2章 復讐の刃 その2
「すまないだ。ユラン隊長殿。」座ったユランに、サミュエルはワインを出した。
「まだ何も頼んでないぞ。」
「これは、あっしからのおごりですだ。」
ワインの杯を取ったユランにルノーが話しかけた。
「今度の事件で首謀者はどうなりますかね。」
「もう、取材か、新聞記者君。」杯を干すと、ユランは言った。「カトリーヌ夫人はお咎めなし、貴族だからな。モランは詐欺罪で牢獄入りの後鞭打ち、ジャン・ルクレールは、少なくともブラン夫妻殺害の首謀者として死刑。コルベール隊長は余罪を追及するつもりらしい。まあ、ヒューゴ・コルベールも、ブラン事件の方がついて、ほっとしているだろうよ。あ、や、すまん。」マレーネを見つけて、ユランは謝った。
「なんで、ヒューゴ・コルベールがほっとしてるだ?」
「何でも、ヒューゴ・コルベールも、ブラン事件の捜査を、独自でやってたんだそうだ。如何せん相手が貴族の館に逃げ込んでるんで、手が出せなかった。あいつもブラン夫妻があんなことになったのを、あいつなりに気にしていたらしい。」
意外な話に、マレーネは聞き入っている。
「ま、こういっちゃなんだが、ローズ・ノワール様様ってとこもある。」
のんびりとした雑談が続いた。話すことは日常のこと、パンの値段のことや、賃金のことだった。
不意に扉が勢い良く開けられ、二人の警備隊員が飛び込んできた。
「ユラン班長殿。至急本部にお戻りください。ヒューゴ・コルベール隊長の命令です。」
「わしは、非番だぞ。何があったんじゃ。」
「ジャン・ルクレールが急死しました。おそらく毒殺です。」
「何?」店の客たちもどよめいた。
「あれほど、外からの差し入れは禁止だといっておいたはずだ。」
「どうも、内部に手引きをした奴がいたようです。」
「そいつをなぜひっ捕らえん!」
「もう、逃亡しました。急ぎお戻りを。」
ユランが隊員たちと飛び出していった。ルノーもあとを追いかける。
翌日、セーヌ川に、若い警備隊員の死体が上がった。
「口封じだ。」サミュエルの食堂でルノーがピエールと話している。「どうも、殺された隊員は借金で苦しかったらしい。そこを付け込まれたんだろう。」
「家族は?」ピエールが聞いている。
「病気の奥さんと子供が一人。まだ小さいみたいだなあ。」
「何とか、暮らしていけるようにできないかなあ。」ピエールがぽつんと言った。
モランの次はジャン・ルクレール、ジャン・ルクレールの次はその隊員。貴族はいつもそうだ。自分だけ肥え太り、貧しい平民のことなど考えもしない。マレーネは窓際の花を代えながら、唇をかんだ。
「ねえ、ルノー、僕なりの事件の分析を君の新聞に載せてくれないかな。背景にはインフレと賃金の低下があるって、警備隊員まで貧しさのあまり買収されるんじゃ、治安も何もない。インフレを抑えて民衆の暮らしを楽にするには、貴族の特権を抑える必要があるって」
「いい考えだ。『下町の見習い弁護士、事件を斬る』って題で、連載させてもらうよ。」
二人の会話も遠くに聞こえた。
ある夜、マレーネはまた、カトリーヌ夫人の館に忍び込んだ。事件も人のうわさに登らなくなったためか、館の空気も穏やかだった。カトリーヌ夫人がいる。小間使いが何か気に障ったことをしたのか、持っていた扇で小間使いを打ちすえている。嫌な女だ。
いつもの通り、カトリーヌ夫人は友人たちとトランプをしている。そのうち、何か焦げ臭いにおいがしてきた。だらしのないコックが、肉でも焦がしたのだろう。カトリーヌ夫人は執事を呼ぼうとした。
「火事だ!」
不意に奥から声が上がり、炎が噴き出した。皆悲鳴を上げて逃げ惑う。
「奥様、こちらです。」
召使に手を引いてもらい、ようやく逃げ出すと、館は火に包まれていた。
「何事です。お客様たちは。」
「皆様ご無事です。家の者たちも。」煤まみれになった執事が答えた。
その時、カトリーヌ夫人の手を引いていた召使が執事に近づくと、素早く当て身を食らわせた。
「そなたは何者じゃ。」
言うより早く、召使は夫人にも当て身を食らわせ、担ぎ上げた。
「カトリーヌ夫人、起きていただきましょう。」遠くで声がする。
目をさました夫人の前に、黒尽くめの若者が立っていた。
「お、お前は」
「カトリーヌ夫人、ジャン・ルクレールを警備隊員を使って始末したのはあなたですね。そして、モランも、さらに、5年前、ブラン夫妻の始末をジャン・ルクレールに命じたのは、あなたですね。」冷ややかな声だった。
「それがどうしたというのじゃ。たかが平民など。この無礼者。」
その言葉に、青年の肩が震えた。
