マリー・アントワネット王妃じゃダメなのかい?」
「ああ、第3者の証言が必要だ。革命通信は書いても構わない、あれは、ジャコバン・クラブのパンフレットだからな、でも、俺のは小さくてもれっきとした新聞だ。裏の取れない記事はかけないよ、随筆なら別だけど。」
「じゃあなんで、随筆にも書いてやらないんだよ。」
「他の新聞と同じ記事じゃ、代わり映えがないじゃないか」
ルノーの言葉に皆納得したようだった。
「それじゃあ、私の意見を書いてくれませんか?」
皆が一斉に振り向いた。ラヴォアジエが立っている。
「よう、大化学者の先生。お久しぶり。」みんなが歓迎した。
ラヴォアジエは、前のようにワインを注文している。彼がテーブルにつくと、皆が集まってきた。ルノーも隣に座る。
「どんな意見なんです?ラヴォアジエ議員。」ルノーが杯をラヴォアジエに手渡しながら聞いている。
「度量衡の統一です。」
「度量衡ってなんだよ?」
「重さや長さの単位のことさ。」ルノーが説明した。
「じゃあ、あるじゃねえか。ピエやリーブルがよ。」一人がワインを飲み干しながら言った。
「それではダメなんです。」ラヴォアジエが説明し始めた。また、額の汗を拭きながら。
ラヴォアジエは、一々例を挙げながら、丁寧に説明し始めた。丁寧過ぎて、いつも皆飽きてしまうのだ。マレーネはくすくす笑った。久しぶりに心が軽くなる。ピエールやマリー・アントワネットのことを考えて重く沈んだ心が、ラヴォアジエの話を聞くことで、爽やかな風に息を吹き返すようだった。
「つまり、貴族や徴税人どもが、インチキしない測りを作るだ。」サミュエルが頷いた。
「そうです。でも、それだけじゃない。フランスだけでなくヨーロッパ全土にこの単位が普及できれば、みんな、貿易だってもっと楽にできるようになりますよ。」
「化学者の先生が、何で測りにこだわるだ?」
「我々の実験には正確な測定が重要なんです。それが、国どころか、地方でも違ってしまうと・・・」そう言うと、ラヴォアジエはまた額の汗を拭いた。
マレーネはヤン老師の話を思い出した。老師の国では、度量衡の統一は2000年ぐらい前から行われているのに、と、老師が不思議がっていたっけ。
「マレーネ、どうしたんだい、ぼんやりして?」ルノーが尋ねた。
「老師の話を思い出したの。シンでは、もう2000年も前から、重さも長さも統一されてるって」
「へえ、本当なんですか?ラヴォアジエさん?」
「ええ、本当です。」
「やっぱりフランスは遅れてるんだなあ」ルノーがため息をついた。
「でも、私の考えは、シンとは違います。シンでもフランスでも、人間の体を基にした単位を使っています。ですが、メートル法は、北極から赤道までの距離から作る予定です。」
「ええっ?!そんな途方もねえ長さ、どうやって測るんだよ。」
「もちろん全部、測るんじゃありません。ヨーロッパを縦断する測量をして、そこから、地球の1/4の距離を計算するんです。」ラヴォアジエは微笑んだ。
マレーネは感心している。ラヴォアジエは自分たちとは全く次元の違う所を見ている人なのだ。明日のパン、王室への不満、そんなどろどろとしたものとは、全く無縁の世界がここにある。
「どんなでっかい長さ、どうやって測りに使うだ?」
「実用的には、その1000万分の1を使うんです。1mと呼ぶつもりです。大体このぐらいでしょう。」
ラヴォアジエは、隅にあった棒をつなげて、新しい物差しを作った。皆棒をいじくっている。マレーネも手に取ってみた。それは不思議な長さだった。3ピエより大きいが、簡単に目測で測ることもできない。かえって不便ではないのだろうか。皆、首をひねっている。
「マレーネ?どうしました?」不思議そうにしているマレーネに、ラヴォアジエは微笑んだ。
「とても不思議な長さね。ピエだったら、男の人の足で測れるのに・・・」
「なんでこんな、中途半端なんだよ?」
「ピエは、人間の体の単位ですが、新しい単位は、地球を基にしてますから、少し測りにくいでしょうね。メートルは、いわば地球の単位なんです。」
地球の単位。考えもしないことで、皆目を丸くしている。
「でもよう、俺たちにゃ、でっかすぎて、訳わかんねえ話だがよ、大化学者の先生、賛成してくれるもの好きはいるのかよ?国民議会のなかにゃ?」一人がワインを注文するついでに尋ねた。
「ええ、殆どいませんが、一人だけ」
「誰だよ?」
「タレーラン・ペリゴール殿です。」
その言葉にマレーネははっとした。
「誰だい?ルノー、その、タレーラン・ペリゴールってのは」
「酷いな。俺の新聞に書いたはずだぞ。」ルノーは苦笑した。「聖職者の特権廃止に最初に賛成した、オータン司教じゃないか。彼はシイエイス司祭よりも進歩的だぜ。」
「殿ってんだから、貴族なんだろう、どんな貴族だよ、ルノー?」
「そこまでは、俺も・・・」
アンリ・フィリップから聞いた話をしてみようか、マレーネは躊躇した。
「ペリゴール家はシャルルマーニュの直系ですよ。名門中の名門です。」代わりにラヴォアジエが説明した。誰でも知っていることなのだ、マレーネはほっとした。
「じゃあ、ブルボン家の国王よりアントワネットのハプスブルグ家より名門じゃねえか」
「そんな大貴族様がねえ」
みんな感心している。
「ラヴォアジエ議員、後でもう少し詳しく説明してください。連載記事にします。」
「そういやあ、ミラボー伯もアンリ・フィリップ侯爵様も、さっぱり姿を見せねえだ。」
サミュエルが言うと、ラヴォアジエはすまなそうに説明した。
「みな、新しいフランスを作るために忙しいんですよ。」
その夜は、ラヴォアジエを囲んで、久しぶりに楽しい酒宴になった。王妃の話も、革命への不満も、ピエールたちの話も出ず、マレーネは心から楽しめた。ラヴォアジエの話は、自分の研究や実験の話、メートル法の測量地点、趣味や家族のことなど多岐にわたっていた。勿論、マレーネたちには、科学の研究の話など分からない。しかし、楽しげに語るラヴォアジエの姿は見ていて心休まるものだった。ふと、マレーネは、あのコルシカ人士官候補生のことを思い出した。あの時、ミシェルを学校に行かせることに決めたのだった。そう言えば、アンリ・フィリップの所にもしばらく行っていない。ミシェルは元気にしているだろうか。
「マレーネ、退屈でしたか?」ラヴォアジエが声をかけた。
「いいえ、あの士官学校の生徒のことを思い出したの。」
「ナポレオーネ君でしたね。きっと元気でやってますよ。それより、弟さんは?」
「しばらく会ってないわ。」
「そいつはいけないな。」ルノーが口をはさんだ。「ケガも直ったんだし、いってやらなきゃ。」
マレーネは頷いた。