「そなたは何者じゃ。」
「私はローズ・ノワール。カトリーヌ夫人、今までの報いを受けて頂く。」
その言葉に、震えあがったのはカトリーヌ夫人のほうだった。
パリ警備隊もカトリーヌ夫人の館に到着していた。
「夫人はどこだ。」ヒューゴ・コルベール隊長が聞いている。
「わ、わかりません。」執事が半泣きになっている。
「隊長、やはり付け火でしょうか。そうすると犯人は、」若い副官が尋ねた。
「間違いない、ローズ・ノワールだろう。しかし、なぜ夫人を誘拐したのか?手分けして探せ。」
コルベールが連れた一隊が、森の端まで来たとき、女の悲鳴が上がった。駆けつけたコルベールたちの目の前に女が倒れている。服装から明らかにカトリーヌ夫人だとわかる。女は肩で息をしている。無事だった。
「ご無事ですか。夫人。」
そう言うと、ヒューゴ・コルベールは夫人を抱きかかえた。副官が松明を持ってくる。浮かび上がった夫人の姿に、二人とも声が出ない。
「またまた地味だあ、お前さんの新聞は。」サミュエルが呆れている。
「さすがに今回は、パレ・ロワイヤルの新聞も書いてるぜ、まあ、こんな大騒ぎになっちゃあ、書かねえわけにはいかねえや。」常連たちが口々に言った。
「『怪盗ローズ・ノワール、カトリーヌ夫人に天誅を下す』だ。このぐらい派手でないと、客は呼べねえだ。」
パレ・ロワイヤルの新聞の一面を見せながら、サミュエルは言い切った。
「今回、コルベール隊長が緘口令を引いたらしくて、ユランのおっさんたちは勿論、いつもカトリーヌ夫人に酷い目に遭っていた召使たちも口が固くてね。わかったのは、付け火だったこと。そして、カトリーヌ夫人が修道院に隠棲したってことだけさ。せめて、ローズ・ノワール自身のインタヴューでもできればなあ」
「おいおい、君も焼きが回ったのかい?ルノー。」ピエールが笑っている。「でも、君の新聞はいつも買ってるよ。僕だけじゃなく、ここに居る連中はみんな。」
「大変な騒ぎになりましたね。隊長。」パリ警備隊本部の隊長室で、窓から外を見ながら、若い副官がぼやいている。「義賊ローズ・ノワールと、市民は、あの泥棒を英雄扱いです。」
「何が英雄なものか。放火・殺人・強盗の犯罪者に過ぎん。」ヒューゴ・コルベールは椅子に座ったまま、吐き捨てるように言った。
「いっそ、本当のことを発表したらどうです?」
「ダメだ。カトリーヌ夫人から、一切を不問にしろと圧力がかかってきた。まあ、彼女からしたら・・・」
「公表してくれとは、口が裂けても言えないでしょうね。」副官が言葉をつづけた。「髪の毛を殆ど丸坊主にされた上に、額にV(泥棒の頭文字)の字をサーベルでつけられたことが明るみになったら」
「貴族の夫人にとっては、死ぬ以上の屈辱だろう。宮廷には出られない。それどころか、一門全てが追放だろう。だから、修道院に逃げ込むしかなかった。若僧め、それを承知でやったんだろうが、恐ろしいやつだ。」ヒューゴ・コルベールは唸った。
「何者なのでしょう?ローズ・ノワールとは。」
「義賊気取りの貴族のボンボンと思い、俺も奴を甘く見ていた。」コルベールの目が光る。
「隊長…」
「副官マシュー・マルソー、ローズ・ノワールのことでわかっていることを言いたまえ。」
「は、身長は5ピエ(フィート)半、やせ形、全身黒尽くめで、仮面で顔を隠したかなり若い男。身が軽く、両手効き、短剣と長剣を扱う。剣の腕は、ルクレールを一撃で倒しているのでかなりの上級、変装も行う。以上です。」
「一つ抜かしているな。」
「は?」
「カトリーヌ夫人に対してかなりな憎悪を持つ。」
「はあ?」
副官の驚きを楽しむかのように、コルベールは言葉をつづけた。
「ローズ・ノワールが起した事件は、どんな事件かな?」
「まず、モラン商会の放火。次に、ルクレール捕縛、そして、一昨日の、カトリーヌ夫人の事件です。」
「この3つの事件に共通する人物がいるだろう。」
「え~~と、あ、カトリーヌ夫人。じゃあ、ローズ・ノワールは最初からカトリーヌ夫人が目的だったんですか。」
「断言はできんがな。」
「カトリーヌ夫人に恨みを持つ貴族の若者ですか。そして、剣の腕も立つ。」
「貴族と決めつけるのは早計だ。」
「じゃあ、平民もですか?でも、カトリーヌ夫人を恨んでいる平民は、それこそ履いて捨てるほどいますよ。」
「平民であれだけの腕の男は殆どいないはずだ。」
「雲をつかむような話ですよね」マルソー副官はため息をついた。
「それでもやらねばならん。パリ警備隊の名誉に賭けてな。」コルベールは静かに言った。